人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から

世界のベストセラー聖書の価値観から、生きるを考えます!(モノの見方が変わると、とても楽になります)

どうして、弟子の「ユダだけ」が「自殺」をしてしまったのですか?

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イエス様の弟子は12人いて、イエス様が十字架にかかった時に、全員が裏切り逃げてしまったと聞きました。どうしてユダだけが自殺をしてしまったのでしょうか。他の弟子たちは、そこまで悪くなかったのですか?教えて下さい。

 

ご質問をありがとうございました。

ユダが自殺をしてしまったのは、事実であり、有名な話です。

ユダは、銀貨30枚で、イエス様を宗教指導者に売ってしまいました。(他の11人とは別行動でした。)

 

彼の自殺の原因は、「罪責感」です。

彼は、「罪責感」によって、乗ってはいけない「悪い思い」を、心に入れてしまったのです。

 

しかし、聖書の基準で考えれば、大きな罪も小さな罪も、罪には変わりません。

(小さいから「自分は大丈夫」と安心することは、むしろ危険です。)

他の11人の弟子たちも、イエス様が逮捕された時、皆逃げてしまいました。特にペテロは、三度「自分はイエスを知らない」と告白したのです。皆多かれ少なかれイエス様を裏切ったのです。

 

ただしユダには、そうなるべき「決定的な理由」がありました。

私たちが「悪魔に利用」されないための「注意事項」として、ユダのことを知るのは意味があります。

いくつかのポイントで、考えていきます。

 

①ユダには、悪魔のひどい攻撃があった。

悪魔は、イエス様の「救い主の使命」を破壊しようとしていました。

イエス様の公生涯の最初から、攻撃を仕掛けました。(マタイ4章)

イエス様が、悪魔の攻撃に打ち勝つと、次の「別な方法」を虎視眈々と伺っていたのです。

 

イエス様に、プライドを傷つけられた宗教指導者たちが、「ローマへの反逆」をでっち上げ、イエス様を裁判で死刑にしようと考えました。

ユダはそのために、利用されたのです。

しかし、そんな人間の策略の「背後」で、「悪魔」が働いていました。

 

このように書くと、「オカルト」や「空想話」のように思うかもしれません。

しかし、「魔が差した」と言葉があるように、人の心の中に「ささやく声」は、事実として存在します。

自殺の名所で「死ね。死ね。」と声が聞こえたり、心の中で「殺せ、殺せ」という声を聞いていた人物が、通り魔で事件を起こしたという週刊誌の記事も存在します。

(週刊誌の記事なので、その真偽を確認することは難しいですが、、、)

 

しかしながら質問者さんも、実感として「心の中にささやく声」に気がつくことはありませんか?

「自分の思考」を越えた「神様の導き」も「悪魔のささやき」も存在すると考えていた方が、安全です。「悪魔のささやきだ」と分かれば、注意し、対策を打てるからです。

 

聖書もその考えに同意します。

1ペテロ5:8 -9「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」

 

②ユダは、悪魔に「利用されやすい心」を 持っていた。

ユダの持っていた心は「高慢」です。

ユダは、イエス様の集団の財布を預かる会計係でした。それなりに優秀だったでしょう。

(ただし、聖書にはユダはお金を誤魔化していたと書かれています。ここにも悪魔が付け入るスキがあったのです。)

 

聖書には、イエス様との交わりがほとんど書かれていませんので、孤高の存在だったかもしれません。

自尊心が高かった可能性があります。

自尊心が高く、人と交わらない、、、そういう人の特徴は、「自分は正しい」と思い込みます。

そういう人は、「人を批判」します。

自分を顧みることをせずに、「人を変えよう」とします。

「人のせいにする」ことが多いのです。「憎しみ」を 持つことも多いのです。

 

これは、すべて悪魔の特徴です。

(気をつけましょう。)

そういう気分になった時、悪魔は「そよ風のように」ターゲットの人物の心に「邪悪な心」を投げ込みます。

するとその人は「自分の考え」だと思い込んで、パクリと「その邪悪」を飲み込むのです。

そうなると「邪悪は、自分の考えだ」と思い込んでしまいます。(この騙しは非常に危険です。)

 

以下の聖書箇所を読むと、ユダは何度も「サタンのささやき」を心に入れていたことが分かります。

ルカ22章

22:3 さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。

22:4 ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した。

22:5 彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。

 

ヨハネ13章

13:2夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、

13:27彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼に入った。

 

「悪魔のささやき」を無批判に、自分の心に入れてしまうことは、大変恐ろしいことなのです。

 

ここで一旦、まとめます。

悪魔は、ある人間をターゲットにして、攻撃を仕掛けてくることがあります。

多くの人は、無自覚の中での「悪魔の攻撃」に対して「無力」です。

 

しかし「対策」を打つことはできます。

それは、高慢の逆を行くことです。

それは「へりくだり」です。

悪魔はへりくだりが嫌いですから、そこにはついていくことはできません。

 

もう一つ重要なことがあります。

それは、イエス様の「十字架の赦し」と「その取りなしの祈り」の力です。

同じくイエス様を裏切ったペテロはどうでしょう。

ペテロは、自分が助かるために「三度もイエス様を知らない」と告白しました。

(この罪責感も、大きいものです。)

 

しかし、ユダは自殺をしましたが、ペテロは赦されました。

次回に触れますが、ユダが自分で自分を裁いたのに対し、

ペテロは、イエス様に近づいたのです。(赦しを求める心です。)

 

イエス様は十字架上で、以下のように祈られました。

ルカ23:34 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 

それは周りのイエス様を誹謗中傷する人たちに向けられたものだけでなく、

ペテロにも、ユダにも、そしてこの文章を読んでいる「あなた」にも向けられた「とりなしの祈り」です。

 

イエス様の教えは、

人生失敗しても、挽回があるという教えです。

赦しがあり、回復があり、逆転があるのです。

 

もし誰かが、自殺をしたいような罪責感を持ったとしても、

「自分で自分を裁かない」で下さい。

 

イエス様に近づいたならば、必ず助けて頂けるのです。

一度や二度のチャレンジで諦めないで下さい。

 

もし習慣的に悪魔の言葉を受け入れていた場合、引っ張る力を振りほどいて、

イエス様に近づくには、かなりの力が必要です。

それは選択の力です。

方向転換です。(これを「悔い改め」と言います。)

 

悪魔は、総攻撃をしかけてきます。

しかし、あなたがイエス様に飛び込めば、すべてが静かになるのです。

 

次回は、「自分の人生を祝福で歩むのは、自分自身である」

(悪魔の誘惑を聞く必要がない)

という観点で、続きを書く予定です。

祝福をお祈りしています。

 

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イエス様が「弟子の足を洗った」そうですが、どういうことですか?

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イエス様が、最後の晩餐で、弟子たちの足を洗ったと聞きました。

何か「深い意味」があると思いますが、どんな意味でしょうか?

 

「洗足式」の意味ですね。

イエス様は、十字架にかかられる直前、最後の晩餐で、弟子たち全員の足を洗いました。

その中には、イエス様をこの後裏切る、ユダも含まれていました。

イエス様は、ユダが裏切ることを知っていながら、足を洗われたのです。

 

今回、お伝えしたいポイントは、「自分の汚いところに触れて頂くと、人はその人を愛するようになる」ことです。

弟子たちが、イエス様を後に命がけで愛した秘訣(理由)を見ていきます。

しばらくお付き合い下さい。

 

①【愛は関係性が大事である。】

弟子たちは、イエス様のことを当時、スーパーマンにように思っていました。

「素晴らしいお話」をされ、「病気を奇跡で癒し」、「自分たちをローマ帝国の圧政から助けてくれる解放者」と考えていました。

「自分たちの罪を赦して下さる、救い主」とは思っていなかったのです。

 

ユダが、イエス様を裏切った理由は、一つです。

「イエス様が逮捕されたならば、イエス様は武力蜂起をして、ローマを攻撃し、我々を解放してくれる」「貧しく弱い人たちから、手を引いて、本来の仕事をしてくれる」と思ったからです。

彼は、イエス様が「武力蜂起」をすると思い込んでいました。

(だから、本当に十字架にかかってしまうと分かった時、絶望し、自殺をしてしまったのです。)

(彼も、実はイエス様を愛していたのです。)

 

一番弟子のペテロの足を、イエス様が洗おうとした時、

ペテロは「先生、私の足を洗わないで下さい。」と拒否しました。

しかしイエス様は、「わたしがあなたの足を洗わないと、あなたとの関係性がなくなってしまう。」と言われたのです。(深い意味ですので、解説を後の②でします。)

ペテロは、イエス様のことが大好きでしたので、それでは困ると思って、「では、足だけではなく、手も頭も洗って下さい。」とお願いしました。

(しかしイエス様は、「わたしを信じている者は、足だけ洗えば良い」と言われ、ペテロの足を洗われたのです。)

 

ここからがポイントです。

イエス様は、「足を洗う」という象徴的な行為を通じて、「弟子との関係」を作られた、のです。

 

②【罪をぬぐい、赦されたという体験が、イエス様を愛する動機となる。】

当時、道は砂利道で、砂埃が舞っていました。靴はサンダルのようなもので、その足は泥だらけでした。

その「自分の足」を、先生である「イエス様」が、片方ずつ丁寧に洗われたのです。

足の指の間も、一本ずつ丁寧に洗われました。そして優しく手ぬぐいで拭かれました。

弟子たちは、申し訳ないと思いつつも、気持ちが良かったはずです。

 

これは私たちの「罪の赦し」を現しています。

イエス様は、足を洗うことを通じて、体験的に、「罪の赦し」を味わせたのです。

 

「その恥ずかしさ」「その申し訳なさ」「その有り難さ」、、、、

弟子たちは、この時に「実感」しました。

足を洗って貰った「気持ち良さ」を通じて、「汚いものを、綺麗にして貰った喜び」を感じたのです。

 

それが、十字架と復活の後になって、聖霊が「弟子たちの心」に働いた時に、

弟子たちは「その真意」(罪の赦し)を悟ったのです。

 

「イエス様は、私の罪のために死んで下さったのだ。」

「イエス様は、私の足を洗い、本当に汚い私を綺麗にして下さったのだ。」

その真意を悟った弟子たちは、

「十字架上で、命をかけて自分を愛して下さったイエス様」に対して、

文字通り「命をかけて、イエス様を愛し」、「命をかけて、イエス様からの使命に従おう」としたのです。

 

これが、イエス様のために、死んでいった(殉教した)「弟子たちの心」です。

 

イエス様との(体感するほどの)、関係があり、

そのイエス様から、最も汚いところを「触れられ」、「認められ」、「赦され」、「綺麗にして頂いた」、、、

その体験が、「イエス様を愛し」、「お従いしよう」という心に繋がったのです。

 

イエス様を信じ、自分の罪を悟り、体験的に「イエス様の愛と赦しに触れられた者」は、

当時の弟子たちと「同じ体験」をします。

(私も、その体験をした一人です。)

 

これが、イエス様が「弟子の足を洗った」意味です。

(イエス様の愛は凄いですよね。)

祝福をお祈りしています。

 

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。……わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:12~13)

 

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心の中に「良くない思い」が湧き上がります。(その2)弱さを直視できる力。

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自分の中の「汚い、 見たくない心」を消す方法、克服する方法のご質問、

23歳の学生の方へのお答えの第2回です。

①「自分の中の闇」に気がつくこと、認めること。

②闇を克服する「処方せん」を知ること。

③解決の力を持った、「光の助け」を受けること。

 

先回は、①と② の導入まで書かせて頂きました。

「心の闇」を克服するには、「闇を直視する」必要があります。

しかし、これがなかなか難しいのです。

それは、闇を直視すると、「恐ろしい」と感じるからです。

闇を直視したら、「自分がどうかなってしまうのではないか」、と言う「本能的、直感的な恐怖」があるからです。

 

特にプライドが高いと(自分を正しいと思いたい人は)、自分が処理できないものは、無意識のうちに避ける傾向があります。

そういう方の場合、「闇を直視」できません。

「直視」できないと「対処」できません。

手がつけられないまま、泥沼化します。

すると今度は、少しでも「闇」が見えると「パニック」になります。

人によっては錯乱し、「わめき散らし」ます。

これも、見ないための「無意識の防御反応」なのです。

 

質問者さんは、「自分を嫌な奴だと思う」と、

「闇を直視」しておられます。

それはとても素晴らしいことです。

本日は、その上で、

②闇を克服する「処方せん」を知ること。

③解決の力を持った、「光の助け」を受けること。

を書いていきます。

 

②闇を克服する「処方せん」を知ること。

「闇を直視」する時、質問者さんは「どんな気持ち」になりますか。

「辛い気持ち」ですか「落ち込み」ますか。

 

「闇」を見続けると「闇の奥、深み」が見えてきます。

また人生でやってしまった「他の闇、失敗」を思い出します。

闇がどんどん「膨れ上がる」のです。

それが、あなたのキャパシティ(度量)を越える瞬間がやってきます。

 

それでも「闇を直視」できるには、自分の力を超えた「絶対的な支え」「赦し」が必要です。

先回ブログの最後に、以下の文章を書きました。

「陸」から「水に落ちた人」を助けようと思うなら、しっかりと「陸」につながっていなければなりません。いざとなれば、すぐに安全なところに行ける準備(装備)ができていないと、危険です。

闇を直視しようとする場合、「直視ても大丈夫」と言う「絶対的な安心材料」が必要です。

 

この安心材料(処方せん)が「イエス様」なのです。

イエス様は、あなたの「すべての罪」を知り、その上で「受け入れ」「愛して」「赦して」下さる存在です。

1ヨハネ3:20 「たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。」

 

自分自身が「自分を受け入れられない」としても「自分を許せない」としても、

イエス様は、私より「大きな心」で、あなたを「受け入れて、愛し、赦して」下さっているのです。

 

「このような存在、考え方があるのだ」と、「知る」だけでも「人生が変わり」ます。(自分の愛、人間の愛を越えた愛です。)

 

イエス様はきっとこう言われます。

「この誘惑に乗ってしまったんだよね」

「ここが問題だったね。」

あなたが直視できない、「あなたの闇の奥、その構造」までも、

イエス様は直視され、あなたに手を伸ばされるのです。

(この愛情に触れて頂くと、心が融けてしまいます。)

 

自分の一番酷いところを見て、その上で「受け入れてくれる存在」は、とても有難いのです。

「荒海の港」のような存在です。

怖いことが起きたなら、港に逃げ込めば良いのです。

 

小さな子どもは、お母さんに抱っこされていたら「怖くない」のです。

それが仮に「崖の上」で、一歩踏み外すと死んでしまう恐ろしい場所でも、笑っておれるのです

 

そんな支えを「知っている」ことも素晴らしいですが、

「体験できること」は、もっと素晴らしいのです。

 

③解決の力を持った、「光の助け」を受けること。

ヨハネの福音書 1:4-5

「この方(イエス様)にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」

 

体験するための聖書の答えは、シンプルです。

「知った」なら、「求めれ」ば、「体験できる」のです。

 

マタイ7:7

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」
 

「イエス様の支え(愛情)」は、有ることが分かったら、「欲しいです」と求めたら、「頂ける」のです。

 

こんな祈りはどうでしょうか。

「イエス様、私はあなたの愛情が欲しいです。あなたの絶対的な支えが必要です。あなたがおられるなら、分かるように私に与えて下さいませんか。お願いします。」

 

求めることは、、、

ただです。(コストがかかりません)

どこでもできます。(場所を選びません)

デメリットは一つもありません。

 

ぜひ、やってみられることをお勧めします。

質問者さんの上に、「闇があっても大丈夫」という「心の平安」が与えられることをお祈りしています。

今回、触れられなかった、

「心の闇をコントロール(克服)する方法」については、別の機会にまとめてみる予定です。

 

祝福をお祈りしています。

1コリント1:28

「また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。 」

(「絶対的愛情」を体験すると、自分が「取るに足りないもの」と悟っても、「堂々と生きていける」のです。)

 

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心の中に「良くない思い」が湧き上がります。どうしたら良いのでしょうか。

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23歳の大学生です。心の中に時々「訳の分からない思い」が湧き上がります。怒りや暴力的だったり、相手を馬鹿にして見下す思いだったり、口にするのも恥ずかしい思いも、湧き上がります。それを実行することはほとんどありません。しかし人が見ていない、気がつかないことなら「やっても良いのでは」というズルイ考えが浮かびます。自分のことを「嫌な奴」だと思います。この嫌な考えを消したいです。もし消せないなら、飲み込まれずに上手に付き合う方法はあるのでしょうか。

 

ご質問をありがとうございます。

このテーマは、すべての人間に当てはまる、共通の重要な課題です。

多くの人は、「このような負の思い」が湧き上がると、

「無視をし、考えないように」します。

しかし「消える」ことはないのです。

 

こういうことを悩むことが、「未熟だ」と言う大人がおられますが、高齢になってもこの問題は解決することはありません。老人にも「良からぬ思い」は、湧き上がります。

むしろ老人の方が、長く生きた分「自分の中の闇」に気がついているのです。

(自分をごまかして生きている人は、別ですが、、、。)

 

聖書はそのような闇を、「罪」と言います。そしてそれを持つ人を「罪人(つみびと)」と言います。

聖書は、人類すべて「罪人」だと言うのです。

 

ローマ3:10-12、13-14、23

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」

「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」

 

それは、「凶悪犯罪を犯した人」という意味ではありません。(面と向かって、あなたは罪を犯した人と言えば、怒り出す人がいるでしょう。」

それは「心の性質」なのです。

 

つまり「罪を犯したから罪人(つみびと)ではなく、罪人だから罪を犯す」のです。

繰り返します。「罪の性質を持つ、罪人」だから、罪を犯すのです。

 

良く犯罪を犯した人が、「自分はあの時、魔が差した」と言うことがあります。

理性で抑えていても、「ふっと悪の思いが降りてきて、それを止めることができなかった結果」です。

 

残念ながら質問者さんの最初の質問「良からぬ思いは消えますか」は、

「消えない」が答えです。

しかし「罪に飲み込まれず、打ち勝つ方法」はあります。

「鳥が頭の上を飛ぶことは止められなくても、鳥が頭に巣を作ることは止められる(西洋のことわざ)」なのです。

 

今回は、以下の三つを考えていきます。

①「自分の中の闇」に気がつくこと、認めること。

②闇を克服する「処方せん」を知ること。

③解決の力を持った、「光の助け」を受けること。

しばらくお付き合い下さい。

 

①「自分の中の闇」に気がつくこと、認めること。

ここまで読みながら、ある人は、「もう読みたくない」と思われているのではないでしょうか。

解決法が無い中で、「罪の性質」を見るのは、苦痛でしかありません。拷問です。

解決法は②で扱いますので、もう暫く我慢して下さい。

 

自分が癌だった場合、どこに癌があるかが早く分かれば、手を打つことができます。

私の身内に、検査で大腸ガンが分かり、早期だったので、手術で完全に切除できた人がいます。

今も定期的に病院に行っています。それは、もし数値が悪くなれば、直ぐに手を打つためです。

 

「自分が大丈夫だ」と過信する人が、危ないのです。

自分の中に、闇に対する「弱さ」があると自覚することが重要です。

自覚する人は、気をつけるからです。

 

そう言う意味では、質問者さんは「自分の弱さ」を自覚されています。

ですから、今持っておられる、「その悩み」は大切です。

「その悩み」がない人の方が危険なのです。

 

「自分が正しいと思っている人」がいるとします。(一般論で考えます。)

その人は、もし問題が起きたら、「誰かのせい」にします。

自分は間違えるはずがないのだから、自分が間違えてしまったのは、「環境が悪い」か「誰か相手が悪い」と考えます。

 

もし誰のせいにもできない場合は、どうなるでしょうか?

「自分のせい」だと逃げられないと、極端に徹底的に「自分を責める」のです。

(パニック状態です。)

しかし、そうは言っても「そんな自分」を受け入れることができません。

「正しいはずの自分」が間違えたので、「そのままの自分」を受け入れることができないのです。

そして、自分を受け入れられないので、責めながら「見ないよう」にします。

そしてある方たちは、自己憐憫に入って行くのです。(「自分はこんなに可哀想なのだ」、と。)

かなり「危険な心の動き」です。

 

ですから、質問者さんのように、自分の弱さを「正直に見つめる(自覚する)」ことは、とても大切であり、健康的なことです。

その上で、「闇を克服する方法」に触れていきます。

 

②闇を克服する「処方せん」を知ること。

「陸」から「水に落ちた人」を助けようと思うなら、しっかりと「陸」につながっていなければなりません。いざとなれば、すぐに安全なところに行ける準備(装備)ができていないと、危険です。

 

闇を直視しようとする場合、「直視ても大丈夫」と言う「絶対的な安心材料」が必要です。

、、、少し長くなりましたので、一旦ここで中断します。

 

次回は、闇を克服する「処方せん」に、詳細に触れたいと思います。

祝福をお祈りしています。

 

ヨハネの福音書 1章4~5節

この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

 

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降格して、心が「空っぽ」になってしまいました。どう考えたら良いでしょうか。

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仕事上のミスをして、降格してしまいました。頑張って成績を上げ、それなりの成果を出した後の降格でしたので、正直、へこんでいます。まるで仮面を外され、丸肌の自分をさらしているようです。昔から、人の目を気にして生きてきました。役割を与えられると頑張れるタイプで、休みの日は「抜け殻」のようにぼんやりすることが多かったです。こんな私ですから、今の状況はとてもつらいです。仮面を外され、支えを無くし、素の自分は「空っぽで、何もない」と感じています。新しい何かの支えがあれば、頑張れるような気がしますが、しかしそれも無くなるかもしれないと思うと、絶望的な気分になります。どう考えたら良いのでしょうか。

 

ご質問をありがとうございました。

今はとても苦しい状況ですね。自分の支えが無くなることはとても辛いことです。

しかし、ここを乗り越えたならば、質問者さんは「芯の強い人間」になれます。

今までよりも、充実感のある人生を送り、「見える景色」が変わってくるはずです。

これから書かせて頂く文章が、何かの参考になることを願っています。

 

今回も、いつものように3つの点で考えてみます。

①人生には、「仮面を外される」ようなことが、必ず起きること。

②「本当の自分」を自覚する時に、人生の喜びが見つかること。

③「仮面」ではなく「その奥の自分」にエネルギーを注ぐこと。

しばらくお付き合い下さい。

 

①人生には、「仮面を外される」ようなことが、必ず起きること。

「謙遜な人はいない。謙遜になる環境があるだけだ」という言葉があります。

普通、人は「仮面」で、自分の価値を測ります。しかし仮面を外されると、自分の価値を見失うのです。

本当は仮面を外されても、自分の価値は変わらないのです。しかし実際に体験すると、全てを無くしたように感じます。

どうしてでしょうか。

そのことをご一緒に考えたいと思います。

 

質問者さんも「仮面」という言葉を使われましたが、

私なりに「仮面の定義」をしてみます。

「仮面」とは、「その人の役割を現すもの」。地位、立場、収入、家柄と言ったその人の「外から見た姿」。又は「それを自覚する自分自身の姿」。

 

質問者さんは、「今までそれなりの成果を出してきた」と書いておられましたから、順調な人生を送ってこられたのでしょう。

仕事上、失敗はつきものです。失敗がなかったとすれば、幸運なだけであって、すべての人がその幸運を味わう訳ではありません。

要領良く、失敗を誰かに押しつけることができたとしても、(そういう人が出世しやすいのですが)、必ずどこかで恨みを買います。

 

仮に全てを上手くやって、頂点に到達しても、どこかで引退しなければなりません。

肩書きではない「素の姿」になる(戻る)のです。

その時に、ある意味「本当の人生」が始まります。

肩書きで「下駄を履かない(水増ししない)」自分です。

 

「質問者さん=仮面」ではないのです。

質問者さんが、「いくつかの仮面」を外したり、はめたりできるだけなのです。

仮面を外してもはめても、「質問者さんの価値、本質」は変わらないのです。

 

そういう意味では、引退後ではなく、まだ若い時期に「仮面を外す(外される)」体験ができることは、実は素晴らしいことなのです。

 

すべてを無くしたように感じても、実際は、今まで気づかなかった素晴らしいものを見つけるチャンスなのです。

 

②「本当の自分」(仮面の下の自分)を自覚する時に、人生の喜びが見つかること。

「仮面」で生きていると、頑張った自分を演出します。

頑張った自分をアピールします。(心の奥ではアピールをしています。)

すると評価された時に、「頑張ったから、評価されたのだ」となるのです。

 

これは実は「危険な考え」です。

つまり、頑張らなかったら「価値がない」

「良い仮面、を演じなければ価値がない」と思い込む危険性があるからです。

 

ですから「仮面の下の自分」無視をしてはいけないのです。

仮面の下の「素の自分」を大切にしなければなりません。

仮面の下の「自信がなく、不安で、力がない」つまり「空っぽな自分」を自覚するのです。

 

なぜなら「仮面の下」を意識して生活するとは、

「自分の弱さ、悲しさ、意気地なさ」を認める生活だからです。

 

あなたが「自分の弱さを自覚」すると、(自分の弱いところを思い起こしてみて下さい)

もし、そこで許して貰ったり、親切にされたならば、

そこで与えられた愛情は、心の奥にしみてきます。

すると、「仮面のレベル」ではない、「素の自分のレベル」での、「喜び」を味わうことができるのです。(理解して頂けますでしょうか。)

 

つまり、質問者の今の状況は、(仮面を剥がされた状況は)、

「人生の本質」を悟る上で非常に大切なプロセス(過程)なのです。

 

③「仮面」ではなく「その奥の自分」にエネルギーを注ぐこと。

今の質問者さんにとって大切なことは、肩書きではない「素の自分」を意識することです。

そして、そこにエネルギーを注ぐようにするのです。

 

繰り返しになりますが、

「素の自分」を意識すると、「人の優しさ」が見えてきます。

役割や義務感ではない、あなたのことを心配してくれる人がいることに気がつくのです。

 

周りを良く見て下さい。

あなたに肩書きがあったから付き合っていた人と、肩書きが無くても関係を持ち続ける人が、はっきりと分かれるはずです。

「どうせ、いつかはその会社を退職する時が来るのだから」と割り切って、周りを見てみましょう。

 

本当に優しい人を見つけることができたなら、肩書きがあっても無くても、そういう人とお付き合いをしたら良いのです。

 

「素の自分」を楽しみましょう。そこにエネルギーを注ぎましょう。

 

肩書きではなく、一人の人間として、今の会社に仕えていきましょう。

今できる、今すべき仕事は、コツコツと実行するのです。

もしかすると「肩書きではない」質問者さんをじっと見ておられる方がおられるかもしれないのです。

(そういう人は、質問者さんを引き上げて下さいます。しかしそのような期待をせずに、自然体でいきましょう。)

 

「そんな人はいない」「皆自分のことしか考えていない」

もしかすると、周りを見るとそう思われるかもしれません、、、。

 

しかし少なくとも、これだけははっきりと言えます。

良い悪いを全てみておられる「天の神様」(そしてイエス様)が、あなたの仮面ではない「心の奥」を注目しておられます。

イエス様は、「天の神様は、お願いする先に(言葉に出す前に)、私たちの必要を分かっておられる」(マタイ6:8)と言われています。

ですから、天の神様は(イエス様も)、あなたの「心の奥」をすべて知っておられ、正しく報いて下さいます。

その上で、必要な力を与えて下さるのです。

 

イエス様の言葉です。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているように、その人の腹(直訳)から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7章37‐38節)」

 

イエス様と「仮面」ではなく、「素の自分」で信じてお関わりをすると、信じる人の「腹」から、いのちの力が流れ出るのです。(分かりにくい表現かもしれませんが、あるということだけでも受け止めて下さい。)

 

私のプログの最後は、いつもながらですが、イエス様のことにつながります。

なぜなら、空っぽになった心を、本当の意味で満たして下さるのは、神様(イエス様)しかおられないと信じているからです。

 

イエス様の愛と支えは、「仮面で大丈夫」と思っている間は、決して気がつかないものです。

(太陽の光のようなものです。自分でできるという「プライド」を持っている間は、光はあっても当たり前だと考えて、気がつかないのです。)

しかし、自分を支えるものが一つもない、という「仮面が剥がされた」状況下では、気がつきやすくなります。

 

「謙遜な人はいない。謙遜になる環境があるだけだ。」

苦しみの中で、人は謙虚になり、本当に大切な大きな支えに、出会うことができるのです。

人は謙遜になった時に、愛や慰めと言った「大切なもの」を受け取ることができるようになると思うのです。(そうではないでしょうか。)

 

「空っぽ」と感じておられる質問者さんの心が、満たされますように。

「仮面で、生きていた時」には感じられなかった「深い癒しと慰め」を経験できますように。

祝福をお祈りしています。

 

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているように、その人の腹(直訳)から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7章37‐38節)

 

「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』(ヨハネ6章35節) 

 

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心がいつも不安です。(その2 )愚痴を聞き、受け止めてくれる存在

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「心がいつも不安です。神様を信じると‥安定するのでしょうか」のご質問の2回目です。

「愚痴を聞き、受け止めて下さる存在」ということで、今回は考えていきます。

しばらくお付き合い下さい。

 

「本音」を誰かに聞いてもらう、ことは非常にありがたいことです。

模範解答ではない、心の中の混乱した気持ちを、そのまま聞き、分かって貰える存在。

私たちは、そんな存在に出会うと、余裕ができます。

この親しい方に分かって貰っているのだから、「 別にあの人に、分かって貰わなくても良い」と割り切ることができるのです。

 

誰にも本音を語れず、分かって貰える体験がない人は、寂しい人です。

その人は、「誰も私を分かってくれない」と諦めるしかありません。

しかし、諦めきれないのも、人の心です。

ですから、分かって貰えない状況が、一線を越えると、我慢ができなくなって「逆上」したり、

反対に少しでも分かってくれそうな人に出会うと、「言わなくても良い、受け止められないこと」を話し続けて、「引かれてしまう」 のです。

 

そういう人は、一度「専門的な学びを積んだ人」(カウンセラー)に、じっくり話を聞いてもらうか、

「内観」と言って、静かなところで、自分の心を「じっくりと見つめる」時間を持つことをお勧めします。

 

お友だちがたくさんいる人でも、専門的なカウンセラーに話を聞いて貰うと、

「気がつかない発見」をすることは、多いのです。

(プロの聞き方は、やはり違います。)

 

自分の本当の気持ちは、何なのか。

何を喜び、何に希望を持っているのか。

何を悲しみ、何に我慢しているのか。

どんな痛みがあるのか。許せないことは何なのか。

 

忙し過ぎたり、雑念が多すぎると、

自分の「本音」が見えなくなります。

また役割があると、責任感で物事を進めることがあります。

そうすると、自分の本音を無視して、義務で行動してしまいます。

すると「何にイライラしている」のか、分からなくなるのです。

 

ですから、「自分の本音に」じっくり「耳を傾けてくれる存在」は、

とてもありがたいのです。

 

「カウンセラーに聞いて貰って」も、実は「限界」があります。

相手は人間ですから、あなたのことを「全ては分かり」ません。

(分かったふり、分かる努力はして下さいます。)

 

また「内観」にも限界があります。

「自分の頭の中」だけの作業ですから、「自分の思考」を越えることはできません。

「外の世界」を悟れば良いですが、悟れないと「同じところをグルグル思考が回る」のです。

(解決が見えてこないのです。)

 

「創造主への祈り」(イエス様への祈り)は、これらの問題を解決します。

「祈り」は、一方的な会話ではありません。

その証拠に、どこかで「返事」が返ってきます。

 

しかし、「解決する」と言われても、

「分からない」と感じる方が多いと、思うのです。

(それを伝えたいというのが、このブログの目的でもあります。)

 

人間は、本音を知ることが大切です。

それを誰かに話して、受け止めて貰うならば、その人は安定します。

 

その存在は、あなたの「全てを分かってくれる存在」でなければなりません。

(思い込みではいけないのです。)

 

イエス様は、そのような存在です。

イエス様のことを、旧約聖書イザヤ書9章では、英語でワンダフル・カウンセラーと表現しています。(日本語だと、不思議な助言者、と訳出しています。)

 

ヘブル人への手紙には、

4:15「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

と、「私の弱さを理解し、受け止め、同情して下さる方」である、と表現されています。

 

あなたは、そのような「全てを受け止めて下さる方」と出会いたいですか。

私は、聖書を信じる立場から、

「そういう存在」はいる、という前提でお話ししています。

 

創造主(イエス様)はあなたを愛し、全てを知っておられます。

あなたが、心を開いて、迎え入れるならば、

創造主の深い満たしと慰めの中に、

入ることができるのです。

 

あなたはイエス様に「愚痴を全て」語ることができるのです。

 

思い込みではなく、全て「受けてめて貰っている」と実感する時、

あなたの心に「深い平安」が与えられるはずです。

 

祝福をお祈りしています。

 

ピリピ4:6-7「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

 

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心がいつも不安です。神様を信じると、安定するのでしょうか。

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人前では、弱いところを見せないのですが、いつも心の中には不安があります。人と会うことは楽しいのですが、他人は自分の本当の姿を知ったならば離れていくのでは、と心配しています。人前で演技することが多く、取り繕い、週末には疲れています。ブログを読ませて頂いていますが、神様を信じたならば、もっと心が安定するように感じます。神様を信じると、不安はどうなるのでしょうか。

 

ブログを読んで下さっているのですね。ありがとうございます。

神様を信じると、不安がどうなるのか、というご質問です。

私が感じるのは、すでに質問者さんは、神様の存在を信じておられるように思いますが、いかがでしょうか。

そして、「神様との関係」が深まったならば、不安が取り除かれるのではないかと、期待しておられるのではないでしょうか。

 

今回、神様(イエス様)に、

①知って頂いていること。

②思っている全ての悩みを、告げる(吐き出す)ことができること。

③その上で、慰めて頂けること。

を記していきます。

 

知性で理解すること、と感情で実感することは、違います。

「全て知って下さっている」という事実も、

頭で理解することと、心で理解することはかなり違います。

これから書く文章が、質問者さんの、「心の平安」に役立つことを願っています。

 

①神様は、あなたの全てを知って下さっている。

このことを実感するためには、質問者さんがある程度「自分を受け入れている」必要があります。

人は意外に自分を「そのまま」受け入れていません。

「理想の自分」は好きですが、「ダメな自分」は見たくないのです。

ですから、一部の自分を受け入れ、それ以外はごまかします。無かったことにするのです。

すると、あるものを無いようにしますから、演技をしなければいけません。

「理想の自分」を演出し、「本当の自分」を見せないようにします。隠すのです。(無意識にしている場合が、ほとんどです。)

ですから、疲れるのです。

 

本来の「素の自分」を隠すことだけでも疲れるのに、

自分がしたくもない(酷い言い方ですが)「良い自分」を演じているならば、

どこかで「もう全て辞めたい‼︎」と叫びたくなるはずです。

 

では、どうしたら良いのでしょうか。

それは、「ダメな自分」をそのまま受け入れ、認めることです。

「ダメ」ならば、「ダメなまま」で、受け入れるのです。

 

やってみたら分かりますが、これが「なかなか難しい」のです。

あなたが綺麗なところだけを、人に見せることが習慣になっているなら、

「ダメな自分」が見えた瞬間に、「見えないように隠す」ことも習慣になっています。

もし見つけてしまうと(隠せないと)「落ち込み」ます。

そして「誰かのせい」にしようとします。自分を「悲劇の主人公のように」思い込もうとします。

極端な場合、頭の中の「理想の自分」を「本当の自分」だと思い込むのです。(これは悲劇です。本人が悲劇と思っていないことが、最大の悲劇だったりします。)

 

「神様があなたを知って下さっている」とは、あなたの汚いところも、全て知っておられるということです。

その上で、「受け入れて」下さり、

その汚い部分を見て、

「綺麗にする方法はあるのだから、私を受け入れてご覧なさい。」と言われるのです。

 

イザヤ1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」

 

「汚い自分」を、「心から受け入れる」ためには、

「それでも受け入れて下さっている存在」を知ることと、

「綺麗になる方法」を知ることが必要です。

 

それは、「神様(イエス様)の存在」を知り、

「十字架の赦し」を知ることです。

 

恐れずに、汚い自分を受け入れてみて下さい。

イエス様は、そんな心の葛藤をしている、あなたの全てを知り、理解し、

受け入れて下さっているのです。

 

そのことが分かってくると、演技することが減ります。

 

自分自身を取り繕わなくても、認めてもらえる存在、

その方が、一緒にいて下さることが分かってくると、

人前でも、堂々とできるようになるのです。

多少の演出はあっても、過剰な演技はなくなるのです。

 

演技しなくても、受け入れ、赦し、愛して下さっている存在、

天の神様であり、イエス様の存在は、

非常にありがたいのです。

 

イエス様を信じ、イエス様が一緒におられることが、

実感として分かると、不安がなくなります。(安心感、心の安定が与えられます。)

これは、信じる(体験する)者が、味わう事実なのです。

 

次回は、「イエス様に、悩みを打ち明けることができる」こと。

「イエス様に慰めて頂ける」ことに、触れたいと思います。

 

質問者さんの「心の平安」のため、

お祈りをしています。

 

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ人への手紙4:6,7)。

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