「自分が正しい、正しく有りたい」、そう思っている人が逆に問題を起こし、
「救いや助け、から遠い」ことを考えていきます。
あなたの周りに、「自分は正しく」、
心の奥では「人を見下している人」がいませんか?
そういう人は、厄介です。
人の話を聞きません。
進言を批判と考え、徹底的に攻撃してきます。
段々と周りの人が、深く関わらなくなります。
助けが欲しい時に、誰も助けてくれない、という状況になります。
(本人は、助けてもらいたいと思っていないかもしれません)
あなたは、「自分が正しい」と思っていますか?
正しく有りたいと思っていますか?
ここで「この質問」は意地悪だと思います。
なぜなら、人間は皆「自分は正しい」と思っているからです。
自分が正しいと思い込んでいる人の問題点は、
「自分がルール」という点です。
決して正しくない自分を、何か正しいかのように考えようとしている点が、
論理的に破綻しています。
ルールは、自分を超えたものです。
その「自分を超えたルール」に当てはめて、自分を考える。(内省する)
これが必要な姿勢です。
そうすると、自分は多くの点で「当てはまらない」と悟ります。
この感覚が大切です。
これが聖書で言う「罪人」の感覚です。(定義です。)
聖書の、イエス様の言葉です。
ルカ5:30-32
パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」
そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
イエス様は、「罪人のために来た」
(自分が罪人だと自覚している人のために来た)
と言われているのです。
聖書に出てくるユダヤ人は、普通、「聖書の言葉」を学んでいます。(暗唱しています)
すると「自分は、神の律法に反している」
「罪人」である。と自覚します。
する「罪人だから、救いが必要だ」となります。
「救いを求める」のです。
自分がルールの人、つまり「自分が正しい」と思っている人は、
「救いを求めない」、のです。(必要ありません)
(又はプライドが邪魔をして、救いが欲しいのに、「正直になれない」、のです)
歎異抄の言葉、にも通じます。
「善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」
(人はだれでも悪人であり、そういう人こそが、信仰によって救われるべき対象なのだ、ということ)
日本では「恥ずかしい」という感覚があります。
理想通りになっていない自分が、恥ずかしいのです。
しかし、それを「健康的に自覚」できれば良いのですが、
「不健康に隠す」と、問題が複雑になります。
「正しく有りたい」と考え、「正しいフリ」をします。
ある人は、「正しいと思い込もう」とします。
「正しいと信じ切っている人」もいます。(論理的には破綻していますが、、、)
これから数回に分けて、
「自分が正しい」と思っている人の特徴を考えていきます。
○できているフリをする。(その理由を考えます)
○自分はできていないのに、他人を異常に批判する。
○心の奥では、人を見下す。
○プライドが邪魔をして、助けを求められない。
そして、
○悪人だと自覚している人が、救いにすがることができる。
等々を、考えていきます。
自分を知るためには、
「鏡の前に立つ」ことが必要です
そのように「神様の前に立って」、初めて本当の自分を発見できるのです。
自分では、自分のことは、分からないのです。
祝福をお祈りしています。
ルカ5:32 (イエス様の言葉)
「わたしは正しい人(正しいと思い込んでいる人)を招くためではなく、
罪人を招いて、悔い改めさせる(救いを与える)ために来たのです。」
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