このご質問は、生きる上での究極のテーマです。
愛する、愛される。
美しい言葉です。古今東西の小説もドラマも愛がテーマになっています。
しかし、大切なだけに、誤解も受けます。
期待が大きい分、失望も積み重なります。
愛が欲しい、と思いながら、こんな愛ならいらない、と叫んでしまうことも多いのです。
愛を知ること、
自分の限界を知ること、
創造主を知る意味、
について、今日は書いてみたいと思います。
私たちは、「自分のものさし」をそれぞれ持っています。その基準で判断し、善悪、好き嫌い、受け入れるか無視するかを決めるのです。
三浦綾子さんのエッセイの中で、私たち人間は、非常に自己中心だという一文があります。集合写真は自分を最初に見るし、大事な花瓶を自分が割った時は仕方がないと思っても他人が割ると許せない、そんな感情を持っているというのです。私たちは「自分の考えが基準」ですし、ひどく「自分に甘いものさし」を持っているのです。
ここで、自分に甘いもの同士が集まる時、トラブルが起きるのです。
しかし、愛は「自分のものさし」を越えたところにあるのです。
お付き合いが深まり、信頼関係ができると、遠慮がなくなり、甘えが出てきます。
「どうして当然のことができないの、してくれないの」という気持ちがムクムクと湧き上がり、話すタイミングが悪いと喧嘩になったりするのです。
実は、喧嘩になることは健全でもあります。一番良くないのは片方が我慢することです。
その人は、「我慢すれば上手くいく」という「その場しのぎ」の「歪んだものさし」を握っているのですが、それはどこかで「機能不全」となります。
意外と「自分は愛情深い、良い人」と思っている人が、実は「非常に冷淡」だったり、「独善的」だったりするのです。自分のものさしの中では、愛情深くても、その外になると途端に冷たくなる人がいます。そしてそのことを本人が気がついていないことが多いのです。
ここで「創造主を信じること」の大切さを指摘しておかなければなりません。
「愛」は「自分のものさし」を越えたところにあるものです。
「創造主を信じる」とは、「自分のものさし」を越えた価値観を受け入れることができるかどうか、でもあるのです。
「自分が世界を作った」のではなく、創造主によって「自分は造られた存在」だと認めることができた時から、自分を越えたもの「真の愛を学ぶ旅路」が始まるのです。
外からの愛を受け入れ、人を愛すには、「自分のものさし」を越えなけれなりません。自分の正しさを手放す必要があるのです。ここには勇気が必要です。そしてそれでも大丈夫だという「信じる心(信仰心)」が必要です。
その「自分のものさし」を越えたものを受け取る心、信仰心がある人は、自分では許せなくても、「イエス様が赦されるならば許そう」という気持ちになり、自分を愛し許し、人を愛し許そうというレッスンを受けることができます。(イエス様のことをまだよく知らない方は、あなたを愛し許してくれた恩人を思い出して下さい。マザーテレサのような愛の偉人の言葉を思い起こしても良いと思います)
「自分を愛し許すこと」は可能です。そしてそれができた人だけが、真に「人を愛し許す一歩」を歩むことができるのです。
簡単に言えば、あなたを本当に愛してくれる方に出会うことです。そしてその愛を味わうことです。
そのために、「自分のものさし」に気がつき、それを乗り越え、自分を越えたものを受け入れる心が、大切なのです。
参考になりましたでしょうか。
ご質問があれば、お気軽にご連絡下さい。
「愛が深まる助け」があることを、お祈りしています。
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