以前相談をした者です。
キリスト教会に一時期は行っていましたが、なかなか居場所がない中で、イスラム教のモスクに行ったきっかけで、一人の外国人男性と出会いました。親しくなりたいために「イスラム教徒だ」と嘘を言ってしまいました。その彼とは思ってもみない形で婚約することになり、「嘘を嘘でなくすため」イスラムに改宗しました。
しかしクリスチャンの三位一体の教えを知っていたため、ムスリムの教えに納得出来ず、悶々としていました。たましいの救済を求める中で、教会に戻りたいと思うようになりました。彼にそのことを話すと、キリスト教を馬鹿にされ批判され、ショックで一か月ほど思考停止になりました。SNSで繋がっている先輩クリスチャンに頼んで、その方の教会に連れて行ってもらいました。集会が始まると涙が止まらなくなり「イエスは(私の罪のために)死んでまでも愛して下さっている」という言葉が心に響き、その愛に応えたいと思いました。
その後かつて通っていた教会に行くようになりましたが、受け入れてもらいたいために「海外で洗礼を受けた」と言ってしまいました。今更嘘でしたとは言えないので、ブログを通じてある団体にお願いして、ホテルで洗礼を受ける予定です。「海外で洗礼を受けた」という嘘は消えませんが、嘘を隠したまま、心境の変化だけを話して、現在の教会で籍を作って貰おうかと思っています。または引っ越すと嘘をついて、別の教会で正式に洗礼を受けようかとも考えています。最近「嘘をつく癖」が一番悪いところだと気づきました。
Mさん、コメントからの相談を読ませて頂きました。
3つの文章を要約しましたので、上手くまとまっていないかもしれませんがご理解下さい。(婚約者さんとの関係は、別の機会に触れたいと思います。)
いろいろなことを思いますが、一つに絞って書いていきます。
それは、「自分を知る」ということです。
それが分かると、今置かれている状況を客観的に見て、「自分にとって最善の選択」が見えてきます。
あとは、その方針通り、コツコツと進んで行けば良いのです。
(すでに、ご自分のパターンに気がついておられるようには思えます。)
高い山に登ると、下界の景色が一望できます。
するとややこしかった問題も、小さなものに見えたりするのです。
「自分を知る」ということもよく似ています。
低いところにいると、感情が邪魔をして「客観的」に自分を見れないことがあるのです。
高い山に登るような視点で、自分をみるか、第三者から指摘してもらうと、はっきりと「自分を知る」ことができるのです。
聖書の言葉です。
2コリント(新約聖書)
3:16しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。 3:17主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。 3:18私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
「主に向く」(主に立ち返る)について考えていこうと思っています。
「主に向く」と、自分の覆いに気がつきます。それは光を見て近づくと「現実の自分の姿」が明らかになるようなものです。
「自分を知る」ためには「自分の外」の基準や働きが必要です。
その基準に立って、自分を振り返ると「自分の姿の輪郭」が見えてきます。(分かりますでしょうか。) 自分の外側からの働きを受けると、自分が良く分かるのです。
「自分の内だけ」の基準で自分を見ても、分からないのです。
(そのため、自分以外の存在の指摘が有益なのです。)
Mさんには、一つのパターンがありますよね。(すでにご自分でも気づいておられると思います。)
それは「受け入れられるために、嘘をつく」というパターンです。
イスラム教徒だと嘘を言われましたよね。
洗礼を受けたと嘘を言われました。
責める意味で書いていないことをご理解下さい。
しかし聖書的な価値観(ものさし)からは、はっきりと「罪である」と認めなければなりません。
(いろいろ悩みましたが、このような文章での返答の場合、周りくどい書き方は、逆に分かり難くなりますので、敢えて要点だけを書きます。)
クリスチャンとして書きますが、
その「Mさんの罪」のために、イエスが十字架にかかられました。
ですから、罪をおろそかにすると、「罪を赦された」イエスの価値が分からなくなるのです。
そして「これぐらいは大丈夫」と罪を曖昧にして「おかしな方向」に引きずられるのです。
クリスチャン初心者も上級者もありません。
罪は罪なのです。
クリスチャンは、その「罪の恐ろしさ」を知り、それが赦され、その「悪の力から解放される体験」を通じて「人生が変えられる」のです。
今後の方針ですが、高い山から進むべき方向を確認するように、
「今後の方向性」をしっかりと見据える必要があります。
まず「自分の罪」を認めて「方向転換」をしましょう。(これを悔い改めと言います。)
方向転換には基準が必要です。
それは、「聖書の御言葉」です。(できれば毎日聖書に触れましょう。)
真理は「自分の価値観を超えたところ」にあるものです。(灯台の光のようなものです。)
方向転換ができたら、コツコツと御言葉の語る方向に進みましょう。
きっとその過程で、自分の中にあるひどいもの(反発、正当化、責任転嫁の感情)に気がついて、悲しくなることでしょう。
しかし心配しないで下さい。これは「すべての人が通る道」です。
逆に、通過しない人は、自己愛が強すぎる「生ぬるいクリスチャン」です。
イエス様を愛するクリスチャンは、「自分の罪」と戦うのです。それも「激しい戦い」です。
ヘブル人への手紙(新約聖書)12:4
「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」
クリスチャンは平和を愛しますが、心の中の罪との戦いは、時に熾烈さを極めるのです。
具体策について、提案させて頂きます。
教会に属することは大切です。
それによって、自分の「信仰の土台」を作ることができます。
(教会を定めないと、根無し草・浮き草状態になり・・・不安定が続きます。)
「ここの教会に属したい」「ここから神様が植えて下さった教会だ」と思える教会が心に浮かぶ(見つかった)ならば、その責任者に(またはその教会の精神的なリーダーに)、私に書いて下さったように、すべてのご自分の信仰の歴史を「正直にお話すること」をお勧めします。
こと信仰(神様との関係)においては、できるだけ「正直である」方が良いです。
正直な分、迷いが少なくなります。
後は「灯台の光」を目印に進むように、目指すべき方向をしっかり見て、
コツコツと進めばよいのです。
この時、自分に合わせるのではなく、神様に合わせるようにしましょう。
その方針さえ定まれば、語る言葉が定まってきます。
しばらくすると、いろいろな面で「すっきり」とする筈です。
今の私のアドバイスを100%できるとは思わないで下さい。
50%でも、できれば素晴らしいのです。
失敗するのがクリスチャンです。
でも、失敗しても「イエス様が私の味方で、いつも私の側にいて下さる」と信じられるのもクリスチャンです。
「信仰に関しては」正直に!
これが私がMさんに差し上げられるアドバイスです。
祝福をお祈りしています。
下記の聖書の言葉は、考え方の基準として普遍的なものです。
Ⅰコリント(新約聖書) 10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
ピリピ(新約聖書) 2:4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
イエス様の言葉
マタイ(新約聖書)
5:37 あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
もし気に入って頂けたら、たくさんの方に読んで頂くために、クリックの御協力をして頂けると幸いです。(一日一回カウントされます)
読者登録をして下されば、新しい記事を自動的に知らせてもらえます。(無料ですが、はてなブログの登録が必要です。)
もう一つ別のブログランキングです。(こちらもクリックして頂くと助かります。一日一回カウントされます)
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
↑↑↑↑↑↑
こちらをクリックすると記事一覧を見られます。