○出来ているフリをする。(無意識の場合が多い)
今回は、この点を考えていきます。
考えてみてください。
「自分が良い人」というのは、事実でなく「願望」です。
(こんな言い方をすると、身もふたもないですが、、、)
ちょっと意識すれば、分かると思います。
誰も見ていない時の「自分の心の動き」を思い出してください。
行動ではなく、「心の動き」です。
どんな風に考え、どう反応しているのか。
イエス様の言葉です。(マタイ5章です)
21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
27 『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
イエス様は、「心の中の罪も、罪なのだ」と言われています。
「これを直視することは、辛い」と考える人も多いのではないでしょうか。
特に、「正しい、良い人でありたい」と思っている人には、キツイと思います
(私も、神様の愛を知ってから、ようやく「本当の醜い自分」を受け入れることができるようになりました)
自分の「心の醜さ」を見て、
それを「受け入れられない」とどうするか。
答えは単純です。
「否認」です。(否認:無視する、無いもののように振舞うこと)
自分の出来ていない部分を無視し、
「出来ているかのように」考えるのです。
そして、「出来ているかのように」演技するので。
実はこれは、非常に「疲れ」ます。
頑張った分、後からガックリきます。
「出来ていない」のに、振舞うのですから、当然です。
しかし、本当の自分をごまかしているのですから、
やめる訳にはいきません。続けるしかないのです。
「人に会うのはしんどい」と思っている方は、
この点を注意すべきです。
「自分を良い人だと思いたい人」は、
自分の中の「悪感情」を認められません。
良い人を「演じ」ます。
とても「疲れやすい」のです。
これを克服するためには、
「自分の醜さ」を受け入れる「強さ」が必要です。
罪にまみれた自分を見る、「正直さ」です。
愛された分、愛することができる。
受け入れられた分、自分を受け入れることができる、というのは本当です。
しかし「自分を受け入れる」のは、自分の頑張りでは不可能です。
自分を超えた存在に、
受け入れられている、という実感が、必須なのです。
それができるのは、「人」では不十分です。
(親や恋人であっても、すべて知り受け入れることは不可能です)
全知全能の「神様」から「受け入れられること」、
受け入れられていることを「知ること」が最善であり、最強なのです。
ヘブル4:12-13
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
創造主にすべてを知っていただいていること。
その上で愛され、受け入れられていることを知っている人は、最強です。
人生を「自分らしく」、「自由に」生きられるようになるのです。
(特に問題や否定される状況下で、その真価が発揮されます)
今回は「自分を良い人だと思いたい人」の問題点を考えてみました。
次回、もう少し深めていきます。
祝福をお祈りしています。
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