今回は、「蒔く種を吟味する」というテーマで考えます。
「種」とは「言葉や感情」と言い換えても良いのです。
「売り言葉に買い言葉」という表現があります。
小さな火が、炎上して大火になることもあります。
「火に油を注ぐ」言い方もあれば、「沈静化する」言い方もあるのです。
蒔く種の「良し悪し」で、「結果」が確実に変わります。
良い種蒔けば、良い刈取りができます。
しかし反対に、悪い種を蒔けば、確実に悪い実を刈取るのです。
今回は「種蒔き」がテーマです。
蒔く種の良し悪しを「吟味する」ことを考えます。
①蒔く種(言葉や感情)の良し悪しの「基準」が必要。
②基準は、聖書の言葉。そして聖書に向かう姿勢。
③「怒ることは当たり前」と思わない(問題提起)。
しばらくお付き合い下さい。
①蒔く種の良し悪しの「基準」が必要。
人は普通、誰も「自分」が基準です。
韓国のことわざに、「人なら不倫、自分ならロマンス」という言葉があります。
人間は残念ながら、根本は「自己中心」なのです。
誰もが、自分にとって都合のいい「耳障りの良い」言葉は受け止めても、「耳に逆らう」言葉は無視します。
ですから、そんな「自分が基準」では、
良い種と悪い種を「見極められない」のです。
ではどうしたら良いのでしょうか?
種の良し悪しを見極めるには、
自分を客観的に判断する「基準」が必要です。
感情で行きたくても、絶対に行ってはいけないと判断できる「基準」です。
これは、「自分を超えた」基準でなければなりません。
自分の利益で、簡単に「書き換えられない」ものでなければいけないのです。
「傍目八目(おかめはちもく)」と言う言葉があります。
碁で、当事者よりも、横で見ている人の方が、八目分のハンディを持つぐらい優位である、という意味です。
人は自分の利益になると、冷静な判断ができなくなるのです。
そのため棋士は、「定石」を覚えます。
自分を律し、客観的に判断できる「基準」です。
その「基準」によって、今の手の良し悪しを判断するのです。
感情的になっても、「定石」を思い出すならば、「良手」か「悪手」かを区別できるのです。
そのような「定石」が、人生にも必要です。
それが「聖書」なのです。
②基準は、聖書の言葉。そして聖書に向かう姿勢。
聖書には様々な「基準」(価値観)が書かれています。
長い歴史の中で生き残った教えには、「普遍的な真理」が書かれています。
(クリスチャンは、聖書を「神様の言葉」と考えています)
イエス様の教えは、一言で言えば「愛しあうこと、許しあうこと」です。
また旧約聖書のモーセの十戒には、
「創造主を敬うこと。両親を敬う大切さ。殺人や姦淫、盗みや妬みは悪であること」が書かれています。
人が生きる上での「基本的な原則」が書かれているのです。
そしてイエス様は、「偽善」を厳しく指摘します。
表面上は綺麗に取り繕っていても、
心の中は嘘で固まった「偽善」について、特に権力者の偽善については厳しいのです。(私たち人間が持っている「偽りの性質」です)
マタイ5:28
「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」
マタイ23:27-28
「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。
そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」
聖書の言葉は、創造主の思想、価値観です。
人間を超えた「基準」、「聖さや善」「愛や義」という普遍的価値観です。
聖書を理解するには、その基準を「認める」ことです。
そして、その基準に当てはめて「自分を吟味する、謙虚さ」が必要です。
注意して頂きたいのは、
「自分」が基準ではないのです。
「聖書の価値観(創造主)」が基準です。
自分が基準だと、ゴールポストを動かすことを「平気」でします。
聖書(創造主)の基準に対する「姿勢」が大事なのです。
聖書が中心か、自分が中心かという「立ち位置」の視点です。
聖書(創造主)が中心なら、自分の価値観を吟味できます。
しかし、自分が中心なら、基準を批判し始めます。
(この違いは大きいです。)
③「怒ることは当たり前」と思わない(問題提起)。
ムッとすることが起きたとします。
怒るのは当然だと考えたとします。
それでは、「良い種」と「悪い種」を見極められません。
一歩立ち止まることです。
自分の感情にゴーサインを出す前に、これで大丈夫だろうかと考えるのです。
私は毎日聖書を読みます。
何度も読んでいる箇所も、再読します。
それを通じて、自分の心を吟味するためです。
ヘブル 4:12
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」
聖書の基準(光)を心で受け止めると、「自分の心」を吟味することができます。
そして心の中にある「良い種」を、積極的に蒔くのです。
そして悪い種は、イエス様にお祈りして小さくして(聖めて)いただくのです。
(イエス様の十字架には、そのような力があります)
神様がおられることが分かると、
だんだんと神様の摂理に沿って生きていくようになるのです。
(「良い種を蒔くように」心がけるようになるのです)
①蒔く種の良し悪しには「基準」が必要。
②基準は、聖書の言葉。そして聖書に向かう姿勢。
③「怒ることは当たり前」と思わない。
良い種を蒔き続けていけば、必ず人生は好転します。
祝福をお祈りしています。
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