「クリスチャンの親しい友人がいます。私自身はキリスト教徒ではないのですが、その友人とは、長く関係が続いています。先日彼女から、「神様の愛を知って人生が変わった」と言われました。彼女とは宗教的な話はほとんどしませんので、敢えて質問はしなかったのですが、正直気になっています。一人一人の体験違うとは思いますが、一般的に、どういう体験なのか教えていただけますか。」
ご質問をありがとうございました。
クリスチャンの親しいご友人がおられるのですね。
きっと良いご友人なのでしょうね。その方は質問者さんのことを大切に考えてくれているのだと思います。信仰は個人のものですから、ご友人は、質問者さんの意志を尊重して「敢えて宗教的な話題に触れない」ように心がけているのだと思います。
ぜひ機会があれば、そのご友人に直接聞いてみて下さい、きっと喜んで話してくれると思います。
さて、質問者さんも書かれているように、「神の愛、イエス様の愛に触れた時」の体験は、個々人で違います。
ここでは、必ず体験するだろう、3つのことを書いていきたいと思います。
①「自分の全存在が、支えられている」という体験。
②「生きる目的と力」が与えられる体験。
③「不思議な愛情や知恵」が与えられる体験。
(その他、たくさんの体験があるとは思いますが、今回はその3つに絞ります。特に①が今回の中心です)
①「自分の全存在が、支えられている」という体験。
「たいせつなきみ」という絵本があります。(マックス・ルケード作、いのちのことば社)
木の小人の国(ウイミックス)の話で、主人公はパンチネロと言います。
(聞いたことはありますか。)
その国では、互いの身体にシールを貼りながら生活をしています。
相手が凄いと思えば「金色の星シール」、ダメだと思うと「灰色のダメシール」
主人公はいつも失敗ばかりをしているので、カラダに「ダメシール」をたくさんつけられていました。
ところが、ある日、パンチネロは、ルシアというウイミックスの少女に出会うのです。
彼女は「ダメシール」を一つもつけていません。それどころか、「星シール」も一つもつけていないかったです。
ルシアに「丘の上の、私たちを作った彫刻家のエリの家に行ってごらん」とに言われ、パンチネロは出かけます。
そこでエリから、「たくさん『ダメシール』をつけてきたね。私のところに毎日通ってごらん。大切なのは、『仲間のウイミックスがどんなシールを貼るかではなく』、『私がお前のことをどう思っているか、そしてお前がそれを信じるかどうか』なんだよ」と言われるのです。
その部屋から出る瞬間、パンチネロのたくさん貼られた「ダメシールの一枚」が、コロンと剥がれて落ちるのです。
ぜひ、本作品をお読み下さい。感動モノの絵本です。
作者は、アメリカで牧師もしている方ですので、「神様の愛」をテーマとした作品となっています。
ある方は、久しぶりの同窓会に出て、懐かしい反面、とても嫌な思いをしたと言われました。
男性は、会社の規模や出世。女性は、結婚や子供や若さ等。まるで猿山のサルのように「マウント(上下の確認)をする人がいて、悲しくなったと言っていました。
でも、その方が一番悲しく感じたのは、自分の中にも、隠してはいても、同じ比較の思いがあり、「あの人より上よね」「あの人には負けたわ」と心では思っていたこと。参加前に、肌の手入れやダイエットをしたことも思い出し、「自分自身にも悲しくなった」と言われたのです。
私たちは、比較の中に生きています。そして「優越感で安心」したり、「劣等感で落ち込んだり」するのです。
「花はそれぞれの花で美しい」と言いながら、無意識のうちに「格付け」をしているのです。
ここで、「本気で」、「創造主である神様を信じる」価値があります。
(この「本気」というのが、大事です。「知識だけ」では、比較の縛りから抜け出せません)
創造主を知り、その「価値観」を知り、その「愛情」を体験すると、「創造主のお考え、愛情」が心の中に浸透してきます。
そうすると、「あなた自身の考え方」が「変えられる」のです。
「自分の全存在が、支えられている」ことが、理屈ではない、実感で分かるようになるのです。
すると……。
「自分の価値」を比較で見なくなっていきます。(この解放感は、凄まじいものです)
「自分」を創造主の愛で、「慈しむように」なります。(この温もりも、素晴らしいです)
「比較しなくていい」……自分が「そのまま愛されるという実感」は、確実に「人生の土台」を変えるものとなります。
多くの神様の愛に出会った方は、このことを体験して、「人生が変えられた」と言われるのです。
これも導き(神様のお膳立て)と考えて、一度クリスチャンのお友だちに、「神様の愛を知った経緯」を聞いてみてください。きっと素晴らしいお証を聞けると思います。
②③は、「神の愛」を知ったおまけのようなものです。
②「生きる目的と力」が与えられる体験。
聖書によれば、
人生は、偶然ではなく、与えられたものです。
ですから、「人生には目的」があります。
それが分かる時に、「生きる力」が湧き上がります。
それを、神様と一緒に生活しながら、一つ一つ発見していく、人生は「宝探し」のようなものなのです。
以前も書きましたが、私はクリスチャンになる前、「なぜ生きるのか」と真剣に考えていました。
生きる目的などは無いのでは、と思った時、全てが虚しくなったのです。
伝道者の書(旧約聖書)
1:1 エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。
1:2 空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
1:3 日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。
1:4 一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。
これはソロモン王の言葉ですが、私も同じような心境でした。
しかし、イエス様を信じることができた時(自分で信じたというよりも、信じられるようにしてもらった、が感覚として近いです)、心の中に希望に光が灯ったのです。
エペソ(新約聖書)
2:10 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。
「神様に造られたこと」「自分の人生にも計画があること」「良い計画があること(それをする力も与えられること)」を知った(解った)時、嬉しくって涙が出そうでした。
(こんなお話をすると、時間がいくらあっても足りません・・・)
私自身も「神様を知り、イエス様を信じたこと」によって。「人生が変えられた」一人なのです。
③「不思議な愛情や知恵」が与えられる体験。
イエス様を信じるようになり、「お祈り」と言うものを覚えました。
それは最初は、一方的に語る「お題目のようなもの」だったのですが、
祈りは「神様との交わり」と教えられてから、「神様との人格的な愛情の交わり」を体験できるようになりました。
「愛されると、愛することができる」と言われます。
神様の愛が実感として「分かる」と、人々へ優しさ(愛情)も、自然と増し加わることに気がつきました。
神様に「受け入れられているから」、少しは人を「受け入れられるように」なる。
「赦されているから」少しは「許せるように」なる。
「たくさん愛されているから」、ほんのちょっとだけ「愛が増し加わるように」なる。
こんな感じです。(頑固なので、ほんの少しづつだった・・・です)
でも「毎日祈る」と、確かに「いろいろな神様からの助けが与えられる」のです。
実はこのブログも、祈りながら書いています。(もし、読んで得るものがあったとすれば、それは神様からの智恵です)
Ⅰコリント(新約聖書)
12:8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、
ルカによる福音書(新約聖書)
12:12 言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。
私の知人が、アメリカに留学した時、ホームステイ先がクリスチャン家庭でした。
信仰も神様もイエス様も全く知らなかったのですが、その家庭の暖かさに、特にクリスチャンのお母さんの暖かさに触れました。
彼女はそこで、お母さんからイエス様のことを教えられました。片言の英語しか話せない彼女でしたが、なぜだが「神様の愛」が分かったというのです。
英語の単語を通じて、「不思議な温もり」が彼女の心に注がれ「彼女は神様を信じ、Jesus(イエス様)を信じました。
神様を信じると「不思議な愛情や知恵」が与えられます。
こんな「プレゼント」を、質問者さんも頂きたいと思いませんか。
リンゴを知るには、見ているだけでは分かりません。食べてみることです。
そうすれば、酸味も甘みも分かります。
ぜひ、クリスチャンのお友だちに、いつか質問してみて下さい。
「あなたは神様を信じて、どんなふうに人生が変わったの?」
もしかすると、神様はあなたの人生の中で、「そのご友人と出会うよう」に計画して下さったのかもしれないのです。
質問者さんの、これからの「人生の祝福」をお祈りしています。
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