【お知らせ】過去Twitter のまとめを作成しました。(2023年5月より)
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(少しづつ更新していきます)
以下にブログ本文です。「感謝について」
先回から、このテーマを掲げています。その後半です。
③「諦めないこと」諦めないための考え方、に注目します。
人生は、荒野で作られます。
なぜなら、荒野は「本当に大切なもの」しか、役に立たないからです。
お金も、名誉も、考えの甘い人間関係も、役に立ちません。
「水」や「わずかな食物」で、数日間生き残ることができます。
そして最も重要なことは「心の持ち方」なのです。
遭難した人で、生き残った人たちに、共通していることが、一つあります。
それは、「諦めなかったこと」です。
「諦めない」ので、救助を求めるために、火でのろしをたてたり、
「諦めない」ので、体力を温存するために、敢えて動かなかったり、
「諦めない」ので、仲間を励まし続け、
「諦めない」ので、出来るだけ食物を小分けにして、今日の食物を我慢したり、
最善の手を打ちます。
理性的な行動をとるのです。
諦めてしまったら、すべて終わります。
先を考えなくなります。
衝動的に行動し、だんだんと体力がなくなります。
そして、死を待つばかりとなるのです。
苦しくて、自殺をするかもしれません。
私たちは知っていますが、「生きる使命」を放棄して死んでも、苦しみは終わりません。
むしろその判断の恐ろしさを後から知って、死後に苦しみが増すことになるのです。
(本当です。最悪の可能性を回避して欲しいのです。)
私たちは、寿命まで「生きなければ」なりません。
「与えられた使命」を果たさなければ、ならないのです。
そのためには「諦めてはいけない」のです。
使徒パウロは、ユダヤ教のエリートでしたが、クリスチャンになったがために、非常な苦しみを経験しました。しかし、彼は「諦めなかった」のです。
2コリント11:23-27
「私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。、、、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」
今回、「人生を諦めないため」に、二つほど、ポイントを考えます。
一つは、「感謝すること」。
もう一つは「慰めを受けること」です。
【感謝すること】
感謝は、「感謝できる環境だからする」ものではありません。
「現実を受け入れるため」のものです。
一旦、すべてのことをリセットして、「感謝できること」を探すならば、
不思議なことがおきます。
「希望」が見えてきます。
言い訳や責任転嫁をしている間には、決して見ることができない「肯定的なもの」に注目できるのです。
すると、「力が湧き上がる」のです。
「気力」が満ちてきます。
信仰を持っておられる方にとっての、「感謝」は、
「神様の支配を認めること」です。
聖書を知っている方は、神様は「良い神様」だと知っています。
感謝をし続けると、苦しみも、その「良い神様」が、許可されて起きた「最善の道の一つ」だ、と考えられるようになります。
(ここまでいくには、神様と深い祈りのやりとりが必要です。)
詩篇119:71
「苦しみに会ったことは,私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」
ぜひやってみて下さい。
すでに、やっておられる方は、共に頑張りましょう。
感謝は、知識ではなく、実践です。
山は近づかないと分からないように、
批評している間は、決してその素晴らしさを体験できません。
実践あるのみ、です。
【慰めを受けること】
詩篇23篇4節
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」
「死の影の谷」で、感じることは、
「恐怖」です。
しかしもっと恐ろしいことは、「孤独」です。
「誰も助けてくれない」「誰も心配していない」「誰も分かってくれない」
そう思ってしまった時に、「本当の絶望」がやってきます。
しかし、そんな絶望の暗闇に、
あなたに「寄り添っておられる方」が存在するのです。
「いやいや、そんな甘い話はないよ、、、」
そう言える方は、まだ余裕があります。
本当に「切羽詰まった人」は、「わらをもすがり」ます。
自分のプライドも体裁も乗り越えて、求めます。
実は「自我が強く、罪深い人間」は、それぐらいの経験をしないと、本当の意味で神様(イエス様)を求めないのです。
(余裕のある間は、「利用する程度」しか、求めていないのです。恐ろしいことですが、、、)
必死に求めると、パウロのような体験をします。
「死と同じ」状況の中で、「キリストが私を捕らえて」下さっているという体験です。
ピリピ3:10-12
「キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中から復活に達したいのです。
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」
イエス様は、「死の影の谷」の一番暗い絶望的な場所で、
あなたの近くに「助けるために、来て下さる」お方です。
(あなたの一番近くにおられ、捕らえて下さるのです。)
想像してみて下さい。
闇の中で、動けなくなるほど、憔悴しているあなたに、
「光の助け」がやってきます。
その方が、手を伸ばし、
「もう大丈夫、安心して」と言われます。
もし、そんな声を聞いたなら、
あなたは、「喜びで気も狂いそうになる」と思うのです。
「その深い慰め」を受けた人は、
イエス様の願いを知って、「諦めることの無い人」に造り変えられます。
死の影の谷(人生の荒野)の乗り越え方は、
「決して諦めないこと」です。
「諦めない」ならば、何とか闇を抜けることができるのです。
祝福をお祈りしています。
詩篇23篇4節
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」
たとえ「死の影の谷」であっても、そこで「イエス様と一緒」であれば、楽しいのです。
そして、「死の影の谷」でなければ、「イエス様と出会えない」ならば、
「死の影の谷」も意味があると、「本気で思える」のです。
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