人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から

世界のベストセラー聖書の価値観から、生きるを考えます!(モノの見方が変わると、とても楽になります)

「心の闇」についてです。時々、理屈ではよく分からない恐れや寂しさを感じます。どうしたら良いのでしょうか。

f:id:jesuslovesmeus:20201028230600j:plain
「キリスト教会に通っている者です。時々夜中に目が覚めて、死にたくなる程、恐れや寂しさを感じることがあります。理屈ではよく分かりません。「心の闇」のことを考えると、怖くて足がすくみそうです。どうしてこんな気持ちになるのでしょうか。そして、どうしたら良いのでしょうか。」(20代男性)

 

ご質問をありがとうございました。

キリスト教会に通っておられるとのことですね。

通っておられる期間や、状況によって多少お答えが変わってくるとは思いますが、

ここでは、通い始めて短い期間と仮定し、お答えさせていただきますね。

(長く信仰を持っておられたとしても、根本的な部分は変わらないですから)

 

昭和中期に活躍された牧師で、榎本保郎という方がおられます。

幼少期にお寺にいつも遊びに行ったことで、尼僧にとても可愛がられて育ちました。

その影響もあり、「自分は正しく生きるのだ」と心に決め、実際に模範的な生き方をしていました。

太平洋戦争(第二次世界大戦)の頃の話です。

彼は、中国満州の戦地に行く前、奥村光林というクリスチャンの友人と出会います。

彼からクリスチャンとなることを勧められますが、「自分のような(正しく生きようとしている)人間には必要ない」と断わったのです。

しかし奥村から「自分の中にある、罪(心の闇)に気がついた時、君は同じことが言えるだろうか」と言われました。

終戦後、兵隊だった彼は満州で殺されそうな目にあいました。そこで自分の命を守るために、強盗、恐喝あらゆることをしたのです。生き残るためでした。

日本に帰って来た後、彼は友人、奥村の言葉を思い出しました。そして「自分は正しい人間になろうと努めたが、正しい人間ではなかった。ただ守られた環境にいたからそれができたのだ」と悟るのです。

彼は後にクリスチャンとなり、その後、牧師となりました。

榎本保郎師は、戦争を通じて、自分の中の、自己中心性、狂暴性、醜さ、すなわち「心の闇」に気がついたのです。

(三浦綾子さんの「ちいろば先生物語」(榎本保郎師の伝記)に詳しく書かれていますので、興味ある方は、ぜひお読み下さい。感動的な内容です。)

 

聖書に、「義人はいない。ひとりもいない」(ロマ3:10)とあるように、

人間には「心の闇」(罪)が存在します。(人は普通、見たくないものです)

人間は「心の闇」を抱えながら生きていますが、普段は気がつきません。いや気がつかないように生きているというのが正確な表現です。

しかし身の危険を感じるような時、その「闇の扉」近くに、押し出されるのです。

普通は、開けずに済みます。

もし開けてしまったならば、「闇の自分」と出会ってしまい、収拾がつかなくなるからです。(誰もが見たくない姿です)

だから普通、人は「闇の扉」が近くに来ても、気がつかないふりをします。素通りするのです。

しかし先ほどの、榎本青年は、満州で「死にそうな目に遭った時」、扉を開けて「自分の闇の衝動」を受け入れ、実行したのです。(生き残るためという大義名分によって)

人はその気になれば、「心の闇」を実行できてしまうのです。(恐ろしいことですが、理性で押さえているだけの場合があるのです。)

 

時には、人間に「闇が迫ってくること」があります。

質問者さんの「夜中に眼が覚めた時」が、まさに「その時」ではないかと思うのです。

 

その闇に慣れていない場合、極端な反応をしてしまうことがあるので、気をつけなければなりません。(特に追い詰められた中での、衝動的な決断は非常に危険なのです)

 

今回のこの文章の目的は、「心の闇」の対処の仕方に慣れることです。

「問題を完全に解決すること」ではないことを、ご了承ください。

解決は、「一生かけてしていく」ぐらいの気持ちでいた方が良いと思います。

 

今回も、3つのポイントに絞って考えていきたいと思います。

①闇の存在を認めること。

(知識だけではなく、感情や実感に焦点を当てること)

②安全な場所に立ってから、闇を見つめること。

③闇の解決は、一度ではなく、幾つもの小さな解決から。

 

 

①闇の存在を認めること。

自分の中に、「悪(闇の力)」が存在することは、「正しくありたい」と願っている人にとっては抵抗があります。しかしこの事実は、否定できません。

先回取り上げた「人を呪う心」を考えてみます。

 

伝道者の書(旧約聖書)
7:20 この地上には、善を行い、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから。
7:21 人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。
7:22 あなた自身も他人を何度ものろったことを知っているからだ。

 

私たちは、簡単に「人を呪い」ます。しかし他人から「呪われる」ことには苛立つのです。耐えられないのです。

これは、二重に罪深いものです。

「呪う罪」と、「二つのものさしの罪」(自分の罪はOkでも他人は許せない)です。

 (人間は、罪深いと思いませんか)

同じように、自分自身を冷静に分析すると、正しいと思うことも、自分だけの正しさである場合が多いのです。


ガラテヤ(新約聖書)
6:3 だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。
6:4 おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。

 

自分の中にある、闇を(明らかな闇、一見正しく見える闇を含む)、知識だけでなく、感情で受け止める必要があります。

 

 

質問者さんは、夜中に目が覚めた時に、どんな恐れや寂しさを感じますか。

それを書き出してみて下さい。

言葉にすると、とてもシンプルになるかもしれません。

死の不安、将来の不安、家族の不安、容姿や能力のこと、お金のこと・・・

そして恐れの感覚、寂しさの感覚を、書き出しながら味わって下さい。

見たくない場合は、見なくても良いです。(無理が無いように)

 

 

②安全な場所に立ってから、闇を見つめること。

悪の研究を、いろいろな学者がしていますが、「注意が必要だ」と言われます。

それは「悪に巻き込まれる可能性」があるからです。

「暴力団担当の警察官」が、段々と「暴力団のような風貌」になるのは、「悪の影響を受けるから」だと言われます。

 

ですから、自分の「心の闇」を扱う時には、「安全を確保」してからでないと危険です。

「安全を確保」とはなんでしょうか。それは「闇」に「はまっても」大丈夫と言える状況です。

 

機嫌の悪い人が近くにいて、あなたに暴言を吐いた場合、

聞いているあなたは、影響を受けてしまいます。

いわゆる「売り言葉に買い言葉」です。

暴言を吐かれても、動揺しない平常心が必要です。

 

そんな確かな支えを、質問者さんは、どこで見つけますか。

あなたの支えは、どこにありますか。それを考えてみて下さい。

自分の才能ですか。自分の積み上げた努力ですか。結果や評価ですか。

 

私なら、「神様の子としての立場」と「神様の愛情を体験すること」と答えると思います。

自分の立場(価値)がはっきりしており、心が良いもので一杯になっている場合、機嫌が悪い人が近くにいても、

「あまり気になりません」

 

「おぼれた人」を助ける場合、陸地から「浮き輪を投げる」のが最も安全です。

しかし水に飛び込まなければならない場合、「浮き輪」をつけて飛び込むと安全です。そして何かあれば「陸地に引き上げてもらえる助け」が必要です。そういう人がいれば、危険ならば引き上げてもらえます。

 

そのような支えを私たちは必要としています。

 

イエス様を信じ、イエス様との関係が深まると、

「愛されている」「必ず助けて下さる」という実感を持つことができます。

 

しかし、それは「罪の感情に苦しみ」と、そこから「助け出されたことによって」

深まることが多いのです。

 

イエス様が「多く赦された者は、多く愛するようになる」(ルカ7:47)と言われたことは本当のことです。

 

再度書きますが、この文章の目的は、「心の闇」の対処の仕方に慣れることです。

そして「闇の存在」を認めても、「解決の道があるのだ」と知って頂くことです。

「安全な支え」があるならば、必ず「解決に向かい」ます。

 

誤解が無いように、言いますが

「心の闇」を身近に感じたことは、質問者さんにとって「プラス」となります。

それは、もともとあったもので、質問者さんが「今まで気がつかなかった」だけなのです。

教会に通っておられる質問者さんは、イエス様や神様のことを聞いておられると思います。そして支えがあることも知っておられるはずです。

 

だからこそ、今のタイミングで、「心の闇」が浮き上がってきたと考えられるのです。

 

そしてその「心の闇」はこれから解決していきます。

その「恐れ」と「寂しさ」が癒される過程を通じて、

あなたは「神様の愛(平安)」と、「神様からの喜び」を深く(実感を持って)体験できるのです。

 

③闇の解決は、一度ではなく、幾つもの小さな解決から。

ですから、焦らないようにしましょう。

 

こういう時、クリスチャンは「気がついた罪(心の闇)」を、十字架につける祈りをします。

(罪をイエス様に委ね、お渡しする祈りです)

 

恐れ、不安、痛み、苦しみ・・・

すべての感情をイエス様に告白し、明け渡すのです。

すると、イエス様の十字架の赦しの力によって、

それらの苦しみ(感情)が、

解きほぐされ、昇華されて(聖められて)いくのです。

 

あなたの「恐れ」や「寂しさ」が一つずつ、「聖められていく」ことを通じて

あなたの心に「愛(平安)」と「喜び」がわき上がる筈です。

 

①自分の中に「闇の心(罪)」があることを潔く認めましょう。

 その苦しみの感情を味わいましょう。

②「確かな支え」をしっかり持って「闇」に対処しましょう。

③「聖め」が一つずつ起こる中で、愛と喜びが一つずつ増し加わることを、体験しましょう。

 

どうでしょうか。気が少しは楽になったでしょうか。

「心の闇」に気がついても、大丈夫です。

むしろ、その解決の方法があり、解決をする度に、恵みが増し加わることを期待しましょう。

 

イエス様は死に打ち勝たれたお方です。

あなたの「心の闇」にも、イエス様は対処することができるお方です。

ですから「恐れる必要」はありません。

 

一番悪魔が喜ぶのは、あなたが「心の闇を否定」し、備えることをせず、追いつめられた時に「闇に支配される」ことです。

ここまで読んでくださった質問者さんには、イエス様の守りによって、そんなことは絶対に起こらないと信じます。

 

質問者さんの守りと、今後の導きをお祈りしています。

良い一日をお過ごしください。

またご質問があれば、お知らせください。

 

にほんブログ村 その他生活ブログへ

にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

もし気に入って頂けたら、たくさんの方に読んで頂くために、クリックの御協力をして頂けると幸いです。(一日一回カウントされます)

人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から - にほんブログ村

もう一つ別のブログランキングです。(こちらも一日一回カウントされます)

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 


人気ブログランキング