「HSP」とは、生まれつき「非常に感受性が強く敏感な気質もった人」という意味で、「Highly Sensitive Person」頭文字をとって「HSP」と呼ばれています。
HSPは後天的なものではなく、先天的な気質であることがわかっています。
統計的には人口の5人に1人があてはまる『性質』で、まわりに合わせようと無理をして生きづらさを感じやすくなる性質といえます。
「30歳の男性です。以前から近くで怒っている人がいると、その感情を受けてしまって困っていました。最近HSPという言葉を知りました。するとまさに私が苦しんでいた理由だと思いました。小さい頃から人と会うと疲れやすく、電車に乗るだけで疲れました。立ち話をしても、その人が暗い顔をしていると、こちらも「どんより」してきます。あらゆる情報がいつもたくさん頭と身体に入ってくる感覚です。こんな問題を解決する、聖書の知恵はありますか。」
ご質問をありがとうございます。
私の知人にも何人か、HSP傾向の方々がいます。
ある方は、話し声も周りの小さな音も同じように耳に入ってくるので、疲れると言われていました。
HSPは、5人に一人の少数派なので、多数派の方がそのことを聞くと、「気にし過ぎ」と言ったり、HSPに対し「私に気を遣えということなのか」と逆に攻撃したりすることもあります。それは、「苦しみが分からない誤解」からくるものです。
HSPの方は、「聞きたくない音を無理やり聞かされている」ようなものですから、自分と他人の境界線が曖昧になります。他人の感情(声)が入り過ぎて「自分より人を優先してしまいがち」になることも多いのではないでしょうか。「自分の気持ち」分からなくなることも有ると言います。
今回は、聖書と信仰の立場から、三つのことを助言させて頂きます。
第1は、自分を「大切に」すること(聖書の創造主に助けて頂いて)。
第2は、自分の心を守ること。
第3に、他の人の感情や情報を「断ち切る術」を身につけること。
1、自分を「大切に」すること。
一つ質問をさせて頂きます。
「あなたは、ご自分を大切にされていますか」
少し考えてみてください。
私たちは、物事を大切にするかどうかは、バランスによって決めています。
一方を大切にすると、他方は軽く見てしまいます。
特に、病気やアクシデントという緊急事態に会うと、当然そちらを優先します。
あなたの心に「緊急事態のように」情報が入って来た時、あなたはどうするか、を考えて頂きたいのです。
「視覚が敏感」な人は、目からの情報。
「聴覚が敏感」な人は、耳からの情報。
あなたの感度の良い五感によって、センサーのように情報が、侵入してくるのです。
そしてその情報から、目が離せなくなります。
そうなると、「あなたの大切な心」が置き去りになってしまうのです。
この時、自分を「大切に」できるならば、「侵入する情報」から「距離を置く」ために、
「場所」を離れたり、
「緊急事態でも心に入れない(敢えて無視する)」という選択肢を取ることができるのです。
ですから大切なのは、「自分が大事」と思える「自尊感情」です。
もう一度、質問です。
「あなたは、自分が大事だと思っていますか。(建前ではなく、本音で)」
聖書の有名な言葉に、
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)
があります。
創造主は、あなたが「大切な存在だ」と見て下さっているという約束の言葉です。。。
あなたが「私なんか……」と思っても、
創造主は「いや、私はあなたのことを大切だと思っている」と言われるのです。
創造主が「あなたが大切だ」とおっしゃる以上、「あなたは大切」なのです。
その言葉の「否定」は、あなたにも「できない」のです。
創造主の「あなたが大切、価値がある、あなたは宝物」という言葉が心に染みわたったならば、
「緊急事態のような情報」が心に飛び込んできても、無条件にパクッと飛びつきません。
まず「あなたの心を大切にする」判断をし、その後で「侵入する者」に対応する、という優先順位が身につくのです。
これができた人は、とても楽になります。
多くの人が、無意識に簡単にしていることを、センサーの敏感な方は、意図的にしなくてはいけません。(訓練が必要なのです)
もしあなたが、創造主の価値観を聞き、「そうなんだ」と受け入れることができたならば、
あなたは「自分を大切に」し、
「自分の境界線をつくる」(自分の心を守ること)ができるようになるのです。
これは、知っているという「理屈」では、役に立ちません。
「本当にそうだ」という、「体験(納得すること)」が、必要です。
今から、私の神様(イエス様)との、個人的な「心の関係」をお話しします。
(参考にして頂ければ幸いです)
24歳でイエス様を信じた時、最初は知識だけで、「イエス様との心の交流」が良く分かっていませんでした。
聖書を学ぶこととある体験を通じ「神様はいる」と信じ、聖書を信じ、イエス様を信じたのですが、
「神様の存在」は、頭で分かっているだけでした。
祈ると「神様の温もり」は感じることはあっても、
「愛されている」「認められている」と「心で感じること」は、少なかったのです。
今考えると、私の「心の扉」が開いていなかった、と思います。また、「どうやって開いたら良いのか分からなかった」とも言えます。
しかし、クリスチャン生活の中、思い通りにならず助けを求めた時、自分の愚かさに胸を叩きたくなる時、、、それらの時々を通じて、少しずつ私の心は「開いていった」ように思います。
そして、こんな弱い自分を、助けて下さるイエス様を「何度も体験した」こと通じ、私の心は「更に開いていった」のです。
クリスチャンになる前、秋の夕方が嫌いでした。それはその景色を見ると「寂しくてたまらなくなった」からです。
しかし、今は違います。空は寂しくても「イエス様が一緒にいて下さる」と感じます。自分は「愛されていること」が(理屈ではなく)分かります。これは、私の体験です。
もし、私と同じように、「心」に「イエス様の愛情」を受け取ることが出来たならば、
必ずあなたも「自尊感情」が高まり、雑念から「自分の心を守ること」ができると信じるのです。
いかがだったでしょうか。
次回のブログで、「自分の心を守ること」を考えます。
「自分のお庭は自分で管理する」
「バウンダリー(境界線)という概念」
第三回では、「否定的なものを入れない」(断ち切ること)」を考えます。
そこでは最初に「否定的とは何か」から、聖書から考えていきます。
「断ち切るとは《概念》」「断ち切る方法」も考えていきます。
お楽しみに。
祝福をお祈りしています。
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