(メル・ギブソン監督、「パッション」より)
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今週は、キリスト教会では「受難週」にあたります。
イエス様が、十字架にかかられたことを偲ぶ週です。
イエス様は、ユダヤ教の「過越の祭」の初日(今年の暦では、3月28日)にエルサレムの町に入られ、今の暦の木曜日に「最後の晩餐」をされました。
その直後弟子の「ユダの裏切り」によって逮捕され、金曜日に「十字架刑」で命を捧げられました。(殺されました。)
その苦しみを偲び、私の罪の代価を支払うために「十字架の道を敢えて行かれた」イエス様に、感謝を捧げる週が「受難週」なのです。
そして、3日後は「イースター」です。主がよみがえられた日です。(今年は4月4日[日]です。)
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今回は、コラムになります。
受難週を偲びつつ、イエス様の十字架を思いながら、書いていきます。
しばらくお付き合い下さい。
「弱り目に祟り目」
「泣きっ面にハチ」
酷い目にあった時、「傷口に塩」をぬられるような言葉を言われたり、
「失敗」の結果、うつ状態や、パニック等になることで「更なる失敗」をしてしまい、
「どん底」に落ちるような状態になることがあります。
「大きな問題」は、同時に起こることが多いのです。
今日もいつものように、3つのポイントで考えていきます。
イエス様が、①目的論、②課題の分離、③絶望を通過された、ことを確認しつつ、
そのイエス様と「身近な関係」になると、「励まされ」「力が与えられる」ことを、
お話ししたいと思います。
①目的論を考えます。(イエス様のご自分の生涯の目的認識)
皆さんは、イエス様の十字架にかかられた時の状況を知っておられるでしょうか。
ご存知の方もおられるでしょうが、人間的に考えれば、「かなり悲惨」な状況でした。
3年半、弟子たちと一緒に生活し、
多くの人を助け、一時期は心酔した人々が「王にしよう」と行動する程のカリスマを持ったお方。
それがイエス様でした。
しかし、働きの後半には「わたしは十字架にかかって死ぬのだ」と言われ、弟子たちを困惑させました。
そして「過ぎ越しの祭り」にエルサレム入場をされた時は、人々は熱狂的に迎えました。
まさかその数日後に、イエス様が殺されるとは、イエス様以外、誰も知りませんでした。
その後、権力者の陰謀、民衆の裏切り、親しかった弟子たちの裏切りと逃亡を受けます。
今まで歓迎した人々、癒され助けられた人々が、一気に敵のようになったのです。
精神的には、二重三重の苦しみと失望を感じる状況を通られました。
それに加えて、無実のご自身が、一方的な政治犯とされて、死刑を宣告されました。
私なら、この段階で、すでに「気がおかしくなる」と思います。
「オレの恩を皆忘れたのか」
「あの熱狂はウソだったのか」
「あれだけの努力をして、人生の最後はこんなザマか!」
裏切った人を呪い、そして神を呪うと思います。
(いくら「綺麗ごと」を言っても、追いつめられた時は何を言い出すか分かりません、ので。)
その上で、
規定により、39度の鞭打ちを受け、身体中血まみれになり、
その後、丸太の十字架を背負わされて、何度も倒れながらゴルゴダの丘に強制的に向かわさせられるのです。
(私ならもうダメです、、、そしてイエス様のお気持ちを考えると、泣いてしまいます。)
そして、ゴルゴダの丘では、十字架に寝かされ、両腕と脛に「太いクギ」を打たれます。
そのクギは、腕と脛を突き通します。
十字架が立てられると、
周りの見物人たちが、イエス様に「最低最悪の罵声」を浴びせます。
その声を聞いて、イエス様は、祈られたのです。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです、、、」と。
そして、その後「完了した」と言って息を引き取られました。
なぜこんなことが言えたのでしょうか。
それは、イエス様は、極めて明確な「目的」を持っておられたから、でした。
(当然、イエス様のお気持ち、すべてをはかることは不可能ですが、、、)
これから書くことは、一部の人には「分かりにくい」かもしれません。
しかし敢えてはっきりと書かせて頂きます。
人間は、「罪」を持っています。
それは「悪の心」です。「煩悩」とか、「汚れた心」、と言われるものです。
その悪は、「重く悲惨」なのです。
隠しても隠しきれない。
歳をとっても、決して消えない(むしろ歳を重ねるほどに、酷さに気がつく)
シミのような存在です。
多くの人は、そこからくる「罪責感」によって、自分と他人を責め、苦しみます。
そして生前だけでなく、死後にも「その罪」は「大きな影響」を与えるのです。
つまり、その「汚れと悪」を持っていては、死後に「光の世界(天国)」には「入れない」のです。
(当然だと思います。「そんな光」の中は「居心地が悪い」から、です。)
だから「地獄」に行くしかないのです。
(この事実を、正直に「受け入れること」ができる人は幸い、です)
だから「罪の赦し」が、人間には必要でした。
そしてその為には、「罰と、命の代価」が「必要」でした。
イエス様の地上の「生涯の目的」は、まさに「これ」でした。
罪の無い「神の子」が、十字架にかかり、
「私の罪と人類全ての罪を背負い」、
その「赦しの代価」を支払われたのです。
この事実を「自分の事実として」受け止め、
イエス様の「莫大な赦しの代価」を信じ、受け入れた者は、
「罪の借金が帳消し」になるのです。
それは「スピード違反を犯した人」が、
他人に「反則金を支払ってもらって」免除されたのと同じです。
支払わなければ、「逃げきれません」が、
支払えば、「帳消し」になるのです。
イエス様は、「この目的」を「明確に持って」おられたので、
度重なる迫害も、苦しみも、痛みも、
乗り越えていけたのだと考えられるのです。
(到底その慈愛と、お考えの総意は、及びもつかない大きなものですが、、、)
ここから、私たちが学べる「真理」は、
人生の度重なる痛みと苦しみがあっても、
神様から与えられた「明確な目的」が分かったならば、
乗り越える可能性が、数段高まる、というものです。
(地上で「絶対に乗り越えられる」とは言い切れない部分があるので、このような表現にさせて頂きました。)
聖書には、
「訓練と思って耐え忍びなさい」
という言葉があります。
神様が与えたものが、「訓練、修練、修行、、、」なら、
そう考えて(割り切って)乗り越えていくしかない、のです。
(後からその意味を知ることも、多くあるのです。)
ルカによる福音書(新約聖書)23:33-34
「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
今回は、「イエス様の目的論」ということで、
「強い目的」を持っていたならば、
「度重なる試練や苦しみ」も乗り越えていけることを、考察しました。
(正直イエス様と比較すること自体、おこがましいとは思いますが、、、)
次回、イエス様の「課題の分離」、「苦しみの中の励まし」
に注目し、更に「幾つもの問題が同時に起きた時、どう対処したら良いか」を考えます。
イエス様の歩まれた道を考える時に、その「凄まじさと重さ」に圧倒されますが、
このような「いばらの道」を乗り越えられたお方が、
「私を助けて下さる」ことが分かると、
大きな励まし、になります。
「受難週の祝福」をお祈りしています。
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