人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から

世界のベストセラー聖書の価値観から、生きるを考えます!(モノの見方が変わると、とても楽になります)

クリスマス物語1〜ザカリヤ、失敗が用いられる。

f:id:jesuslovesmeus:20211129134757j:plain

アドベント(待降節)に入りました。

2021年11/28の週は、アドベント第1週です。第4週にクリスマスを迎えます。

今はクリスマスを待ち望む期間です。

数人の人物の信仰を通じて、クリスマスの恵みをお伝えしたいと思います。

 

本日は「失敗が用いられる」というテーマで、祭司ザカリヤ(イエス様の母マリアの親戚の方)を取り上げます。

聖書には、頑張っても失敗する人がたくさん出てきます。

しかし、「失敗しても」終わりではないのです。

失敗の中でも、必死にあがくと、神様は助けて下さいます。

すると、「失敗した方が良かった」という 不思議な現象が起きるのです。

 

今回のザカリヤが、そのような人物でした。

彼は名門の祭司の家柄で、夫妻ともにとても信心深い者たちでした。

しかし祭司の定年間際になっても、子供が与えられませんでした。

平均年齢は今よりずっと若い時代です。

二人共に、子供は随分昔に「諦めて」いました。

 

ところが、神殿で香を焚くという、祭司生涯で一度あるかないかの仕事が、くじで当たりました。

その名誉な仕事の最中に、ザカリヤは天使に出会ったのです。

 

光り輝く中で、

天使は厳かに言いました。

「あなたの祈りは聞かれている。子供が与えられる。特別な使命を持った子である。その子をヨハネという名にしなさい。」

(この子供、バプテスマのヨハネは、後にイエス様を救い主と証する人物)

 

ところが、ところがです。

ザカリヤは、その約束の言葉を、「信じられなかった」のです。

天使の前で「私は信じられません。」と言ってしまいました

劇的な場面で、「大コケ」してしまったのです。

 

そのため、一時的に「口がきけなく」なってしまいました。(悲しい話です。)

その状態は、子供が生まれた後8日目の割礼の儀式の日まで続いたのです。

 

その様子を仲間の祭司たち、そして町の人々が見ていました。

本当に「口がきけなくなった」ザカリヤを皆が注目していたのです。

 

いよいよ割礼の日になりました。

子供の「命名の日」です。

周りの人々は、父と同じ「ザカリヤが通例だ」と主張しました。

しかしザカリヤは、書き板に「その名はヨハネ」と書いたのです。

その瞬間、口が解け、話せるようになり、彼は神様をほめたたえました。

周りの人々は「びっくり」でした。

目の前で、奇跡が起きたのですから、、、。

 

そして、この話が町中に一気に噂として広がりました。

人々は「このヨハネと名ずけられた子は、どんな子なのだろうか」と囁き合いました。

 

そのため、後にヨハネが荒野で修行の様な生活し始めても、

受け入れられ、尊敬されたのです。

そして、このヨハネが「イエス様をメシア(救い主」と証した時、

多くの人が、「耳を傾けた」のでした。

 

「ザカリヤの心」に注目して考えてみます。

彼は、年齢的に「子供を諦めて」いました。

その悲しみは長く続いていたために、

天使の言葉を聞いても「心が動きません」でした。

 

しかし、口がきけなくなったことを通じて、

彼は、深く考えたのです。

自分に与えられた「しるし」の一つ一つを考えたのです。

そして出した結論が「その名は、ヨハネ」でした。

それは、「私は神様の計画を信じる」という彼の信仰告白だったのです。

 

人は失敗をします。

自分の思い込みや頑固さによって、

すべきことができなかったり、しなくても良いことをしてしまったり、します。

 

しかし、失敗した後が大切なのです。

自暴自棄になってはいけません。

深く思い巡らす中で、

「今まで与えられた、しるし」の一つ一つを思い起こすのです。

そして「自分の先入観や頑固さ」を越えて、

「神様が見せて下さったメッセージ」を思い巡らすのです。

 

すると、「今までとは違う結論」が見えてきます。

そして、素直になって「その最善の結論」を選ぶのです。

(これを「信じる」と言います。)

この決断をした時に、素晴らしいことが起きます。

 

神様は、失敗を用いられます。

むしろ失敗することで「神様が働いて」下さいます。

その「神様の働き、奇跡」を、人々が目にした時に、

失敗しなかった時以上の(表面的に上手くいった時以上の)

「びっくりするようなインパクト」を、人々は受け取るのです。

 

神様は、失敗を用いられます。

失敗した時に、「それでも神様側に立とう、信じよう」とした時に、

「失敗さえも益」となるのです。

 

ですから、失敗した時こそ「諦めてはいけない」のです。

今回は、ザカリヤを取り上げました。

祝福をお祈りしています。

 

ローマ8:28

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

 

にほんブログ村 その他生活ブログへ

にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

もし気に入って頂けたら、たくさんの方に読んで頂くために、クリックの御協力をして頂けると幸いです。(一日一回カウントされます)

人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から - にほんブログ村

読者登録をして下されば、新しい記事を自動的に知らせてもらえます。(無料ですが、はてなブログの登録が必要です。)

 

もう一つ別のブログランキングです。(こちらもクリックして頂くと助かります。一日一回カウントされます)

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓


人間関係ランキング
人気ブログランキング

 

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑

こちらをクリックすると記事一覧を見られます。

死の影の谷(人生の荒野)の乗り越え方、その2

f:id:jesuslovesmeus:20211125091131j:plain

先回から、このテーマを掲げています。その後半です。

③「諦めないこと」諦めないための考え方、に注目します。

人生は、荒野で作られます。

なぜなら、荒野は「本当に大切なもの」しか、役に立たないからです。

お金も、名誉も、考えの甘い人間関係も、役に立ちません。

「水」や「わずかな食物」で、数日間生き残ることができます。

そして最も重要なことは「心の持ち方」なのです。

 

遭難した人で、生き残った人たちに、共通していることが、一つあります。

それは、「諦めなかったこと」です。

 

「諦めない」ので、救助を求めるために、火でのろしをたてたり、

「諦めない」ので、体力を温存するために、敢えて動かなかったり、

「諦めない」ので、仲間を励まし続け、

「諦めない」ので、出来るだけ食物を小分けにして、今日の食物を我慢したり、

最善の手を打ちます。

理性的な行動をとるのです。

 

諦めてしまったら、すべて終わります。

先を考えなくなります。

衝動的に行動し、だんだんと体力がなくなります。

そして、死を待つばかりとなるのです。

苦しくて、自殺をするかもしれません。

私たちは知っていますが、「生きる使命」を放棄して死んでも、苦しみは終わりません。

むしろその判断の恐ろしさを後から知って、死後に苦しみが増すことになるのです。

(本当です。最悪の可能性を回避して欲しいのです。)

 

私たちは、寿命まで「生きなければ」なりません。

「与えられた使命」を果たさなければ、ならないのです。

そのためには「諦めてはいけない」のです。

 

使徒パウロは、ユダヤ教のエリートでしたが、クリスチャンになったがために、非常な苦しみを経験しました。しかし、彼は「諦めなかった」のです。

2コリント11:23-27
「私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。、、、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」

 

今回、「人生を諦めないため」に、二つほど、ポイントを考えます。

一つは、「感謝すること」。

もう一つは「慰めを受けること」です。

 

【感謝すること】

感謝は、「感謝できる環境だからする」ものではありません。

「現実を受け入れるため」のものです。

一旦、すべてのことをリセットして、「感謝できること」を探すならば、

不思議なことがおきます。

「希望」が見えてきます。

言い訳や責任転嫁をしている間には、決して見ることができない「肯定的なもの」に注目できるのです。

すると、「力が湧き上がる」のです。

「気力」が満ちてきます。

 

信仰を持っておられる方にとっての、「感謝」は、

「神様の支配を認めること」です。

聖書を知っている方は、神様は「良い神様」だと知っています。

感謝をし続けると、苦しみも、その「良い神様」が、許可されて起きた「最善の道の一つ」だ、と考えられるようになります。

(ここまでいくには、神様と深い祈りのやりとりが必要です。)

詩篇119:71

「苦しみに会ったことは,私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」

 

ぜひやってみて下さい。

すでに、やっておられる方は、共に頑張りましょう。

感謝は、知識ではなく、実践です。

 

山は近づかないと分からないように、

批評している間は、決してその素晴らしさを体験できません。

実践あるのみ、です。

 

【慰めを受けること】

詩篇23篇4節 

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」

 

「死の影の谷」で、感じることは、

「恐怖」です。

しかしもっと恐ろしいことは、「孤独」です。

 

「誰も助けてくれない」「誰も心配していない」「誰も分かってくれない」

そう思ってしまった時に、「本当の絶望」がやってきます。

 

しかし、そんな絶望の暗闇に、

あなたに「寄り添っておられる方」が存在するのです。

 

「いやいや、そんな甘い話はないよ、、、」

そう言える方は、まだ余裕があります。

本当に「切羽詰まった人」は、「わらをもすがり」ます。

自分のプライドも体裁も乗り越えて、求めます。

 

実は「自我が強く、罪深い人間」は、それぐらいの経験をしないと、本当の意味で神様(イエス様)を求めないのです。

(余裕のある間は、「利用する程度」しか、求めていないのです。恐ろしいことですが、、、)

 

必死に求めると、パウロのような体験をします。

「死と同じ」状況の中で、「キリストが私を捕らえて」下さっているという体験です。

ピリピ3:10-12

「キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中から復活に達したいのです。

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」

 

イエス様は、「死の影の谷」の一番暗い絶望的な場所で、

あなたの近くに「助けるために、来て下さる」お方です。

(あなたの一番近くにおられ、捕らえて下さるのです。)

 

想像してみて下さい。

闇の中で、動けなくなるほど、憔悴しているあなたに、

「光の助け」がやってきます。

その方が、手を伸ばし、

「もう大丈夫、安心して」と言われます。

もし、そんな声を聞いたなら、

あなたは、「喜びで気も狂いそうになる」と思うのです。

 

「その深い慰め」を受けた人は、

イエス様の願いを知って、「諦めることの無い人」に造り変えられます。

 

死の影の谷(人生の荒野)の乗り越え方は、

「決して諦めないこと」です。

 

「諦めない」ならば、何とか闇を抜けることができるのです。

祝福をお祈りしています。

 

詩篇23篇4節 

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」

f:id:jesuslovesmeus:20211125091342j:plain

たとえ「死の影の谷」であっても、そこで「イエス様と一緒」であれば、楽しいのです。

そして、「死の影の谷」でなければ、「イエス様と出会えない」ならば、

「死の影の谷」も意味があると、「本気で思える」のです。

 

にほんブログ村 その他生活ブログへ

にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

もし気に入って頂けたら、たくさんの方に読んで頂くために、クリックの御協力をして頂けると幸いです。(一日一回カウントされます)

人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から - にほんブログ村

読者登録をして下されば、新しい記事を自動的に知らせてもらえます。(無料ですが、はてなブログの登録が必要です。)

 

もう一つ別のブログランキングです。(こちらもクリックして頂くと助かります。一日一回カウントされます)

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓


人間関係ランキング
人気ブログランキング

 

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑

こちらをクリックすると記事一覧を見られます。

死の影の谷の歩き方(恐怖とプレッシャーの乗り越え方)

f:id:jesuslovesmeus:20211124113537j:plain

本日は、ダビデの詩から、「恐怖とプレッシャーの乗り越え方」を考えてみます。

詩篇23篇4節 

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」

 

人生の中で、一度や二度は、「死の影の谷」を通ることはあります。

谷の中腹の細い、下を見れば「落ちたら確実に死ぬ」という崖の道を通る時には、「足がすくみ」ます。

 

ちなみに私は「高いところが苦手」です。

時々、非常階段を上らなければならないのですが、下を見て、階段が崩れるような感覚になると、泣きたくなります。

特に「下り」が泣きたくなります。(上がったら、必ず下らないといけないからです。自宅のマンションの屋上です。)

 

そういう時には、周りを見ずに、「階段に集中」するようにします。

そして、この階段は頑丈だから「絶対に壊れない」と「自分に言い聞かせる」(笑)のです。

自分でも笑えてきます。

そうすると、階段が「頑丈に思えて」きます。(元々頑丈ですが、、、)

そして、ソロソロと、手すりを握って、下るのです。

 

今回、「死の影の谷の歩き方」として、、、

①細くても「確実な道」を見つけること。

②「助けてくれる存在」を見つけること。

③「あきらめない」こと。

を考えていきます。

しばらくお付き合い下さい。

 

①細くても「確実な道」を見つけること。

思わぬトラブルに出会った時、普通はパニックになります。

「助からない」と思えてしまうと、本当に足がすくみます。

 

しかし、そういう時こそ、「脱出の道」を必死に考えるのです。

あらゆる可能性を考えて、考え尽くすのです。

「完璧」でなくても構いません。

今置かれている状況で、最善策を考えるのです。

「行ける、行けない」は横に置いておきましょう。

とにかく「助かりたい一心」で、考え尽くすのです。

 

しばらく必死にもがいていると、必ず状況が変わります。

その時「一度でも考えている道」だと、

「道が見えた瞬間」に勇気を持って飛び込みやすくなるのです。

 

ですから、「助かりたい」ならば、考え尽くしましょう。

そして、「見えた脱出の道」を一歩でも歩みましょう。

 

この時、周りの嵐を見てはいけません。(足がすくむだけです。)

ただただ「細くても、確実な道」に集中するのです。

 

②「助けてくれる存在」を見つけること。

「死の影の谷」の道は、普通、「自分の力量」を越えています。

手も足も出ない、ということが多いのです。

必ず、人に相談しましょう。

 

しかし、「誰に相談するか」は、選ばなければなりません。

愚痴を言い合う仲間は、やめておきましょう。

(生きるか死ぬかの状況では、愚痴を言う余裕はありません。死に絶えてしまいますから。)

 

自分の成功体験だけを主張する人も、やめておきましょう。

(あなたの話ではなく、自分の話しかしない可能性があります。)

 

できれば、失敗から乗り越えた人、苦痛を乗り越えた人が良いです。

必要なら、お金をかけて、プロにお願いしましょう。(解決の覚悟です。)

「自分が気がつかない観点」で「脱出の道の可能性」を示唆して頂きましょう。

 

そして「定期的にサポート」して貰いましょう。

何度も書きますが、

「死の影の谷」の道は、普通、「自分の力量」を越えています。

ですから、乗り越える目星がつくまでは、「定期的にサポート」して頂くことが大切です。

 

遠慮をしてはいけません。死の影とは、本当に死の影ですから、、、生きるか死ぬかの状況ですから。

危機的状況では「今助けを求めずに、いつ求めるのか」と思って、お願いし続けるのです。

 

そして、ここから、神様、イエス様の観点となります。

人間は助けてくれますが、絶対にどこか足りないところが出てきます。

人に言われた通りのことをしても、解決できるとは限りません。

ですから、全能者の神様に、祈るのです。必死にお願いするのです。

 

先ほどの詩篇23篇4節 です。

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」

 

イエス様は、間違った道を歩んでいたならば、優しく「むち」で、修正しようとされます。

(イエス様は、羊のことを大切にされていますから、優しく正して下さいます。)

道が分からない時には、「杖(権威の象徴)」で、導いて下さいます。

(羊が迷った時には、声を掛けられます。)

イエス様が関わって下さる時、それが「死の影の谷」でも、

いやむしろ「死の影の谷」だからこそ、「大きな慰め」を感じるのです。

 

その神様について行くならば、「緑の牧場」に行けます。

イエス様は、羊飼いとして「完璧なお方」なのです。

 

「本当かな」と思われる方もおられると思います。

しかし、「もし、助けを求めたい」と思われるならば、

ぜひ一度「本気で信じて」みて下さい。

(信じることは、コストはかかりません。やってみるだけの価値はあります。)

 

キリスト教が、「イエス様の十字架と復活」以降、2000年以上存続しているには、

「それなりの理由」があります。

それは、「祈ったら助けて下さった」という体験があるからです。

「死の影の谷」でも、決して見捨てずに「共にいて」下さるイエス様の「実存」を、

「祈りと、その後の現実の中」で体験できるからです。

 

ぜひ期待して「祈られる」ことをお勧めします。

 

③「あきらめない」こと。

次回、この点に触れて終わります。

祝福をお祈りしています

 

詩篇23篇4節 ダビデの賛歌

1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。 

 

にほんブログ村 その他生活ブログへ

にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

もし気に入って頂けたら、たくさんの方に読んで頂くために、クリックの御協力をして頂けると幸いです。(一日一回カウントされます)

人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から - にほんブログ村

読者登録をして下されば、新しい記事を自動的に知らせてもらえます。(無料ですが、はてなブログの登録が必要です。)

 

もう一つ別のブログランキングです。(こちらもクリックして頂くと助かります。一日一回カウントされます)

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓


人間関係ランキング
人気ブログランキング

 

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑

こちらをクリックすると記事一覧を見られます。

自殺したユダは、どうしたら良かったのか?

f:id:jesuslovesmeus:20211123100116j:plain

昨日の続き、後半です。

イエス様のお祈り「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)の真意を考えていきます。

また、悪魔の「悪い言葉」、人間を破壊しようとする「誘惑の言葉」を心に入れない秘訣に注目します。(質問者さんのご質問の意図を越えているかもしれませんが、大事なこととして書かせて頂きます。)

 

今回の要点は、ユダは、本当は、、、

①悪魔につけ込まれる材料をなくしていくべきだった。

②イエス様ともっと会話をすべきだった。

③「禍が益となる」イエス様の教えを知っていたら、、、。

 

①悪魔につけ込まれる材料をなくしていくべきだった。

ユダは、イエス様から会計係を任されており、能力も高い人物でした。

理想を持っており、「イエス様について行く」ならば、その理想が実現すると思っていたようです。

彼は、多くの弟子たちが考えていたと同じく、「イエス様は、自分たちの国をローマ帝国から解放してくれる」と思っていたでしょう。ですから、「早く武力蜂起して欲しい」と考えていたに違いないのです。

色々な解釈が考えられますが、私はユダは、イエス様が逮捕されたならば「武力蜂起してくれる」と考え、イエス様を後押しする動機で、イエス様を銀貨30枚で売ったと、思うのです。そうでなければ、イエス様が死刑になると悟った時、後悔して、「自殺してしまった理由」が考えられないのです。

 

彼の課題は、「自分は正しい」と思っていたことです。

そして「イエス様をコントロールしようとした」ことです。

つまり「高ぶり」です。

この「高ぶり」を持っていると悪魔に付け込まれる「隙(スキ)」を作ります。

 

悪魔は、「お前は、正しい。お前は、正しい。お前を認めない奴が悪い。お前を否定する奴は間違っている、、、」と煽ってきます。

そして、悪魔の言葉を受け入れると、「一気に絡めとり、引っ張り」、悪魔の甘い言葉から「離れられなく」させるのです。縛りつけてきます。

(誘惑に乗ってしまうと、恐ろしい結果を生むのです。その闇から「離してくれません」。悪魔は、優しくないのです。悪魔の目的のために「あなたを支配」するのです。)

 

ですから、「悪魔に付け込まれる材料」を無くしていくことが、不可欠です。

 

聖書には、ユダは金入れを預かり、そのお金を誤魔化していた。と書かれています。

ここがポイントです。

彼は、「自分の誤魔化し」を「正直にイエス様」にお話しすべきでした。

そして「赦しを受ける」べきでした。

「自分の弱さや失敗」を、イエス様にオープンにすべきだったのです。

(ユダの裏切りは、計画だった、必要悪だったという考え方、視点もありますが、ここではユダ自身の心に注目しています。)

 

②イエス様ともっと会話をすべきだった。

聖書の中には、トマスという、疑いを正直にイエス様に話す弟子が、出てきます。

しかし、ユダは「建前」は言っても、「本音」はイエス様に話していなかったようです。

もっと明確に言えば「イエス様の言葉を聞いていなかった」のです。

 

頭が良く、プライドの高い人は、「自分の頭の中だけ」で完結する傾向があります。

つまり、「人の意見を耳に入れない」のです。

自分の見ているものの「違う視点」が、受け入れられません。

頑なです。頑固です。

 

よく言われます。

「ユダも、ペテロのように、自分の落ち度を認め、イエス様に『赦して欲しい』と近づいたなら、赦されたに違いない、なぜなら、イエス様は最後の晩餐で、ユダの足も洗われたのだから。」

 

人間は、プライド高く、弱いです。

プライドを守りたいがために、簡単に甘い誘惑に乗ってしまいます。

 

だから、イエス様は私たち人間のために、「とりなし祈られた」のです。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)

 

この「切なる祈り」を聞くことができたならば、

私たちは、「別の視点」を持つことができます。

それは、「自分で自分は許せない」けれど、

「赦す、と言って下さる方がいる」という視点です。

 

その「優しさ」と「温もり」を感じることができたならば、

イエス様に足を洗ってもらったような「気持ち良さ」が、

「心の中」に湧き上がったならば、

その時、、、私の「頑なな心」が溶けていく体験をするのです。

 

「イエス様の優しい心」を聞いた人は、「悪魔の言葉」を聞かなくなります。

聞く必要がなくなるのです。

 

自殺したユダは、本当はどうしたら良かったのか。

その答えは、

「自分の罪、弱さを正直に認め、

イエス様と親しく会話をして、

イエス様の優しいお考えを受け入れる。」

です。

 

③「禍が益となる」イエス様の教えを知っていたら、、、。

聖書の中には、すべてのことが益となる、とあります。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」(ローマ8:28)

 

イエス様の教えは、「逆転の教え」です。

悪魔は、「十字架のイエス様の死」を見て「イエスを破壊した」と喜びました。

しかし、それでは終わりませんでした。

イエス様は「復活」され、弟子たちを再度集め、使命を語り、その後世界中にイエスを信じる者が起こされたのです。

 

「十字架」と「復活」の体験は、信じる一人一人にも起こる、奇跡です。

「これで終わった」ように思えても、次の「復活の道」があるのです。

 

「世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

 

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 」(ヨハネ11:25)

 

「ユダ」のような体験をした人こそ、イエス様の「復活体験」ができるはずです。

いろいろと書いてみましたが、「悪い攻撃に打ち勝つ」ための参考にして頂ければ、幸いです。

祝福をお祈りしています。

 

にほんブログ村 その他生活ブログへ

にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

もし気に入って頂けたら、たくさんの方に読んで頂くために、クリックの御協力をして頂けると幸いです。(一日一回カウントされます)

人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から - にほんブログ村

読者登録をして下されば、新しい記事を自動的に知らせてもらえます。(無料ですが、はてなブログの登録が必要です。)

 

もう一つ別のブログランキングです。(こちらもクリックして頂くと助かります。一日一回カウントされます)

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓


人間関係ランキング
人気ブログランキング

 

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑

こちらをクリックすると記事一覧を見られます。

どうして、弟子の「ユダだけ」が「自殺」をしてしまったのですか?

f:id:jesuslovesmeus:20211122102126j:plain

イエス様の弟子は12人いて、イエス様が十字架にかかった時に、全員が裏切り逃げてしまったと聞きました。どうしてユダだけが自殺をしてしまったのでしょうか。他の弟子たちは、そこまで悪くなかったのですか?教えて下さい。

 

ご質問をありがとうございました。

ユダが自殺をしてしまったのは、事実であり、有名な話です。

ユダは、銀貨30枚で、イエス様を宗教指導者に売ってしまいました。(他の11人とは別行動でした。)

 

彼の自殺の原因は、「罪責感」です。

彼は、「罪責感」によって、乗ってはいけない「悪い思い」を、心に入れてしまったのです。

 

しかし、聖書の基準で考えれば、大きな罪も小さな罪も、罪には変わりません。

(小さいから「自分は大丈夫」と安心することは、むしろ危険です。)

他の11人の弟子たちも、イエス様が逮捕された時、皆逃げてしまいました。特にペテロは、三度「自分はイエスを知らない」と告白したのです。皆多かれ少なかれイエス様を裏切ったのです。

 

ただしユダには、そうなるべき「決定的な理由」がありました。

私たちが「悪魔に利用」されないための「注意事項」として、ユダのことを知るのは意味があります。

いくつかのポイントで、考えていきます。

 

①ユダには、悪魔のひどい攻撃があった。

悪魔は、イエス様の「救い主の使命」を破壊しようとしていました。

イエス様の公生涯の最初から、攻撃を仕掛けました。(マタイ4章)

イエス様が、悪魔の攻撃に打ち勝つと、次の「別な方法」を虎視眈々と伺っていたのです。

 

イエス様に、プライドを傷つけられた宗教指導者たちが、「ローマへの反逆」をでっち上げ、イエス様を裁判で死刑にしようと考えました。

ユダはそのために、利用されたのです。

しかし、そんな人間の策略の「背後」で、「悪魔」が働いていました。

 

このように書くと、「オカルト」や「空想話」のように思うかもしれません。

しかし、「魔が差した」と言葉があるように、人の心の中に「ささやく声」は、事実として存在します。

自殺の名所で「死ね。死ね。」と声が聞こえたり、心の中で「殺せ、殺せ」という声を聞いていた人物が、通り魔で事件を起こしたという週刊誌の記事も存在します。

(週刊誌の記事なので、その真偽を確認することは難しいですが、、、)

 

しかしながら質問者さんも、実感として「心の中にささやく声」に気がつくことはありませんか?

「自分の思考」を越えた「神様の導き」も「悪魔のささやき」も存在すると考えていた方が、安全です。「悪魔のささやきだ」と分かれば、注意し、対策を打てるからです。

 

聖書もその考えに同意します。

1ペテロ5:8 -9「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」

 

②ユダは、悪魔に「利用されやすい心」を 持っていた。

ユダの持っていた心は「高慢」です。

ユダは、イエス様の集団の財布を預かる会計係でした。それなりに優秀だったでしょう。

(ただし、聖書にはユダはお金を誤魔化していたと書かれています。ここにも悪魔が付け入るスキがあったのです。)

 

聖書には、イエス様との交わりがほとんど書かれていませんので、孤高の存在だったかもしれません。

自尊心が高かった可能性があります。

自尊心が高く、人と交わらない、、、そういう人の特徴は、「自分は正しい」と思い込みます。

そういう人は、「人を批判」します。

自分を顧みることをせずに、「人を変えよう」とします。

「人のせいにする」ことが多いのです。「憎しみ」を 持つことも多いのです。

 

これは、すべて悪魔の特徴です。

(気をつけましょう。)

そういう気分になった時、悪魔は「そよ風のように」ターゲットの人物の心に「邪悪な心」を投げ込みます。

するとその人は「自分の考え」だと思い込んで、パクリと「その邪悪」を飲み込むのです。

そうなると「邪悪は、自分の考えだ」と思い込んでしまいます。(この騙しは非常に危険です。)

 

以下の聖書箇所を読むと、ユダは何度も「サタンのささやき」を心に入れていたことが分かります。

ルカ22章

22:3 さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。

22:4 ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した。

22:5 彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。

 

ヨハネ13章

13:2夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、

13:27彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼に入った。

 

「悪魔のささやき」を無批判に、自分の心に入れてしまうことは、大変恐ろしいことなのです。

 

ここで一旦、まとめます。

悪魔は、ある人間をターゲットにして、攻撃を仕掛けてくることがあります。

多くの人は、無自覚の中での「悪魔の攻撃」に対して「無力」です。

 

しかし「対策」を打つことはできます。

それは、高慢の逆を行くことです。

それは「へりくだり」です。

悪魔はへりくだりが嫌いですから、そこにはついていくことはできません。

 

もう一つ重要なことがあります。

それは、イエス様の「十字架の赦し」と「その取りなしの祈り」の力です。

同じくイエス様を裏切ったペテロはどうでしょう。

ペテロは、自分が助かるために「三度もイエス様を知らない」と告白しました。

(この罪責感も、大きいものです。)

 

しかし、ユダは自殺をしましたが、ペテロは赦されました。

次回に触れますが、ユダが自分で自分を裁いたのに対し、

ペテロは、イエス様に近づいたのです。(赦しを求める心です。)

 

イエス様は十字架上で、以下のように祈られました。

ルカ23:34 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 

それは周りのイエス様を誹謗中傷する人たちに向けられたものだけでなく、

ペテロにも、ユダにも、そしてこの文章を読んでいる「あなた」にも向けられた「とりなしの祈り」です。

 

イエス様の教えは、

人生失敗しても、挽回があるという教えです。

赦しがあり、回復があり、逆転があるのです。

 

もし誰かが、自殺をしたいような罪責感を持ったとしても、

「自分で自分を裁かない」で下さい。

 

イエス様に近づいたならば、必ず助けて頂けるのです。

一度や二度のチャレンジで諦めないで下さい。

 

もし習慣的に悪魔の言葉を受け入れていた場合、引っ張る力を振りほどいて、

イエス様に近づくには、かなりの力が必要です。

それは選択の力です。

方向転換です。(これを「悔い改め」と言います。)

 

悪魔は、総攻撃をしかけてきます。

しかし、あなたがイエス様に飛び込めば、すべてが静かになるのです。

 

次回は、「自分の人生を祝福で歩むのは、自分自身である」

(悪魔の誘惑を聞く必要がない)

という観点で、続きを書く予定です。

祝福をお祈りしています。

 

にほんブログ村 その他生活ブログへ

にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

もし気に入って頂けたら、たくさんの方に読んで頂くために、クリックの御協力をして頂けると幸いです。(一日一回カウントされます)

人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から - にほんブログ村

読者登録をして下されば、新しい記事を自動的に知らせてもらえます。(無料ですが、はてなブログの登録が必要です。)

 

もう一つ別のブログランキングです。(こちらもクリックして頂くと助かります。一日一回カウントされます)

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓


人間関係ランキング
人気ブログランキング

 

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑

こちらをクリックすると記事一覧を見られます。

イエス様が「弟子の足を洗った」そうですが、どういうことですか?

f:id:jesuslovesmeus:20211118104612j:plain

イエス様が、最後の晩餐で、弟子たちの足を洗ったと聞きました。

何か「深い意味」があると思いますが、どんな意味でしょうか?

 

「洗足式」の意味ですね。

イエス様は、十字架にかかられる直前、最後の晩餐で、弟子たち全員の足を洗いました。

その中には、イエス様をこの後裏切る、ユダも含まれていました。

イエス様は、ユダが裏切ることを知っていながら、足を洗われたのです。

 

今回、お伝えしたいポイントは、「自分の汚いところに触れて頂くと、人はその人を愛するようになる」ことです。

弟子たちが、イエス様を後に命がけで愛した秘訣(理由)を見ていきます。

しばらくお付き合い下さい。

 

①【愛は関係性が大事である。】

弟子たちは、イエス様のことを当時、スーパーマンにように思っていました。

「素晴らしいお話」をされ、「病気を奇跡で癒し」、「自分たちをローマ帝国の圧政から助けてくれる解放者」と考えていました。

「自分たちの罪を赦して下さる、救い主」とは思っていなかったのです。

 

ユダが、イエス様を裏切った理由は、一つです。

「イエス様が逮捕されたならば、イエス様は武力蜂起をして、ローマを攻撃し、我々を解放してくれる」「貧しく弱い人たちから、手を引いて、本来の仕事をしてくれる」と思ったからです。

彼は、イエス様が「武力蜂起」をすると思い込んでいました。

(だから、本当に十字架にかかってしまうと分かった時、絶望し、自殺をしてしまったのです。)

(彼も、実はイエス様を愛していたのです。)

 

一番弟子のペテロの足を、イエス様が洗おうとした時、

ペテロは「先生、私の足を洗わないで下さい。」と拒否しました。

しかしイエス様は、「わたしがあなたの足を洗わないと、あなたとの関係性がなくなってしまう。」と言われたのです。(深い意味ですので、解説を後の②でします。)

ペテロは、イエス様のことが大好きでしたので、それでは困ると思って、「では、足だけではなく、手も頭も洗って下さい。」とお願いしました。

(しかしイエス様は、「わたしを信じている者は、足だけ洗えば良い」と言われ、ペテロの足を洗われたのです。)

 

ここからがポイントです。

イエス様は、「足を洗う」という象徴的な行為を通じて、「弟子との関係」を作られた、のです。

 

②【罪をぬぐい、赦されたという体験が、イエス様を愛する動機となる。】

当時、道は砂利道で、砂埃が舞っていました。靴はサンダルのようなもので、その足は泥だらけでした。

その「自分の足」を、先生である「イエス様」が、片方ずつ丁寧に洗われたのです。

足の指の間も、一本ずつ丁寧に洗われました。そして優しく手ぬぐいで拭かれました。

弟子たちは、申し訳ないと思いつつも、気持ちが良かったはずです。

 

これは私たちの「罪の赦し」を現しています。

イエス様は、足を洗うことを通じて、体験的に、「罪の赦し」を味わせたのです。

 

「その恥ずかしさ」「その申し訳なさ」「その有り難さ」、、、、

弟子たちは、この時に「実感」しました。

足を洗って貰った「気持ち良さ」を通じて、「汚いものを、綺麗にして貰った喜び」を感じたのです。

 

それが、十字架と復活の後になって、聖霊が「弟子たちの心」に働いた時に、

弟子たちは「その真意」(罪の赦し)を悟ったのです。

 

「イエス様は、私の罪のために死んで下さったのだ。」

「イエス様は、私の足を洗い、本当に汚い私を綺麗にして下さったのだ。」

その真意を悟った弟子たちは、

「十字架上で、命をかけて自分を愛して下さったイエス様」に対して、

文字通り「命をかけて、イエス様を愛し」、「命をかけて、イエス様からの使命に従おう」としたのです。

 

これが、イエス様のために、死んでいった(殉教した)「弟子たちの心」です。

 

イエス様との(体感するほどの)、関係があり、

そのイエス様から、最も汚いところを「触れられ」、「認められ」、「赦され」、「綺麗にして頂いた」、、、

その体験が、「イエス様を愛し」、「お従いしよう」という心に繋がったのです。

 

イエス様を信じ、自分の罪を悟り、体験的に「イエス様の愛と赦しに触れられた者」は、

当時の弟子たちと「同じ体験」をします。

(私も、その体験をした一人です。)

 

これが、イエス様が「弟子の足を洗った」意味です。

(イエス様の愛は凄いですよね。)

祝福をお祈りしています。

 

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。……わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:12~13)

 

にほんブログ村 その他生活ブログへ

にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

もし気に入って頂けたら、たくさんの方に読んで頂くために、クリックの御協力をして頂けると幸いです。(一日一回カウントされます)

人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から - にほんブログ村

読者登録をして下されば、新しい記事を自動的に知らせてもらえます。(無料ですが、はてなブログの登録が必要です。)

 

もう一つ別のブログランキングです。(こちらもクリックして頂くと助かります。一日一回カウントされます)

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓


人間関係ランキング
人気ブログランキング

 

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑

こちらをクリックすると記事一覧を見られます。

心の中に「良くない思い」が湧き上がります。(その2)弱さを直視できる力。

f:id:jesuslovesmeus:20211116160424j:plain

自分の中の「汚い、 見たくない心」を消す方法、克服する方法のご質問、

23歳の学生の方へのお答えの第2回です。

①「自分の中の闇」に気がつくこと、認めること。

②闇を克服する「処方せん」を知ること。

③解決の力を持った、「光の助け」を受けること。

 

先回は、①と② の導入まで書かせて頂きました。

「心の闇」を克服するには、「闇を直視する」必要があります。

しかし、これがなかなか難しいのです。

それは、闇を直視すると、「恐ろしい」と感じるからです。

闇を直視したら、「自分がどうかなってしまうのではないか」、と言う「本能的、直感的な恐怖」があるからです。

 

特にプライドが高いと(自分を正しいと思いたい人は)、自分が処理できないものは、無意識のうちに避ける傾向があります。

そういう方の場合、「闇を直視」できません。

「直視」できないと「対処」できません。

手がつけられないまま、泥沼化します。

すると今度は、少しでも「闇」が見えると「パニック」になります。

人によっては錯乱し、「わめき散らし」ます。

これも、見ないための「無意識の防御反応」なのです。

 

質問者さんは、「自分を嫌な奴だと思う」と、

「闇を直視」しておられます。

それはとても素晴らしいことです。

本日は、その上で、

②闇を克服する「処方せん」を知ること。

③解決の力を持った、「光の助け」を受けること。

を書いていきます。

 

②闇を克服する「処方せん」を知ること。

「闇を直視」する時、質問者さんは「どんな気持ち」になりますか。

「辛い気持ち」ですか「落ち込み」ますか。

 

「闇」を見続けると「闇の奥、深み」が見えてきます。

また人生でやってしまった「他の闇、失敗」を思い出します。

闇がどんどん「膨れ上がる」のです。

それが、あなたのキャパシティ(度量)を越える瞬間がやってきます。

 

それでも「闇を直視」できるには、自分の力を超えた「絶対的な支え」「赦し」が必要です。

先回ブログの最後に、以下の文章を書きました。

「陸」から「水に落ちた人」を助けようと思うなら、しっかりと「陸」につながっていなければなりません。いざとなれば、すぐに安全なところに行ける準備(装備)ができていないと、危険です。

闇を直視しようとする場合、「直視ても大丈夫」と言う「絶対的な安心材料」が必要です。

 

この安心材料(処方せん)が「イエス様」なのです。

イエス様は、あなたの「すべての罪」を知り、その上で「受け入れ」「愛して」「赦して」下さる存在です。

1ヨハネ3:20 「たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。」

 

自分自身が「自分を受け入れられない」としても「自分を許せない」としても、

イエス様は、私より「大きな心」で、あなたを「受け入れて、愛し、赦して」下さっているのです。

 

「このような存在、考え方があるのだ」と、「知る」だけでも「人生が変わり」ます。(自分の愛、人間の愛を越えた愛です。)

 

イエス様はきっとこう言われます。

「この誘惑に乗ってしまったんだよね」

「ここが問題だったね。」

あなたが直視できない、「あなたの闇の奥、その構造」までも、

イエス様は直視され、あなたに手を伸ばされるのです。

(この愛情に触れて頂くと、心が融けてしまいます。)

 

自分の一番酷いところを見て、その上で「受け入れてくれる存在」は、とても有難いのです。

「荒海の港」のような存在です。

怖いことが起きたなら、港に逃げ込めば良いのです。

 

小さな子どもは、お母さんに抱っこされていたら「怖くない」のです。

それが仮に「崖の上」で、一歩踏み外すと死んでしまう恐ろしい場所でも、笑っておれるのです

 

そんな支えを「知っている」ことも素晴らしいですが、

「体験できること」は、もっと素晴らしいのです。

 

③解決の力を持った、「光の助け」を受けること。

ヨハネの福音書 1:4-5

「この方(イエス様)にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」

 

体験するための聖書の答えは、シンプルです。

「知った」なら、「求めれ」ば、「体験できる」のです。

 

マタイ7:7

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」
 

「イエス様の支え(愛情)」は、有ることが分かったら、「欲しいです」と求めたら、「頂ける」のです。

 

こんな祈りはどうでしょうか。

「イエス様、私はあなたの愛情が欲しいです。あなたの絶対的な支えが必要です。あなたがおられるなら、分かるように私に与えて下さいませんか。お願いします。」

 

求めることは、、、

ただです。(コストがかかりません)

どこでもできます。(場所を選びません)

デメリットは一つもありません。

 

ぜひ、やってみられることをお勧めします。

質問者さんの上に、「闇があっても大丈夫」という「心の平安」が与えられることをお祈りしています。

今回、触れられなかった、

「心の闇をコントロール(克服)する方法」については、別の機会にまとめてみる予定です。

 

祝福をお祈りしています。

1コリント1:28

「また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。 」

(「絶対的愛情」を体験すると、自分が「取るに足りないもの」と悟っても、「堂々と生きていける」のです。)

 

にほんブログ村 その他生活ブログへ

にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

もし気に入って頂けたら、たくさんの方に読んで頂くために、クリックの御協力をして頂けると幸いです。(一日一回カウントされます)

人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から - にほんブログ村

読者登録をして下されば、新しい記事を自動的に知らせてもらえます。(無料ですが、はてなブログの登録が必要です。)

 

もう一つ別のブログランキングです。(こちらもクリックして頂くと助かります。一日一回カウントされます)

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓


人間関係ランキング
人気ブログランキング

 

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑

こちらをクリックすると記事一覧を見られます。