先日ある方と話していた時、コップの水の話になりました。
コップに「水がいっぱい」入っていたら、「新しい水」は入らない。
しかし、「中に入っているもの」を捨てたなら、入れることができる。
このことは、私たちの「感情面」にも当てはまります。
「悩みとこだわり」で一杯になった心は、「新しいもの」を受け付けません。
「悩みとこだわり」は、不要なものです。
ですから、一旦「すべて捨てる」のです。
「捨てられないよ。そんなことは、できるわけない」
「これは、自分の考え方だから、変えられない」
「それは、自分の感情とくっついているので、分けることは不可能」
そんな言葉が返ってきそうです。
(ここから、説得に入ります)
もし抱えておられる「悩みや苦しみ、こだわり」が、本当に不要ならば、
「一度」捨ててみても良いのではないでしょうか。
(不要であると、、、どこまで実感しているかがポイントです。)
どうせ「その負の感情」は、またどこかで湧き上がります。
だから「一度捨ててみる」のです。
捨てる時には、
「潔く、すべて」捨てます。
「完全に、捨てる」のです。
理屈はあれこれ、考えません。
ただ「捨てる」のです。
そうすると「見えてくるもの」があります。
丘を越えた感覚です。
今まで、「不安とこだわり」によって、視野がふさがれていたものが、
急に無くなり、前が「良く見えるようになる」のです。
丘を越えても、あなたは死んでいませんし、
あなたの本質は、何も変わっていません。
ただ「悩みとこだわり」を「捨てた事実」があるだけです。
「悩みとこだわり」を捨てたことで、
プレッシャーが無くなります。
そして冷静な心(平常心)で、課題を見ることができている自分に、気がつくはずです。
この感覚は、慣れると「クセ」になります。
「捨てることが、快感」になります。
なぜなら、「悩みとこだわり」を捨てても、何の実害もありませんし、
むしろ「メリット(良い点)」しかない、からです。
捨てれば、捨てるだけ「心が軽く」なります。
そして「明るく」なります。
「明るい気分」で人と接すると「相手との関係も良く」なります。
(好循環となります。)
今まで、どうして捨てなかったのかと、
「不思議に思う」ぐらいです。
ただしこうなるためには、
どこかで「捨て始めないと」いけません。
しっかり「捨てる覚悟」を持つことです。
「覚悟」です。
「覚悟が大事」なのです。
イエス様の弟子への言葉です。
ルカによる福音書(新約聖書)8:34-35
「イエスは群集を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」
イエス様と一緒に歩む(真理の道、神様が願う道を歩む)には、
「自分を捨てない」とついて来れないと、言われたのです。
弟子たちは、①イエス様への「愛情」から、
②時に「打算」から、
③そうしないと「恐ろしいことが起こるという事実」から、
「自分を捨て」てイエス様に従いました。
(今回は、細かい説明は割愛します。)
そこには、「自分の肉(弱く不純な心)」を持つことの危険性を、
「自覚した」弟子たちの姿がありました。
自分の中の「悩みとこだわり」を、
捨てるだけの理由は、たくさんあります。
聖書のことは知らなくても、
「生きる知恵」として、
「自分を捨てることのメリット」を知って頂けたら幸い、と思います。
ここまで読んで下さった皆さんの上に、
豊かな祝福がありますようにと、お祈りしています。
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