「天の願いを考えることができる人」は、どのような人かについて考察してみます。
今回は最初に聖書の一節を掲載します。
Ⅰヨハネ(新約聖書)4:20
「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」
この聖句から分かることは、
「人を愛すること」と、「見えない神様(天)を大切にすること」は、「比例する」という事実です。
もしあなたが「優しい人」であり、「周りのことを考えて」生活している人であれば、
「神様の願いを受け取る」ことができる確率が、非常に高くなります。
「人のニーズ」に応えようと考える人、
つまり「人から願われた役割」を果たしたいと考えている人は、
「神様からの使命」を知る可能性が、非常に高くなります。
何でも受け入れる「イエス・マンになれ」ということではありません。
(「イエス・マン」では心の奥の感情が伴いませんので、最終的には爆発したり反抗するようになります。)
はっきりと知らなければならないことは、
神様は、私たちを「奴隷のように支配」したいのではありません。
私たちが「自分の意志」で考えて、「主体的に行動する」ことを願っておられるのです。
(そういう意味では、「支配欲を持った人間に依存する」関係とは全く違うのです。)
神様は「私たちの意志を尊重」されますから、
神様は最初に、あるアクションをされて「しばらくそのままにしておく」ことがあります。
私たちが「本当は何を考えているのか」「本当はどうしたいのか」、
それを明らかにするまで、「待っておられる」ことがあるのです。
その期間は「見捨てられた時」ではないのです。
神様は目を開いて「あなたを見守っておられる時」なのです。
ここには、人間側の「成熟」が要求されます。
「承認欲求が強い人」の場合、待てません。
彼らは、自分をゴマ化している場合があります。
「人のニーズに応える」と言いながら、
実は「自分の利益」のために行動していることが、多いのです。
(だから待てないのです。)
「あなたのため」と言いながら、
利用するための「美しい言葉」だったり、
自分は優しい人、良い人だと思われたいという「人からの評価のため」だったり、
自分は優しくて素晴らしいという「自己のイメージを、証明するため」の行動だったりすることがあるのです。
(これを「偽善」と言います。)
人を願いを知るためには、「感情の成熟」と共に「理性的な働き」が必要になります。
古典的名著のエーリッヒ・フロムの「愛するということ」の中で、
「愛することは技術である」という指摘があります。
相手のことを知り、分析し、理解するためには、衝動や感情だけではない、
「知識や努力」つまり「技術」が必要である、という指摘です。
(本当だと思います)
普通人は「自分の物差し」で人をはかります。
自分が好きなものは、人は好きで、
自分の常識は、人も同じように常識だと考えると、思い込んでいるのです。
そして親しくなると「こんなはずではなかった」と失望します。
しかしこれは「現実が見えただけ」なのです。
(そのため、感情とは違う、理解のための「技術」が必要なのです。)
このような時、前提として「知りたいという、意志と努力」が必要です。
(自分を受け入れてほしいという甘えは、邪魔になります)
その上で、人のニーズを「冷静に観察」し、
「情報収集をし、分析する」という技術が必要になるのです。
(承認欲求や依存心を克服した、大人としてのメンタルが必要なのです。)
「天の願い」を考える時にも、同じことが言えます。
神様は「あなたの意見」を追認するイエス・マンではないのです。
神様の意見は、あなたの意見と明らかに違います。
「あなたの願い」があり、(それとは明らかに違う)「神様ご自身の意志」があるのです。
そして、その神様の意思を「受け入れる気持ち」を持っているかどうかで、
あなたが「神様(天)の願いを知る」ことができるのか、できないのかが、
明らかになるのです。
ですから、何度も書いているように、
「人のニーズを知ること」も、「神様の願いを知ること」も、成熟が要ります。
人間的な成長がないと、受け取れません。
頭でわかっても、感情がついていかない、のです。
イエス様は、一番弟子のペテロに、こんな言葉を言われました。
ヨハネ(新約聖書)21:18
「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
ペテロは、若い時には「自分思いのまま」に生きていました。(ある意味当たり前です)
しかし晩年は、「他人のニーズに応えて」生きるようになると言われたのです。
しかも「自分が行きたくないところ」に行くようになる、と言われたのです。
(実際彼はこの後、若い弟子たちのために多くの苦労をし、最後には殉教の道を歩みました。)
「自分の願い」でなくても、
「神様の願いであり、自分がしなければならない道」であるならば、
「黙々と従っていく」、これが晩年のペテロの考え方だったのです。
(彼は、若い時には失敗をしましたが、訓練の中で、成熟の道を歩んだのです。)
「天の願いを考える」とは、綺麗ごとではありません。
自分が立派な人間だと証明するための、「証明書」でもないのです。
「天の願いを考える」とは、
感情と共に、知性で理解し、
「人の願いを受け止め」「神様の願いを考える」中で、
必要なことを「コツコツ」としていく、
毎日の生活の中で、「見えてくるもの」なのです。
あなたは「天の願い」を知りたいですか?
そのような「尊い気持ち」を持っておられる「あなた」の上に、
豊かな祝福があることを、お祈りしています。
マタイ(新約聖書)7:7-8
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」
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