クリスマスおめでとうございます。
コロナ禍にあっても、クリスマスは、喜びの日です。
(実際のクリスマスは、24日の日没後に始まります。教会暦では、日没から25日だからです。)
今晩(24日)は、ケーキを食べたり、特別な食事をする方もおられると思います。
もともとクリスマスは、「イエスキリストの誕生」をお祝いする日です。
そしてクリスマスは、人類に「愛のプレゼント」が贈られた日、(それを記念する日)です。
では、「キリストの誕生」で一体何が「贈られ」、何が「そんなに素晴らしい」のでしょうか。
メリークリスマス(クリスマスおめでとう)と言いますが、一体何が「おめでたいこと」なのでしょうか。
またどうして、プレゼントを渡しあうのでしょうか。
考えてみたいと思います。
私たちは、「愛されること」を求めています。(どんな人でもそうです)
また「人から認められること」を求めています。
実は、認められたいという承認欲求も、形を変えた「愛を求める」衝動です。
「認めて欲しい」「愛されたい」、これらの衝動は、誰もが持っている「思い」です。
人間は、人から認められないと(愛されないと)生きていけない存在なのです。
でも、実際はどうでしょう。
私たちは、愛されているでしょうか。
……あなたは愛されていますか。
認められていますか。
そして……あなたは、「今の現状」に満足していますか。
もし…、「もっと愛されたい、認められたい」と願っているなら、まだ「不足」があるということになるでしょう。(そういうことになりますよね)
では、一体何が「不足」なのでしょうか。
「いいね(評価)」を「10」もらったならば、次の日には「10以上」を求めてしまいます。
「9」では「足りない」と思うのです。
一気に「100」になったなら、「自分はそれだけの価値があるのだ」と嬉しくなります。
けれども、また「10」に戻るとガッカリするのです。(そんなものです)
しかし、評価は所詮「人の評価」です。「人の評価」は変わります。
自分が人を評価する時のことを考えれば、分かると思うのです。
「人の評価」は、絶対ではありません。
しかし、私たちは「絶対的な評価」を求めます。
だから「由緒ある権威」に認めてもらうことを求めるのです。
(勲章や表彰状に価値を持たせるとは、そういうことです)
実は、そんな権威に「認めてもらわなくても」、「あなたは価値があるのだ」と認めてもらっていることを知っていますか?
この世界で「最高の権威」を持っておられる、創造主(神様)が、あなたを認め、愛しておられることを知っておられるでしょうか。
その証拠が、クリスマスなのです。
神様は、普通見えません。またいつも感じられる訳ではありません。
しかし、「見えない神様」が、「見える形」で現れて下さったのが、「クリスマス」なのです。
聖書の有名な箇所です。
Ⅰヨハネ(新約聖書)
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
「私たちが、神を愛したのではなく」
「神が私たちを愛し、御子を遣わされた」
「ここに愛があるのです」
私たちは、不完全です。(皆そのことを知っていると思います)
(だから、頑張ったり、取り繕ったりするのです。)
「背伸び」をして、認めてもらえるように、「自分を演じ」たりもします。
しかし、心の奥では、「本当の自分」を知っています。(あえて「見たくない」と考える人もいます)
失敗をして、足りなくて、愛がなく、自分のことしか考えていない、「自分の姿」です。
そんな取り繕っていない、「素の自分」は、愛されるのでしょうか。
……はっきり言いますが、「愛されている」のです。
「私たちが、神を愛したのではなく」
「神が私たちを愛し、御子を遣わされた」
「ここに愛があるのです」
「できなく」ても、「愛される」。
この種類の愛(聖書では、アガペの愛と言います)を経験する(味わう)と、人生が変わります。
そのままで、愛されてる感覚を持った人は、「人への恐れ」から「解放」されます。
(人から認められなくても、大丈夫となります)
「あなたは、創造主に愛されている」と聞くと、
「受け取れない人」も多いかもしれません。
そんなことは「信じられない」、そんなことより、目の前の仕事をして、「目に見える評価」をもらう方が大切だ、と考える方もおられるでしょう。
しかし、よく考えてみてください。
「認められていて」(それを知っていて)、仕事をする人と、「認められるために」、仕事をする人は、雲泥の差があるのです。
「認められている人」は、余裕があります。
仮に目の前の仕事で、認められなくても誤解を受けても、大丈夫です。
しかし、「認められるため」に仕事をする人は、その仕事で認められないと、大変です。
時に死活問題になります。
老化や定年を考えても分かります。
「自分の能力やポジション」だけで、自分の評価を確認している人は、歳をとって引退すると、がっくりします。
「自分の支え」としていたものが、無くなってしまうからです。
結局、支えは、あるようで無かったのです。(期間限定だったのです)
聖書では、そのような支えを「偶像」と言います。
(つまり、崩れてしまう「自分の支え」です)
イエス様は、神の子として、この地上に生まれて下さいました。
偶像ではない、本物の神の子です。(それを受け取る信仰は必要ですが…)
イエス様は、「私が失敗して」も「そのまま受け止めて下さる存在」なのです。
命は、創造主によって造られています。
ですから「造られた私たち」は、「神の作品」です。
だから本来は無条件で愛されているのです。
(あとは、その事実を知り、受け取り、感じるだけです)
この機会に、神の子が「私たちを愛するため」にこの地上に生まれて下さった意味を、深く知ってみて下さい。
●「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネの福音書15:13)。これは、イエス様の言葉です。
イエス様は、命を捨てるため、この地上に生まれました。
そんな愛が、存在するのです。
そしてその愛を、「求める」なら、あなたも、「頂ける」(体験できる)のです。
「求めよ、さらば与えられん(求めたら、与えられる)」です。
私も、この愛を知って(受け入れて)、人生が変わった者の一人です。
別に、キリスト教会に行かなくても構わないのです。(行く機会があれば、もっと学べるとは思います)
ただ「個人的に」心に受け入れるだけで、あなたはその愛を知る、「入口に立つ」ことができるのです。
愛されているから、受け入れられているから、
人を愛し、受け入れることができる、
この価値観を持つ人生は、素晴らしいです。
今日クリスマスの日に、
「多くの人」が、プレゼントを通じて、
愛を喜びあえる「素敵な時間」を持てますように。
また、「一人でクリスマスを過ごす方」にも、「特別な時」がありますように。
実はイエス様は、たった一人で、十字架の道を行かれたお方です。
孤独を知っておられる、分かって下さるお方です。
ですから、今日、孤独を感じておられる方にも、
力強い「神様の愛」が、流れることを信じています。
コロナ禍の中です。責任を持っておられる立場の方の中には、
「浮かれたお祝いなどできるわけなどない」と感じ、
ギリギリのところを通っておられる方もおられると思うのです。
しかし、クリスマスは「助けがある」という印でもあります。
「その助け」を見つけることができますように、
それを見つけるまでの、「気力」が与えられますように。
愛のプレゼントである、
「クリスマスの祝福」をお祈りしています。
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