「28歳の事務職です。人と会ったり、仕事をしている時は良いのですが、一人になった時にとても孤独を感じます。自分が消えてしまいそうです。寂しいので、いつも音楽をかけています。以前恋人がいた時も、一緒にいると要求ばかりしてしまいました。しかし要求しても、本当のところは分かって貰えず、さらに孤独感が強くなりました。心の中に穴があいたような気持ちです。この寂しさを、どうしたらよいでしょうか。」(28歳女性)
ご質問をありがとうございます。
「孤独」についてですね。とても重要な課題です。
28歳の事務職ということですから、ある程度会社でも経験を積んでおられる方かもしれません。仕事にもやりがいを感じ、充実感を持っておられるのでしょうか。
しかしプライベートでは、解決できない課題を抱えておられるということですね。
また以前恋人が、とありますから、別れてからしばらく経っているのかもしれませんね。
当時「一緒にいると要求ばかり」と書かれていますから、質問者の方は、ご自分を客観的に見ることができる方なのだと思います。
しかし理性と感情は違います。理性で自分を分析できても、「心が寂しい」という感情は否定することはできません。
今回まず、「自分の孤独を受け入れられるか」について考えたいと思います。
「一人の時は、孤独を感じる」と書いて下さいました。
一つ質問ですが、質問者さんは「人と会ったり、仕事をしている時」にも孤独を感じることはありますか。
よく考えれば、人間関係の中でも孤独を感じることは、意外と多くあるものです。
気が張っていたり、社会的な立場(役職等)で関わる時には、軋轢は「仕事と割り切って」行えるかもしれません。
しかし、ふっと素の自分になった時、
実は、人間関係のすれ違いから生じる孤独の方が、キツイとも言えます。
だから私たちは、人と同調して、出来るだけ波風を立てないように努めるのです。
(仕事として対処する場合は別です)
先日紹介した、コラムニストの深爪さんの文章の中に、人間関係で疲れてしまう原因を、三つあげています。(詳細はそちらをご覧ください)
「他人が自分の思い通りに動かない、と言う苛立ち」
「空気を読まなければならない、と言う脅迫観念」
「一人ぼっちは寂しい、と言う思い込み」
「一人でも孤独」、「集団でも孤独」なら、私たちは、孤独から逃げることはできません。
「孤独」を覚悟して受け入れるしかないのです。
(小手先で誤魔化すことはできないのです)
私たちは、「孤独に耐えられる力」を持つ必要があります。
「産道を通って生まれ、死ぬ時は一人で旅立つ」
親しい家族とも友人とも、最後の最後、死ぬときは一人で旅立たなくてはなりません。(天国を信じる人にとっては再会の希望があります)
いくら一緒に行きたいと思っても、その時は一人なのです。
「メメントモリ(死を覚えて生きよ)」とは、「孤独に備えて生きよ」と理解することもできるのです。
あなたは「孤独」に耐えられますか。
孤独は、すべての人が感じる感覚です。
「そんなもんだ」と自分で思うことができたならば、あなたは孤独に立ち向かい始めています。
「怖いもの」からは『逃げてはいけません』『立ち向かうのです』
逃げていると「正体が分かりません」
しかし立ち向かうと「課題や解決の方向が見えてくるもの」です。
今、私たちは「誰もが孤独」だ、と書きました。
しかし「誰か」にいつも「見守られている」ことも事実なのです。
お腹の中から地上に出てくる時、赤ちゃんは「産道」を通ります。
たった一人で通ると、赤ちゃんは思うかもしれません。
しかしそこにはお母さんがいます。(無事に産もうとするお母さんです。)
その周りには、通常、産婦人科医や看護師の方々がいて、赤ちゃんをサポートするために万全の体制を備えています。
そんな人々の「見守り」の中、「たった一人で」赤ちゃんは、「産道を通る」のです。
この世界を造った創造主がいると信じる人の多くは、
自分は守られていると感じています。
「生きている」のではなく「生かされている」と感じるのです。
そして人生の中で、何回か「守りがあるという体験(神体験)」をするのです。
「心の中には神様しか埋められない空間がある」と言われます。
あなたの孤独は、もしかすると「人では埋められないもの」かもしれないのです。もしそうであるならば、「神様に埋めて頂く」しかありません。
実は、クリスチャンである私も、寂しさを感じる時はあります。
その時は、どうするかと言うと「祈る」のです。
「祈り」は神様との会話です。こちらから会話を投げかけていると「響く瞬間」があるのです。(答えが返ってくる瞬間です)
先ほどのコラムニストの深爪さんは、「自信を持ち孤独に耐える」ために「自分の好きなこと得意なことをすること」をお勧めしています。
これは非常に大切なことだと思います。
しかし私は、聖書を信じる立場として
「創造主である神様」に全幅の信頼でもって愛されていることを、知ることができたならば、「ゆらぐことのない自信」を持つことができる、と信じるのです。
最後は、信じる話になりました。
でも人は、何かを信じています。「自分の考え」だったり、「誰かの言葉」だったり、「物質的な安心」だったり。
しかしそれらは、洪水が来れば崩れてしまいます。例えるならば「砂の上」なのです。
「砂の安心」を握っている手を放して、「もっと大きな確かな岩(創造主)の守り」を握るということが、「創造主を信じる」ということです。
これは、今のこの瞬間にも可能なことです。
愛されている(ことが分かる)と、人を愛することができるようになります。
すると不思議なことに、関わる人と良い関係となれるのです。
すると孤独が減っていきます。
しかし愛を求めるために人と関わると、失望し、ますます孤独になるのです。
人間は孤独を通過します。しかしだからこそ、確実に「自分を支える存在」が必要です。
「産道は一人で通っているようでも、見守られている」ことを覚えたいのです。
最後に、どんな時にも、私たちは見捨てられないという聖書の言葉です。
詩 27:10 私の父、私の母が、私を見捨てるときは、【主】が私を取り上げてくださる。
イザヤ46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。
あなたの孤独が軽減されることを、お祈りしています。
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