いつもブログを読んで下さりありがとうございます。
今回のブログは、「人の知識」と「心(感情)」について考えていきます。
しばらくお付き合い下さい。
最近しみじみ思うことは、「知っている信仰(知識)」と「自分のものにしていること(感情)」は違うと言うことです。
いくら熱心な人だとしても、「本音」つまり「自分のものにしている感情」は、意外に「気がつき難い」のです。
「知性化」と言って、「知っていること」で「分かった気持ち」になってしまうと、それ以上進まなくなります。
そして時々、「自分のできていないところ」に、気がついても、「見ないようにする(否認)」が起きるのです。
これは、無意識で起こります。ですから指摘されると「そんなことはない」と言われるのです。
知識で、「知っている」と、「人に教えること」ができます。
そして、「役割として」振る舞うことができます。
(ここが落とし穴です)
振る舞えると、「自分ができている気持ち」になってしまうのです。
援助者が、クライエント(相談者)に依存してしまう心理が、ここにあります。
また舞台俳優が、「役に依存してしまう」心理も、ここにあるのです。
プライベートではできなくても、仕事で「役割としてはできる」ことも、同じ心理です。
本当は「できていない(本音)」のに、与えられた立場の中で「振る舞うこと」により、安心しようとします。
しかし、必ずどこかで、限界が来ます。演技ができず、ボロが出る時がやってきます。
その時が、「本当の自分」に気がつくタイミングなのです。
今回も、3つのポイントで考えます。
①形(知識や型)から入ることも、有益であること。
②人間は、努力すると高慢になり、それを「はっきりと指摘され」て、初めて気がつくこと。
③方向転換は、「いつでもできる」こと。
①形(知識や型)から入ることも、有益であること。
私は、小学生の頃に剣道を習っていました。
最初のうちは、素振りや足さばきの基本ばかりを練習させられました。
「習うより慣れろ」で、基礎を徹底的に身体で覚えさせられたのです。
聖書の「父なる神様」も、旧約聖書では、たくさんの命令をしています。
「豚を食べてはいけない’(レビ記)」という命令もその一つです。
しかし、当時の衛生状態を考えると、理にかなっているのです。
ご存知の方も多いと思いますが、豚肉にはサルモネラ属菌や寄生虫等が繁殖しやすく、生で食べると食中毒になることがあります。
当時の人々には、「菌が繁殖するから、よく中まで火を通すように」と言っても、理解できなかったでしょう。そこで「食べるな」となったのです。
イエス様は、後に「すべての食物は食べても良い」と禁止を解除されました。ですからキリスト教では、豚も食べることができます。(ほっ)
ですから、初心者で良く分からない時には、すべて理解できなくても、
「基本は受け入れる」という態度と応答は大切です。
その応答で、失敗が減り、自分を守ることになるのです。
(初心者を卒業したら、次のステップに入ることになります)
②人間は、努力すると高慢になり、それを「はっきりと指摘され」て、初めて気がつくこと。
「型」から入った場合、最初は「理屈抜き」で受け取ります。
しかし次のステップは、「精神性」を学ぶことです。
「型」は学んでも、そこには精神性が加わって、初めて型が「生きる」(活用できる)のです。
武道は、「型」を大事にしますが、同時にとても「精神性」を大切にします。
「礼にに始まり礼に終わる」
「己れに克つ」
毎回「型」を反復しつつ、絶えず「精神性」を高めていくのです。
知っていても、一生修行(学び続ける)のです。
明治のクリスチャン内村艦三が、「キリスト教信仰」を「武士道」で説明したことも頷けます。ちなみに私の周りの特に男性のクリスチャンの中に「剣道経験者」が多いのは、不思議です。
本題に戻ります。
イエス様が地上で活躍された時代、「パリサイ人」という人たちがいました。
彼らは律法を厳格に学び、行いを重視していました。
その結果どうなったかというと、「自分ができていない律法」の基準で、できていない人を裁くようになったのです。
彼らは、律法を知っていました。そして(恐ろしいことに)自分たちは「できているつもり」になって、人を平気で見下し、差別したのです。
イエス様は、「偽善なるパリサイ人、律法学者」と何度も彼らを批判叱責しています。
どうしてこんな激しい言葉を使うのかと思うほどです。
しかしその中の、心ある人たちは、後にイエス様の弟子となっていきました。
「自分の中の高慢」は、指摘されないと気がつかないのです。
努力して極めようとすると、「自分のしたこと」を基準に考えるようになります。
そして「自分の基準」で、この人は上、この人は下と考えるのです。
そして「ここまで」は「しないといけない」と押し付けてしまうのです。
本来それは、「恵みによってできたこと」 です。
健康、学べた環境、それができた能力、神様の助け等々、それらの条件があって初めてできたことです。
しかし、自分の努力だけを注目し、「自分の誇り」にするのです。
これは、正確な見方ではありません。自分の努力だけに「偏って」います。
すなわち「高慢」です。
「神様を一番上」にしていません。「自分が一番上」に来ています。
しかし「自分では、当たり前」と思っているため、人から「それは高慢ですよね」と言ってもらわないと気がつかないのです。
ダビデの詩篇です。
『神よ。私を探り、私の心を知ってください。
私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、
私をとこしえの道に導いてください。』
詩篇139:23~24
高慢は、「指摘される」と気がつき易いのです。
そして、それによって「心が癒され」、「愛が流れる」ようになるのです。
③方向転換は、「いつでもできる」こと。
では、いつ方向転換をするのでしょうか。
人をつくり変えるのは、「神様の力」によってです。
そしてつくり変えられる時、何かの兆しがあります。
(神様が働かれる兆しです)
それを受けとめるか、無視するかで、「変えられる」か「変わらない」かが決まるのです。
伝道者の書3章(旧約聖書)
天が下のすべて事には季節があり、すべてのわざには時がある。
生まるるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、
こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、
保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、
黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時がある。
働く者はその労することにより、なんの益を得るか。
わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを始めから終わりまで見きわめることはできない。
聖書の中に出てくる、信仰の父「アブラハム」は、75歳で神様の仕事を始めました。
「神様からの大きなチャレンジ」に応答したのです。
その結果、様々な困難は通りましたが、彼はつくり変えられ、素晴らしい働きをする人物となったのです。
今の時代は、本当に激動の時代です。
今これを書いている2021年1月18日現在、世界では今まで聞いたことが無いことが起きようとしています。
「天の父なる神様」は、国や組織、個人の考えや欲望を越えて、圧倒的な力で君臨されているお方です。
私たちが、知性ではなく、「本音」でこのお方を見上げ、交わっていくならば、
この激動の世界において、「使命を果たす人」となるのです。
その人は、作り変えられた人です。
正義を愛し、悪を憎み、心から人々の幸せを願う「愛の人」です。
「建前」で美しい言葉を吐き、陰で汚いことをする人ではなく、
迫害の中でも、愛と忍耐を持って、善を行い続ける「勇者」なのです。
そんな「勇者」の一員に、あなたも招かれているかもしれません。
アンテナを張りましょう。
今の時代を見つめましょう。
あなたが。もし招かれているならば、不思議な導きによって、
真理と善を知り、「何かの働き」をするようになっていくでしょうから。
ここまで読んで下さり、ありがとうございました。
きっと選ばれてるだろう「あなたの上」に
豊かな祝福がありますように、
お祈りをしています。
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