人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から

世界のベストセラー聖書の価値観から、生きるを考えます!(モノの見方が変わると、とても楽になります)

聖書の「偶然開いた箇所」を神様からのメッセージと受け取って良いのですか?

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翔さんの、コメントからのご質問です。

知人のクリスチャンに「迷った時は聖書を開いて、それがポジティブであればYes、ネガティブであればNoと理解して行動する人」がいます。私が同じようにしてみても、聖書の真ん中辺りを開いてしまいますし、小見出しに目が行きます。

そのことを伝えると「神様に聞いたことがないから、できないのよ」と、私が逆におかしい人のように言われます。正直、そう言われると悔しいです。周りに同じような信仰の人がいます。どんなふうに理解したら良いのでしようか。

 

翔さん、ご質問をありがとうございました。

信仰には、いろいろなスタイルがあります。

聖書の読み方、解釈も教派によって多少の特徴があります。

しかし、「聖書の御言葉」が土台であることには変わりがありません。

 

今回、「聖書解釈」についての、私なりの理解を書いていきます。

色々書籍を確認してみましたが、長くなるとかえって分かりにくくなるため、

端的にまとめるつもりです。

 

A聖書は、読み込むのではなく、読み取るものである。

聖書の理解は、科学者が自然界を観察するようなものです。

自分の考えを正当化するために、読み込んではいけません。

ですから、「前後関係」が大切です。

 

こんな話を読んだことがあります。

ある人が、聖書をパッと開いたら、「ユダが自殺をしたところ」が目に入ったそうです。

次に聖書を開くと、ルカ10:37「あなたも行って同じようにしなさい」が目に留まって、

これは「どういうメッセージなのか」と悩んだそうです。

 

この正しい解釈は、前後を読むことによってはっきりと分かります。

 

ルカ10章

25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

 

30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエイコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。、、、

 

36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

38 さて、彼らが旅を続けているうち、、、

 

ここから(前後関係から)分かることは、

①イエス様は弟子たちと旅をしていた。

②悪意を持った宗教家がイエス様を陥れようとして、質問をした。

③イエス様は、例え話をして「良きサマリヤ人の善行」を語った。

④その上で、「あなたも行って、同じようにしなさい」と言われた。

(当時のユダヤ人のサマリヤ人への差別を考えると、二重三重に強烈な例え話です。)

 

つまりここから分かることは、

「知識で議論するのではなく、愛の行為を実践しなさい」とイエス様は、プライド高い専門家に、強烈なカウンターパンチを与えた言葉が、上記の言葉と理解できます。

 

ここまで、考えれば、

「ユダの自殺」

「善行を同じように、行う」

を結びつける必要がない、ことが分かります。

むしろ、「文脈を越えた解釈」は危険だということが分かるのです。

それは聖書の解釈ではなく、自分の考えの正当化です。

(信仰とは、聞くものです。「自分の考えや直感」の実現の保証ではないことを留意すべきなのです。)

(極端な、神秘的、霊的解釈も注意すべきです。)

 

Bその方が、聖書の文脈を理解しているかどうかを確認してみましょう。

聖書の解釈は、

①前後関係を確認する。

②背景や他の聖句の関連を確認。

③その上で、適応する。

がスタンダードな理解になります。

 

①②を理解した上での、③ならば大きな問題はありません。

(①②の理解が間違っているという観点は、今回は触れません。)

 

しかし、①②を全く無視した③ならば、危険です。

それは、霊知主義、シャーマニズムにつながります。

(危険な考えに暴走する可能性があるのです。)

 

Cその方を批判するという動機ではなく、自分が聖書を理解するという動機では、聖書を確認してみる。

聖書の理解は、「相手をやっつけてやろう」という動機では深まりません。

「自分自信が真理を探究する」という動機が大切です。

 

ですから、ご友人が聖書の御言葉を、取り上げたならば、

前後関係を確認して、本当にそのような意味なのか、を調べてみたら宜しいかと思います。

(肯定、否定も、よく読まないと分からない文脈がありますから。)

 

【まとめ】です。

神様は、「神様の御性質」と合っているならば、

私たちの「自由意志」を限りなく尊重される方だと、私は理解しています。

ですから、その範囲であれば、何をしても良いのです。

 

真剣に考えて、「最善の手」を打てば良いのです。

もし失敗したら、神様はそのことにも、気づかせて下さいます。

失敗に気がついたなら、悔い改めて、方向転換すれば良いのです。

 

この時、「自己正当化」の誘惑に負けてはいけません。

「自分の責任」で間違えたと、潔く反省するのです。

 

絶対に「神様のせい」にしてはいけません。

「導き信者」の方は、自分の失敗を「神様のせい」にすることがあります。

それは、自分が聞き間違えただけの、「自分の失敗」なのです。

 

クリスチャンは、悔い改めの人生です。

導きを大切にするがあまり、自分の失敗を誰かのせいにすることは、絶対に慎むべきです。

 

以上まとめてみました。

ご参考にして頂ければ幸いです。

周りに、ご友人と同じような考えを持つ人が多くても、心配しないで下さい。

(ご質問の文章だけでは、ご友人の聖書理解がどのようなものか分かりませんでしたので、一般論として書かせて頂きました。)

 

質問者さんが、真摯に聖書の御言葉を理解しようと努め、

「自分の頭」で、「精一杯最善の選択」を考えていかれるならば、

神様は、導いて下さり、助けて下さると、信じています。

 

祝福をお祈りしています。

1コリント10:23 「すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとは限りません。」

 

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