今回は、私が「死を意識」して生活するようになった、キッカケを書いてみます。
「東北の震災」の半年ほど前のことでした。
学校の一年上の先輩が、若くして亡くなりました、、、。
その先輩はとてもユニークな方で、
外国語の習得には天才的能力を発揮し、皆の尊敬を集めていました。
(努力されていたんだと思います)
養育環境が悪く、子どもの頃は苦労されたようですが、
持前の前向きさで乗り越えて来られました。
一度、学内の池の横でキャッチボールをしたことがあります。
なんとなくの流れで始めたのですが、
互いに終えるタイミングが見つからず、かなり長く続けていました。
どのように終えたのかは覚えていないのですが、
終わった時、互いに「ようやく終わった」とホッとした顔をしたのを覚えています。
午後の優しい日差しの中、「不思議な時間」を共有しました。
人のことをよく見て、配慮をする方でした。
死因は、心筋梗塞でした。
前日まで、普通に生活しており、奥様もその変化に気がつかなかったようです。
お子さんもまだ小さく、仕事もこれからという時の訃報に、
皆が驚き、悲しみました。
葬儀に参列しながら、
私はしみじみと「人は若くして死ぬこともあるのだ」と感じたのでした。
その半年後に、あの東北の震災が起こりました。
仙台に知人がおり、困っていることを聞いて、
約3週間後に、ワゴン車一杯の物資を届けに行きました。
仙台から足を伸ばして海岸沿い、
東松島の炊き出しの手伝いにも行きました。
石巻の街にも行きました。
まだ船が陸地にいくつも残っている頃でした。
埃が舞い上がり、独特の異臭がしました。
石巻海岸の堤防に立った時、海を背中に振り返って街を見ました。
約1キロ向こうにある、小高い山までの一面が見えました。
目の前には、住宅街らしき長方形の土台のコンクリートが規則正しく並んでいたのです
しかし、建物の上物はどこにもないのです。すべて津波で流されたようです。
不思議な光景でした。
まるで綺麗に整地をしたようでした。
足元の堤防の陸側は、数メートルの深さでえぐれていました。
波が土砂を2メートル程、さらっていったのです。
私は思いました。
「震災の直後に、ここに立っていたら、確実に死んでいた。」
「必死に走っても、向こうの小山までは行くことができない。」
「確実に死ぬ。」
「人が生きるか死ぬかは、その時『どこに居たか』によるのだ。
それだけで、生死が決まるのだ。」
そう、しみじみと感じたのです。
若くして亡くなった先輩。
震災直後の防波堤と一面の更地。
この二つが私の中で、強く結びつきました。
人は死ぬ。(当たり前なのだけれど)確実に死ぬ。
それが、いつ来るかは誰にも分からない。
そうならば「毎日を大切にしていこう」
「今日死んでも、後悔しないつもり」で生きていこう。
そう強く思いました。
それからしばらく寝る前に、
「今日これで死んでも、思い残すことはないだろうか。今日を精一杯生きただろうか」
毎日のように考えたものです。
一旦、魂に刻み付けられた感覚は、一生消えません。
その感覚が、今でも残っています。
「メメント・モリ」(死を意識して生きる)とは、知識ではないと思います。
やはり、実体験からくるものではないかと、思うのです。
死を意識すると「後悔がない人生」を歩み易いように思います。
(それでも人間ですから、当然完璧にはできませんが、、、)
また大事な決断を差し伸ばしにすることも、「少なくなる」と感じます。
一度しかない人生、「有意義」に生きたいですよね。
今日は、私の思い出話を書かせて頂きました。
祝福をお祈りしています。
1ペテロ1:24-25
「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」
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