聖書を読んでいます。インターネットでキリスト教の番組やお話を、時々視聴しています。
「信じれたら素晴らしい。」と思いますが、どうしても信じられません。
知人のクリスチャンと話していて、「あんな考え方ができたらいいな」と羨ましく思っていますが、
はるか昔の聖書の記事が、今の自分に「どう関係する」のか、
今でも「信じるに値するもの」なのか、分からずにいます。
信仰とは、どうやったら持てるのでしょうか。
ご質問をありがとうございます。
信じたいのに、信じられない、、、つらいですよね。
しかし、すでに質問者さんは、信仰の第一歩を歩んでおられるようです。
信仰は、「自分で選んで」信じるものではなく、
「神様からの語りかけ」への「応答」です。
むしろリラックスされて、今の「迷い」を楽しまれるような気持ちで、過ごされたら良いかと思います。
「神様は、私にどんな風に、語りかけて下さるのだろうか」と。
今回、信仰を持つヒントを、モーセの「出エジプト」から考えていきます。
「出エジプト」とは、神様がエジプトの奴隷状態から、約束の地に、モーセというリーダーを用いて救い出して下さった物語です。(モーセが紅海を杖で割って、通った話は有名です。)
今回は、
①苦しみが用いられること。
②神様に助けて貰った実体験。
③感謝しつつ、求め続けること。
をまとめてみます。しばらくお付き合い下さい。
①苦しみが用いられること。
繰り返しになりますが、
信仰とは、「批評や分析」で持つことはできません。
個人的な「神への応答」なのです。
ちょうど橋を渡って、「違う国に入る」ようなもので、
そこには「覚悟(決断)」と「実際的な体験」が伴います。
それだけの覚悟を持つためには、
多くの場合「苦しみ」が用いられます。
旧約聖書のモーセに率いられたイスラエルの民は、長く奴隷状態でした。
最後は、パロに散々苦しめられ、逃げ出すようにエジプトを出たのです。
もし海辺で、津波が来ると分かったならば、一目散に高台に逃げるはずです。
そこには、批判も批評もありません。
逃げなければ、死んでしまいます。
逃げるために、火事場の馬鹿力のような行動をとる人もいます。
とにかく必死なのです。
必死になると、「自分の常識」や「こだわり」さえも平気で乗り越えることができます。
「橋を渡る覚悟(決断)」ができるのです。
橋を渡るのは、「感情」ではありません。
「意志」です。
感情は、橋を渡った後に、ついてきます。
向こう側に渡って、その景色を見て体験して、「感情」が芽生えます。
橋を渡らないなら、一生「向こう岸の感情」は生まれないのです。
②神様に助けて貰った実体験。
信仰は、客観的な分析ではなく、個人的な体験です。
ですから「私は、神様に助けられた」という「実体験」を伴うのです。
モーセたちは、パロの迫害から、紅海を渡ることで無事脱出できました。
その後、荒野の「不足の地」で、水やマナ(食物)、肉(うずら)が与えられました。
彼らは、不足の度に叫んで「助けられた」のです。
昼は雲の柱、夜は火の柱で、進む道も教えられました。
彼らは、実際的に助けられたのです。
(問題は、すぐに恵みを忘れ、当たり前と思ってしまったことです。)
質問者さんは、神様に助けられた経験はありますか?
もしあるとすれば、一つ一つ書き出してみて下さい。
病気が癒された。
苦しい状況から助けて出された。
不思議な出会い、偶然とは思えないことが重なった。
それらを、「偶然だと思わず」に、一つ一つ思い出し、書き出してみるのです。
点が線になるように、神様が生きて質問者さんに働いておられたことに気がつくはずです。
奇跡としか思えない、ドラマティックなストーリーが見えてくるかもしれません。
しかし、助けられたことの最大のポイントは、
「罪からの赦し」です。
他宗教ではなく、イエス様を信じる、最大の優位性は、「キリストの血による、赦し、救い」です。
罪の赦しは、他宗教では取り扱いません。(取り扱えない、のです。)
あなたが、自分の中に「汚い心」があることを自覚しているならば、
キリストは「罪を赦して下さる、唯一の方」であることを知って頂きたいのです。
(罪が赦されないと、神様との関係が回復されません。天国にも入ることができません。)
イザヤ1:18
「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」
③感謝しつつ、求め続けること。
イスラエルの民は、出エジプト後、第一世代は荒野で皆死に絶えてしまいました。(第二世代は約束の地に入りました。)
入れなかった理由は、感謝を忘れたこと、です。
感謝を忘れ、不平不満を言い、神様の約束が信じられなくなったのです。
しかし第一世代でも、入ることができた人物が二人います。
ヨシュアとカレブです。
彼らは、神様の恵みを忘れることなく、感謝をし続けたのです。
その結果、「神様の救いの約束」を最後まで、信じることができたのです。
信仰は、一度信じたら終わりではありません。
(信仰を持つことは、ゴールではなく、スタートなのです。)
信仰の橋を渡り、神様の子になり、神様と関係ができた後も、
生涯祈り、求め、神様との関係を深め続けるのです。
多くの人は信じるきっかけは、「しるし」です。
〇〇があるから、私は聖書を信じる、
神の愛を信じ、十字架の赦しを信じる。
神様が、今の時代でも働いておられ、
この私にも働いておられることを信じる。
(求めると、そのような〇〇が与えられるのです。)
ルカ11:9-13
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。、、、このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
私も、教会に行き始めた時、聖書を読んでも、最初はよく分かりませんでした。
(信じられませんでした。)
2000年以上前の話が、どうして現代に通用するのか。
本当に神は生きておられるのか。
聖書が私に関係があることを、どうしたら分かるのだろうか。
ある時から本気で、
神様に「信じることができるように、確かなしるしを下さい。」と切に祈ったのです。
3ヶ月ほど祈った時、ある日突然、聖書に書かれていることと、「同じ体験」をしました。
私に「聖霊」が働いて下さった瞬間でした。
その瞬間、私の心に「不思議な感覚」がやってきました。
聖書が真理だと「悟った」のです。
聖書は、生きた神様のことが書かれた書物であり、
イエス様の記事も本当で、
十字架の血潮の赦しも本当だと「悟った」のです。
涙と共に、感謝の祈りをしました。
祈った後、庭の木を見ると、木が輝いて見えました。
「神様に造られた植物は、こんなにも美しいものだったのか」
と感動したのです。
信仰は、神様から与えられるものを、「受け取る」行為です。
①苦しみが用いられます。
②神様に助けて貰った実体験が必要です。
③感謝しつつ、求め続けることによって、「受け取る準備」ができるのです。
ご参考にして下さい。
信仰を持ち、神様の愛を知り、神様が生きておられることを知ると、
人生が「本当に楽」になります。
ぜひ、その「素晴らしい体験」ができますように、
祝福をお祈りしています。
ヨハネ1:12 「この方(イエス様)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」
ヨハネ7:38 「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
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