「分かっちゃいるけど、やめられない」
「魔が差してしまった」
よくこのような言葉を聞きます。
今回は、理性で分かっていても、「感情的」に反発する(又は流される)ことへの対策、
について、ワンポイントですが考えてみたいと思います。
しばらくお付き合い下さい。
人は「痛みを通じて」人生の大切なレッスンを学びます。
痛みが無ければ、逃げたりごまかしたりできるものです。
しかし痛みがある場合、それを避けるために、必死になって取り組むようになるのです。
詩編 119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(新改訳)
「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」(新共同訳)
旧約聖書に、バラムという預言者がいました。(民数記22章)
彼は、神様から「してはいけない」という命令があったにもかかわらず、
当時の王様からの「名誉と報酬」という誘惑によって、間違った道を歩き始めました。
しかし、その道を行く途中、主の使いに殺されそうになり、
「主の命ずることだけをするように」と厳命されました。
神の命令に反逆すれば殺されることを知っていたため、
王様からどれだけ脅されても、彼は神様に反することはしなかったのです。
(新約聖書では、バラムは避けるべき「悪い模範」として描かれています。)
マルチン・ルターという宗教改革で有名な人物がいます。
彼は若い時、大学で教養学、後に法学を学びました。炭鉱で成功した父の願いであったようです。
しかしある嵐の日、カミナリがいくつも落ちる中で、すぐ近くにいた友人が雷に打たれ絶命し、「死の恐怖」を感じました。
その時彼は、助かりたいあまりに「助かったなら、修道士になります。」と誓ったのです。
彼はその誓いを、その後も守り続けました。
父の反対を受けても、修道院に入り、神様から与えられた「使命の道」を歩み始めたのです。
人生どこが転換点になるか分かりません。
しかし私がここで重要だと思うのは、「死の恐怖」を感じた、という点です。
人は「死の恐怖」を感じた時、ある種の「重要な決断」をします。
それは「口先だけ」のものではないのです。すぐに変わるものでもありません。
理性だけでなく、感情の「面倒くさい、やりたくない」という思いさえも吹き飛ばす、
死の恐怖とは「強烈な体験」なのです。
甘えやごまかしさえも、吹き飛ばす体験なのです。
これをしなければ、「持っているもの、全て奪われてしまう」という状況になると、
人は必死になります。
「死に物狂い」になった人は、嫌だろうが感情的に反発しようが、
(乗り越えなければ死んでしまいますので)
必死になって乗り越えるのです。
そして、それを「乗り越えた」人は強くなります。
「分かっちゃいるけど、やめられない」
「魔が差してしまった」
このような言葉を「安易に」語る人は、「罪の恐ろしさ」を分かっていない人です。
どこか「このままでも何とかなる」と環境や状況に甘えている人です。
感情的にいくら反発しても、「悪は悪」「罪は罪」です。
言い訳はできません。
「悪に落ちた恐ろしさ」を体験した人は、悪に二度と近づかなくなります。
普通は、こんな深い心の奥底まで、取り扱いを受けることはありません。
しかし「ある願い」を持っておられる「神様」は、
あなた体験する「大きな苦しみ」を通じて
「あなたの心の奥底、骨の髄」まで鍛え、変えられることがあるのです。
詩編 119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(新改訳)
ヘブル人への手紙12:5‐6
「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
「理性」と「感情」は違います。しかし主は「そのどちらも」正しいことに従うようにと、導いておられるのです。
祝福をお祈りしています。
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