クリスチャン作家、三浦綾子さんのエッセイの中に、こんな文章があります。
「人間はとても自己中心である。集合写真を見ればまず第一に自分を見る。髪の毛がちゃんとしていたか。目はつぶっていなかったか。必ず自分をチェックする。また大事な花瓶を自分で割ってしまったら、惜しいことをした、と思うが、他人が割ったならば、徹底的に攻撃をする。そのように自己中心なのである。」
秀悦な文章です。
私たち人間は、悲しいことに皆「自己中心」です。
聖書はその理由を、霊的死、神様から離れてしまったことによる罪の結果だ、と記しています。
「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」 ローマ人への手紙3章10~12節
自己中心、「自分が一番」ということは、他の人は「それ以下」になります。
自分が尊敬する指導者や、目上と考える方以外は、
基本的に「人を下に見ること」は、堕落した人間の「自然な考え」なのです。
「このこと」を自覚する必要があります。
なぜなら、自分が正しい人、良い人だと「思いたい人」は、
「自分が悪い人間である」ことを認めたくありません。
見下しているのに、「私は、見下していない。いつも平等に見ている」
と言い切ってしまい、「自分の本音」を見ようとしないのです。
そういう人は周りにいませんか?
ちょっと問題点を指摘をするだけで、物凄い反発をする人です。
「正しくなければならない」と、頑張り過ぎている人です。
そういう人は、全てを抱え過ぎて「神様のように」なろうとしています。
そのプレッシャーは、相当な重圧です。
だから早く、諦めて(白旗を上げて)、自分の歪んだプライドを捨てた方が良いのです。
そうすれば、重圧から解放されて、楽になります。
イエス様を信じる、とは、
自分の歪んだ罪を認めて、自分の罪を十字架につけることです。
罪を渡してしまうのです。素直に渡すと赦されます。
そして、その赦しを受け入れられるならば、深い部分で癒され、解放されるのです。
今回のポイントは、(イエス様のお考えを知ることを通じて)
①自分が一番と考えて、人を見下している事実を認めること。
②聖書を読むことで健全な考え方を知り、心を変えて頂く。(赦し、癒しを体験する)
①は、すでに書いてきました。
ですから、後は「自分の正直な姿」を認めるかどうかなのです。
② について考えていきます。
自分が、「人を見下している」ことを本当に気がつくと、
「どうしたら良いのだろう」と真剣に考えるようになります。
そういう時は、聖書の言葉が役立ちます。
ピリピ2:3-5
「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」
聖書の言葉を読む時は、姿勢が大切です。
単なる「情報」ではなく、「神様の言葉」として読むのです。
自分の価値観よりも「上位の尊重すべき言葉」として受け止めるのです。
そういう姿勢で読めば、考え方にバランスが取れるようになります。
人間は重ねて言いますが、自己中心です。
自分が一番上なのです。
しかし、神様は「それ以上の存在」であることを認めた人は、
「自己中心」の壁を乗り越えて、より健全な「心の持ち主」になれるのです。
エレミヤ書17:9-10
「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。
わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれ生き方により、行いの結ぶ実によって報いる。」
箴言16:20
「みことばを心に留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。」
ヘブル人への手紙10:22
「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」
※自分の力では、自分の心を綺麗にすることはできません。
イエス様を信じ、神様が「自分の上」におられることを認めた者たちは、
「神様の言葉を聞いて」変えられていくのです。
祝福をお祈りしています。
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