今回は、「聞かれる祈り」についてです。
旧約聖書の預言者に、サムエルと言う人物がいました。彼は、サウル王・ダビデ王を任職した人です。そのサムエルのお母さんが、今回取り上げるハンナです。
ハンナは長い期間、子供が与えられませんでした。しかし彼女は創造主に祈った後、息子サムエルが与えられました。その経緯を通じて、「聞かれる祈り」を考えてみます。
(神様=天地をつくられた創造主)
「聞かれる祈り」について、3つの観点から考えます。
①「苦しみ」が用いられることがある。
②聞かれる前に、すでに「平安」が与えられている。
③聞かれた後に、「打算的にならない」大切さ。(動機と応答)
①「苦しみ」が用いられることがある。
ハンナは、夫から大切にされていましたが、長く子どもが与えられませんでした。
そのことで身内から酷い言葉もかけられ、苛立ち、食事を取りたくなくなるほど、悲しんだのです。
人間は、多少の苦しみでは、「自分の努力」で解決しようとします。
しかしそれでは「不可能」だと悟った時、「解決してくれる存在」に「すがり」ます。
「求める心」が強ければ強い程、「恥も外聞もなく」すがるのです。
ハンナは、「子どもが与えられる」には、「創造主に求める」しかないことを悟り、切に祈ったのです。
少し前にも書きましたが、「創造主への祈り」は、
「瞑想」ではありません。
「心を空白」にすることでもありません。
「自分の願い」を心の中で、何度も繰り返すことでもありません。
また「自分が作り上げた、小さな神」に「願いごとを繰り返す」ことでもありません。(実はこれが一番やっかいで危険なのです。)
それらのことは、厳密に言えば、すべて「祈り」ではないのです。
祈りは「会話」です。相手が存在します。
「創造主」を無視した祈りは、聞かれません。その方に「届かない」のです。
仮に「創造主の温情」で、一時的に聞かれたように見えても、
(主につながっていなければ、欲に負けて)
祈った本人が、創造主の元から離れていきますので、最終的には、「すべてがぶち壊し」のようなことが起きるのです。
(これが恐ろしいのです。)
聞かれる祈りとは、創造主と「個人的につながる関係」から始まります。
創造主を「知る」だけでなく、「求めて」、最終的に「つながる」のです。
そこまで行くのに「苦しみ」が用いられることがあるのです。
苦しみを通ることによって、「エゴ」や「プライド」の壁を 乗り越え、「自分が変わる」ことも、「自分を捨てる」こともできてしまう・・・「心の備え」ができるのです。
ハンナはこのように祈りました。
1サムエル1:10-11
「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。
そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますならば、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」
彼女は、「自我」を越えた「御心の祈り」に、祈りが「引き上げられた」のです。
②聞かれる前に、すでに「平安」が与えられている。
1サムエル10:17-18
「(祭司)エリは答えて言った。『安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。』
彼女は、『はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように』と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。」
創造主に、祈りが「つながる」ところまで行くと、「祈り切った」という感覚になります。(「祈りが届いた」という感覚です。)
その感覚を持つと、「祈りが叶えられる前」にすでに「精神的な変化」が起きているのです。
ハンナは、祈った後「表情が変わり」ました。
「心が穏やか」になったのです。
それから、程なくして彼女は「身ごもった」のです。
1サムエル1:20
「日が改まって、ハンナはみごもり、男の子を産んだ。そして「私がこの子を主に願ったから」と言って、その名をサムエルと呼んだ。」
(彼女は、主に願って与えられた子どもであることを忘れることなく、子の名をサムエル「その名は神」と名づけました。)
③聞かれた後に、「打算的にならない」大切さ。(動機と応答)
ハンナは、祈りが叶えられた後、乳離れするまで手元で育て、サムエルを祭司エリに託しました。
約束通り主に捧げたのです。(その後も離れていても、愛情を注ぎ続けたのです。)
1サムエル1:26-28
「ハンナは言った。『おお、祭司さま。あなたは生きておられます。祭司さま。私はかつて、ここのあなたのそばに立って、主に祈った女でございます。
この子のために、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。
それで私もまた、この子を主にお渡しいたします。この子は一生涯、主に渡されたものです。』こうして彼らはそこで主を礼拝した。」
実は「祈りが叶えられた後」が大切なのです。
多くの人は、「打算的」に祈ります。
「自分の目的を果たす」ために「創造主に祈る」のです。
ハンナのように、その過程で「主につながる」ならば、
「創造主との関係」を一番にして、「主を無視する」ことがなくなります。
そうなると「主に感謝を捧げ、主との約束を果たそう」とするのです。
主につながっていると、祝福が継続して与えられます。
実際、ハンナはこの後、3人の息子と2人の娘が与えられました。そして長男サムエルも主に豊かに用いられたのです。
しかし、創造主とつながらないで、祈りが叶えられたなら、どうなるでしょうか?
(そういうことも起こるのです。)
叶えられた後、「目的を果たした」ので、主から離れていきます。
口先の約束だけでは、簡単に破ってしまいます。
当然のように「心変わり」をします。そして自分を正当化します。
そうなると、残念ながら「祝福は止まり」ます。
創造主の願いから離れるので、ある意味「当然」です。
そのため、「後に準備されていた祝福」は受け取れず、場合によっては、「すべてを無くす」のです。(今回は触れませんが、サウル王、アハブ王などはその典型です。)
マタイ(新約聖書) 13:12
「というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。」
(この言葉は、厳しいですが「真理」を突いています。)
聞かれる祈りは、
主を「知り」、「求め」、「主につながる」祈りです。
「主につながる」と、祈りが聖められ、御心の祈りへと、祈りが昇華されるのです。
人間は、自己中心で強欲で身勝手です。
しかし、「主につながる」と、祈りが「聞かれる祈り」に変えらるのです。
1ヨハネ(新約聖書)5:14-15
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」
今回は、「聞かれる祈り」をまとめました。
(悲しいことに、痛い部分を突いているかもしれません。)
あなたが、人知を越えた「創造主の奇跡」を体験できますように。
あなたの祈りが「聞かれる祈り」に変えられますように。
祝福をお祈りしています。
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