人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から

世界のベストセラー聖書の価値観から、生きるを考えます!(モノの見方が変わると、とても楽になります)

「愛されている」という実感、その強力な力

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今日、朝目が覚めた時、頭の中に、

「今日は誕生日、イエス様が命を与えてくれた日。最高の感謝を捧げよう!」

と言葉が浮かびました。

イエス様を信じて、約30年になりますが、

イエス様の愛が、こんなにも「私を支えて下さっている事実」に驚きます。

 

今朝は、「愛されている」という実感、その強力な力、

について思索してみます。

 

以前お話しした「非常階段の話」の続きです。

私は高所恐怖症です。

6階以上の非常階段は、足元がすくみます。

(周りの景色が恐怖です。)

以前のお話は、

「この階段は頑丈だ、頑丈だ!」と念じて(笑)、

「階段に集中する」と何とか通ることができる、と書きました。

 

先日、気がついたことがありました。

「階段に集中」していると、

今までのように、手すりにつかまることがなくなりました。

(以前は命綱のように、力が入っていました。)

 

時々、顔を上げて通ることができるようになりました。

そして顔を上げると、遠くの山が見えたのです。

(雪が積もる、とても綺麗な山でした。)

 

その時、気がつきました。

「私は、恐怖のあまり、こんな綺麗な山を見落としていたんだ」と。

 

「愛されている」と言うことは、この「非常階段」と似ています。

外を見ると、色々な現実が見えてきます。

「非常階段に不安」を感じると「落ちるのではないか」と恐怖を持ちます。

 

しかし「この階段は、絶対に安心」と思えると、

不安がなくなります。周りを見る余裕ができるのです。

「恐れていたもの」が、全く別の「綺麗な景色」に変わるのです。

 

重要なことは、「見える景色」では無いのです。

「支えてくれる階段」を感じることが、重要なのです。

 

仮に、両親から捨てられる(周りの人から理解されない)状況にあったとしても、

「絶対的に支えて」下さる、「神様」という存在が、

私を下支えして下さる時に、

私たちは、「恐怖から解放」される、のではないでしょうか。

「愛されている」実感の力です。

 

詩編27:10「私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。」

イザヤ49:15 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」

 

あなたの「恐怖」も、見方を変えると「素晴らしい景色」 になるかもしれません。

 

「絶対的な支え」は、日常では求めません。必要がないからです。

「恐怖」を感じる時に、「絶対的な支え」を求め、それを「体験できる」のならば、

「恐怖」にも、「意味がある」と思うのです。

 

「絶対的な支え」「愛されているという実感」

そのことを体験できる人生は、素晴らしいものです。

 

「誕生日」は、「お祝いして貰える日」だけでなく、

命を与えて下さったイエス様に「感謝を捧げる日」でもあると、実感しました。

 

祝福をお祈りしています。

 

「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは【主】から来る。天地を造られたお方から。 」詩篇 121:1-2

 

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(チェックリスト)「神様の導き」は、分かるものですか?その2

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昨日の続きです。

質問者さんには、クリスチャンの知人がおられ、その方が「神様の導きはある」と言われました。

質問者さんはクリスチャンではないので、「そんなことは起きるのか」と不思議に思われたようです。昨日は、聖書から理解できる、私なりの回答を書かせて頂きました。

 

昨日も書きましたが、

もし「父なる神様」がおられて、私たち人間を「心から愛して」おられるならば、

「神の民」が、泣きながら助けを求めていれば、

「助けよう」と考えられるはずです。

 

しかし、そこには幾つかの課題があるのです。

②その考えが「どこから来たものか」を注視する。

③「霊の世界」があることを知る。

今回は、後半をまとめていきます。

 

②その考えが「どこから来たものか」を注視する。

人間の頭の中には、少なくとも3つの考えが湧き上がります。

a自分の持論、考え。

b神様からの外からのささやき。

c悪魔が喜ぶ、外からのささやき。

(人からの意見、言葉という形をとる場合が多いです。)

 

「ふっと浮かんだ考え」が、すべて自分の考えでは、「ない」ということを意識することが大切です。

(悪い考えを、「心に入れない」ためです。)

 

それは、同時に「神様の導き」を「本当にそうなのか」と吟味する時にも役立ちます。

ふっと浮かんだ考えが、「どこからの考え」なのかを、吟味するためにです。

 

「浮かん考え」を、すべて神様からのものと判断することは、愚かであり危険です。

それぞれの教会で指導されるとは思いますが、

私が恩師から聞いた、「神様の導き(御心)かどうかを確認する」5つのチェックリストを書きます。

○「お祈り」をしていること。

○聖書の「御言葉」に符合していること。

○心の中に「平安」があること。

○複数の「指導者の助言」を受けること。

○環境が整うこと。

 

これだけのリストに当てはまれば、「御心である可能性が高い」のです。

(なぜこう言う書き方をするかと言えば、「神様の御心」は、人間にはすべて理解できませんので、聴き続ける(確認し続ける)という、謙虚な姿勢が大切なのです。)

 

短くそれぞれの説明をします。

○「お祈り」をしていること。

お祈りは重要です。お祈りは「神様との会話」です。お祈りをしていると、自分の考えを超えたことでも、「受け取ろう」という心構えができます。一方的な「自我の主張」はお祈りではありません。

 

○聖書の「御言葉」に符合していること。

「浮かんだ考え」が神様の考えである場合、必ず「聖書の御言葉」に合っています。

「愛しなさい、赦しなさい」と言われる神様は、「憎みなさい」とは決して言われません。

クリスチャンでない質問者さんは、聖書の言葉をあまり知らないと思います。

もし、知人の考えが理解できない場合、それが聖書に合っているかと質問してみられたら宜しいかと思います。

多くのクリスチャンが、祈っていると、「確証となる御言葉」が与えられています。

 

○心の中に「平安」があること。

「神様からのお考え」である場合、心の中に不思議な「穏やかな平安」が与えられます。

反対に、心がざわついたり、強迫観念が湧く場合は、神様からの「ものではない」可能性が非常に高いのです。(気をつけましょう。)

 

○複数の「指導者の助言」を受けること。

健全なクリスチャンと、内容をわかち合って、「祈って貰う」ことが大切です。

複数の方に祈って貰い、わかち合うと、御心理解の精度が上がります。(思い込みならば、それが分かります。)

 

○環境が整うこと。

「御心だ」と確信しても、しばらく祈りつつ、様子を見る必要があります。

神様の計画ならば、環境が整ってきます。

神様は、そのクリスチャン以外の人にも語られるはずです。そして分かる形で、環境が整います。

(信仰で進む中で、環境が整う場合もあります。)

ただはっきり言えることは、御心ならば、最終的には「見える形」で、物事が進むのです。(しるし、が見えてきます。)

 

旧約聖書では、偽預言者は、石で打たれて殺されました。

それぐらい、「自分の思い込み」を「神の御意志だ」と主張することを、聖書は禁じ、危険視していることを知って下さればと思います。

 

クリスチャンでない、質問者さんにとって、分かりにくい点がたくさんあったと思います。

しかし、「多くのクリスチャンは、吟味をしている」ということを知って頂ければと思います。

 

信仰の世界は、見えない霊の世界を含みます。

ですから、知らない方が見たら、恐ろしさを感じることがあります。

しかし、霊の世界にもルールがあるのです。

そのルールを理解していれば、有意義な活用ができるのです。

 

次回、霊の世界を理解する。をまとめて、終えたいと思います。

祝福をお祈りしています。

 

1コリント14:29 預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。

14:33 それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。

 

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「神様の導き」というのは、分かるものなのですか?

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知人にクリスチャンの方がいます。彼が、以前会社を経営していた時、ある社員のせいで、会社がつぶれそうになった時があったそうです。そして半年ほどクレームの嵐だったようです。

ところがその直前、彼は神様から、「これから試練が来るから、備えるように」という言葉を聞いていたようです。彼は祈っていると、「神様の答え」が環境や知人の口から与えられる、と言います。そして今は「神様から語られることがある」と言うのです。「ここに来るまで、時間がかかった」と言われます。クリスチャンでない私には、理解できないのですが、こんなことは起きるのでしょうか?

 

ご質問ありがとうございました。

知人の方のご相談ですね。

ご質問の文面を拝見しますと、「そう言うこともあるのか」という気持ちと「そんなことはあり得ない」という気持ちが、混ざっておられるように思いますが、如何でしょうか。

 

「神様の導き」については、クリスチャンにも色々な考え方があります。

「そう言うことは、一生に一回あれば良い」と言う考え方から、

「導きは毎日必要」という考え方まで、大きな幅があります。

 

しかし共通した考えは、「神様の導きは、ある」です。

「どのように語られるかは、千差万別」です。

夢だったり、人からの言葉だったり、何かのイメージだったり、

聖書のみ言葉を通じてだったりします。(聖書の言葉が、一番多いとは思います。)

はっきりとした声を聞いた、と言う人もいます。

 

思い込みの場合も、当然あり得ます。(後でその点に触れます。)

しかし、客観的に考えても「人間の力を超えた何か」が働いた、と認めざるを得ないこともあるのです。

 

もし「父なる神様」がおられて、私たち人間を「心から愛して」おられるならば、

「神の民」が、泣きながら助けを求めていれば、

「助けよう」と考えられるはずです。

しかし、そこには幾つかの課題があります。

 

今回は、「導きはある」という前提で、その課題について考えていきます。

①なぜ「導きがある」と言えるのか。

②その考えが「どこから来たものか」を注視する。

③「霊の世界」があることを知る。

しばらくお付き合い下さい。

 

①なぜ「導きがある」と言えるのか。

その根拠は、聖書から考えるしかありません。(もし納得できない場合は、多くのクリスチャンはこのように考えると、受け止めて頂ければ、と思います。)

イエス様の御言です。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10:37)

 

イエス様が、わたしの羊(イエス様を信じ愛する民)は、わたしの声(イエス様の声)を聞き分け、ついて行く、と言われています。

ですから「イエス様の羊」になった人は、「イエス様の声(導き)」を聞くことができるのです。

 

しかし、それを妨げるもの、イエス様の声を邪魔する(遮断する)ものがあります。

それが罪です。(罪の定義は、後で触れます。)

気分を悪くしないで下さいね。

イザヤ59:1-3

「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。

あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。実に、あなたがたの手で血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。」

 

罪があると、せっかく神様が語って下さっても、「罪が隔て」となって、神の導き(声)を跳ね飛ばし、無視してしまうのです。

聖書で罪は、ハマルティア(的外れ、ギリシャ語)と言います。

「本来の的」を外しているのが、罪の定義です。

 

罪の根本は、「自己中心性」です。

「自分が神の位置に立つこと」です。つまり絶対的なルールを知らず、

「自分の先入観」が全てだ、と考えるものです。

 

これを乗り越えるためには、「謙虚さが要求」されます。

つまり、「事実ならば心を開いて受け取る心」です。

 

神様は語り続けています。

しかし、人間の罪(的外れの心)が妨害をして、神様の優しい声が分からなくなっている。

これが、「聖書の主張」なのです。

 

信仰は、思い込みではありません。

事実を観察する「冷徹な視点」が必要です。

 

よく「人の意見を聞けない人」がいます。

こう言う方が信仰を持って「何かを言い切る」場合があります。

それは危険です。

 

「霊の世界」は、実は恐ろしいのです。

気をつけなければ、悪い方に一気に暴走します。

(自分が正しいと言う絶対的な思い込み、高慢な心を持つと、悪魔の誘惑に乗って、滑り落ちることがあるのです。)

 

「判断基準」が必要です。

そのために私たちは、「聖書を学ぶ」のです。

「絶対的な基準」があると言う「謙虚な心」を持ち続け、真理を「絶えず学ぶ心」が必要なのです。

 

ここまで読まれて、いかがでしょうか。

知り合いのクリスチャンの方の「考えの背景」の一部を、知って頂けたでしょうか。

納得できないことも多いとは思います。

 

しかし科学者のような、冷静な視点を持って、事実を客観的に受け止めることをお勧めします。

きっと、質問者さんにも、同じように、神様のささやきがあるのではないかと、私は思うのです。

 

次回後半は、「神様の導き」が分かるために、

②その考えが「どこから来たものか」を注視する。

③「霊の世界」があることを知る。

(多少題が変わるかもしれません。)

に触れていきたいと思います。

 

祝福をお祈りしています。

 

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クリスマス物語1〜ザカリヤ、失敗が用いられる。

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アドベント(待降節)に入りました。

2021年11/28の週は、アドベント第1週です。第4週にクリスマスを迎えます。

今はクリスマスを待ち望む期間です。

数人の人物の信仰を通じて、クリスマスの恵みをお伝えしたいと思います。

 

本日は「失敗が用いられる」というテーマで、祭司ザカリヤ(イエス様の母マリアの親戚の方)を取り上げます。

聖書には、頑張っても失敗する人がたくさん出てきます。

しかし、「失敗しても」終わりではないのです。

失敗の中でも、必死にあがくと、神様は助けて下さいます。

すると、「失敗した方が良かった」という 不思議な現象が起きるのです。

 

今回のザカリヤが、そのような人物でした。

彼は名門の祭司の家柄で、夫妻ともにとても信心深い者たちでした。

しかし祭司の定年間際になっても、子供が与えられませんでした。

平均年齢は今よりずっと若い時代です。

二人共に、子供は随分昔に「諦めて」いました。

 

ところが、神殿で香を焚くという、祭司生涯で一度あるかないかの仕事が、くじで当たりました。

その名誉な仕事の最中に、ザカリヤは天使に出会ったのです。

 

光り輝く中で、

天使は厳かに言いました。

「あなたの祈りは聞かれている。子供が与えられる。特別な使命を持った子である。その子をヨハネという名にしなさい。」

(この子供、バプテスマのヨハネは、後にイエス様を救い主と証する人物)

 

ところが、ところがです。

ザカリヤは、その約束の言葉を、「信じられなかった」のです。

天使の前で「私は信じられません。」と言ってしまいました

劇的な場面で、「大コケ」してしまったのです。

 

そのため、一時的に「口がきけなく」なってしまいました。(悲しい話です。)

その状態は、子供が生まれた後8日目の割礼の儀式の日まで続いたのです。

 

その様子を仲間の祭司たち、そして町の人々が見ていました。

本当に「口がきけなくなった」ザカリヤを皆が注目していたのです。

 

いよいよ割礼の日になりました。

子供の「命名の日」です。

周りの人々は、父と同じ「ザカリヤが通例だ」と主張しました。

しかしザカリヤは、書き板に「その名はヨハネ」と書いたのです。

その瞬間、口が解け、話せるようになり、彼は神様をほめたたえました。

周りの人々は「びっくり」でした。

目の前で、奇跡が起きたのですから、、、。

 

そして、この話が町中に一気に噂として広がりました。

人々は「このヨハネと名ずけられた子は、どんな子なのだろうか」と囁き合いました。

 

そのため、後にヨハネが荒野で修行の様な生活し始めても、

受け入れられ、尊敬されたのです。

そして、このヨハネが「イエス様をメシア(救い主」と証した時、

多くの人が、「耳を傾けた」のでした。

 

「ザカリヤの心」に注目して考えてみます。

彼は、年齢的に「子供を諦めて」いました。

その悲しみは長く続いていたために、

天使の言葉を聞いても「心が動きません」でした。

 

しかし、口がきけなくなったことを通じて、

彼は、深く考えたのです。

自分に与えられた「しるし」の一つ一つを考えたのです。

そして出した結論が「その名は、ヨハネ」でした。

それは、「私は神様の計画を信じる」という彼の信仰告白だったのです。

 

人は失敗をします。

自分の思い込みや頑固さによって、

すべきことができなかったり、しなくても良いことをしてしまったり、します。

 

しかし、失敗した後が大切なのです。

自暴自棄になってはいけません。

深く思い巡らす中で、

「今まで与えられた、しるし」の一つ一つを思い起こすのです。

そして「自分の先入観や頑固さ」を越えて、

「神様が見せて下さったメッセージ」を思い巡らすのです。

 

すると、「今までとは違う結論」が見えてきます。

そして、素直になって「その最善の結論」を選ぶのです。

(これを「信じる」と言います。)

この決断をした時に、素晴らしいことが起きます。

 

神様は、失敗を用いられます。

むしろ失敗することで「神様が働いて」下さいます。

その「神様の働き、奇跡」を、人々が目にした時に、

失敗しなかった時以上の(表面的に上手くいった時以上の)

「びっくりするようなインパクト」を、人々は受け取るのです。

 

神様は、失敗を用いられます。

失敗した時に、「それでも神様側に立とう、信じよう」とした時に、

「失敗さえも益」となるのです。

 

ですから、失敗した時こそ「諦めてはいけない」のです。

今回は、ザカリヤを取り上げました。

祝福をお祈りしています。

 

ローマ8:28

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

 

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死の影の谷(人生の荒野)の乗り越え方、その2

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先回から、このテーマを掲げています。その後半です。

③「諦めないこと」諦めないための考え方、に注目します。

人生は、荒野で作られます。

なぜなら、荒野は「本当に大切なもの」しか、役に立たないからです。

お金も、名誉も、考えの甘い人間関係も、役に立ちません。

「水」や「わずかな食物」で、数日間生き残ることができます。

そして最も重要なことは「心の持ち方」なのです。

 

遭難した人で、生き残った人たちに、共通していることが、一つあります。

それは、「諦めなかったこと」です。

 

「諦めない」ので、救助を求めるために、火でのろしをたてたり、

「諦めない」ので、体力を温存するために、敢えて動かなかったり、

「諦めない」ので、仲間を励まし続け、

「諦めない」ので、出来るだけ食物を小分けにして、今日の食物を我慢したり、

最善の手を打ちます。

理性的な行動をとるのです。

 

諦めてしまったら、すべて終わります。

先を考えなくなります。

衝動的に行動し、だんだんと体力がなくなります。

そして、死を待つばかりとなるのです。

苦しくて、自殺をするかもしれません。

私たちは知っていますが、「生きる使命」を放棄して死んでも、苦しみは終わりません。

むしろその判断の恐ろしさを後から知って、死後に苦しみが増すことになるのです。

(本当です。最悪の可能性を回避して欲しいのです。)

 

私たちは、寿命まで「生きなければ」なりません。

「与えられた使命」を果たさなければ、ならないのです。

そのためには「諦めてはいけない」のです。

 

使徒パウロは、ユダヤ教のエリートでしたが、クリスチャンになったがために、非常な苦しみを経験しました。しかし、彼は「諦めなかった」のです。

2コリント11:23-27
「私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。、、、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」

 

今回、「人生を諦めないため」に、二つほど、ポイントを考えます。

一つは、「感謝すること」。

もう一つは「慰めを受けること」です。

 

【感謝すること】

感謝は、「感謝できる環境だからする」ものではありません。

「現実を受け入れるため」のものです。

一旦、すべてのことをリセットして、「感謝できること」を探すならば、

不思議なことがおきます。

「希望」が見えてきます。

言い訳や責任転嫁をしている間には、決して見ることができない「肯定的なもの」に注目できるのです。

すると、「力が湧き上がる」のです。

「気力」が満ちてきます。

 

信仰を持っておられる方にとっての、「感謝」は、

「神様の支配を認めること」です。

聖書を知っている方は、神様は「良い神様」だと知っています。

感謝をし続けると、苦しみも、その「良い神様」が、許可されて起きた「最善の道の一つ」だ、と考えられるようになります。

(ここまでいくには、神様と深い祈りのやりとりが必要です。)

詩篇119:71

「苦しみに会ったことは,私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」

 

ぜひやってみて下さい。

すでに、やっておられる方は、共に頑張りましょう。

感謝は、知識ではなく、実践です。

 

山は近づかないと分からないように、

批評している間は、決してその素晴らしさを体験できません。

実践あるのみ、です。

 

【慰めを受けること】

詩篇23篇4節 

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」

 

「死の影の谷」で、感じることは、

「恐怖」です。

しかしもっと恐ろしいことは、「孤独」です。

 

「誰も助けてくれない」「誰も心配していない」「誰も分かってくれない」

そう思ってしまった時に、「本当の絶望」がやってきます。

 

しかし、そんな絶望の暗闇に、

あなたに「寄り添っておられる方」が存在するのです。

 

「いやいや、そんな甘い話はないよ、、、」

そう言える方は、まだ余裕があります。

本当に「切羽詰まった人」は、「わらをもすがり」ます。

自分のプライドも体裁も乗り越えて、求めます。

 

実は「自我が強く、罪深い人間」は、それぐらいの経験をしないと、本当の意味で神様(イエス様)を求めないのです。

(余裕のある間は、「利用する程度」しか、求めていないのです。恐ろしいことですが、、、)

 

必死に求めると、パウロのような体験をします。

「死と同じ」状況の中で、「キリストが私を捕らえて」下さっているという体験です。

ピリピ3:10-12

「キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中から復活に達したいのです。

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」

 

イエス様は、「死の影の谷」の一番暗い絶望的な場所で、

あなたの近くに「助けるために、来て下さる」お方です。

(あなたの一番近くにおられ、捕らえて下さるのです。)

 

想像してみて下さい。

闇の中で、動けなくなるほど、憔悴しているあなたに、

「光の助け」がやってきます。

その方が、手を伸ばし、

「もう大丈夫、安心して」と言われます。

もし、そんな声を聞いたなら、

あなたは、「喜びで気も狂いそうになる」と思うのです。

 

「その深い慰め」を受けた人は、

イエス様の願いを知って、「諦めることの無い人」に造り変えられます。

 

死の影の谷(人生の荒野)の乗り越え方は、

「決して諦めないこと」です。

 

「諦めない」ならば、何とか闇を抜けることができるのです。

祝福をお祈りしています。

 

詩篇23篇4節 

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」

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たとえ「死の影の谷」であっても、そこで「イエス様と一緒」であれば、楽しいのです。

そして、「死の影の谷」でなければ、「イエス様と出会えない」ならば、

「死の影の谷」も意味があると、「本気で思える」のです。

 

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死の影の谷の歩き方(恐怖とプレッシャーの乗り越え方)

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本日は、ダビデの詩から、「恐怖とプレッシャーの乗り越え方」を考えてみます。

詩篇23篇4節 

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」

 

人生の中で、一度や二度は、「死の影の谷」を通ることはあります。

谷の中腹の細い、下を見れば「落ちたら確実に死ぬ」という崖の道を通る時には、「足がすくみ」ます。

 

ちなみに私は「高いところが苦手」です。

時々、非常階段を上らなければならないのですが、下を見て、階段が崩れるような感覚になると、泣きたくなります。

特に「下り」が泣きたくなります。(上がったら、必ず下らないといけないからです。自宅のマンションの屋上です。)

 

そういう時には、周りを見ずに、「階段に集中」するようにします。

そして、この階段は頑丈だから「絶対に壊れない」と「自分に言い聞かせる」(笑)のです。

自分でも笑えてきます。

そうすると、階段が「頑丈に思えて」きます。(元々頑丈ですが、、、)

そして、ソロソロと、手すりを握って、下るのです。

 

今回、「死の影の谷の歩き方」として、、、

①細くても「確実な道」を見つけること。

②「助けてくれる存在」を見つけること。

③「あきらめない」こと。

を考えていきます。

しばらくお付き合い下さい。

 

①細くても「確実な道」を見つけること。

思わぬトラブルに出会った時、普通はパニックになります。

「助からない」と思えてしまうと、本当に足がすくみます。

 

しかし、そういう時こそ、「脱出の道」を必死に考えるのです。

あらゆる可能性を考えて、考え尽くすのです。

「完璧」でなくても構いません。

今置かれている状況で、最善策を考えるのです。

「行ける、行けない」は横に置いておきましょう。

とにかく「助かりたい一心」で、考え尽くすのです。

 

しばらく必死にもがいていると、必ず状況が変わります。

その時「一度でも考えている道」だと、

「道が見えた瞬間」に勇気を持って飛び込みやすくなるのです。

 

ですから、「助かりたい」ならば、考え尽くしましょう。

そして、「見えた脱出の道」を一歩でも歩みましょう。

 

この時、周りの嵐を見てはいけません。(足がすくむだけです。)

ただただ「細くても、確実な道」に集中するのです。

 

②「助けてくれる存在」を見つけること。

「死の影の谷」の道は、普通、「自分の力量」を越えています。

手も足も出ない、ということが多いのです。

必ず、人に相談しましょう。

 

しかし、「誰に相談するか」は、選ばなければなりません。

愚痴を言い合う仲間は、やめておきましょう。

(生きるか死ぬかの状況では、愚痴を言う余裕はありません。死に絶えてしまいますから。)

 

自分の成功体験だけを主張する人も、やめておきましょう。

(あなたの話ではなく、自分の話しかしない可能性があります。)

 

できれば、失敗から乗り越えた人、苦痛を乗り越えた人が良いです。

必要なら、お金をかけて、プロにお願いしましょう。(解決の覚悟です。)

「自分が気がつかない観点」で「脱出の道の可能性」を示唆して頂きましょう。

 

そして「定期的にサポート」して貰いましょう。

何度も書きますが、

「死の影の谷」の道は、普通、「自分の力量」を越えています。

ですから、乗り越える目星がつくまでは、「定期的にサポート」して頂くことが大切です。

 

遠慮をしてはいけません。死の影とは、本当に死の影ですから、、、生きるか死ぬかの状況ですから。

危機的状況では「今助けを求めずに、いつ求めるのか」と思って、お願いし続けるのです。

 

そして、ここから、神様、イエス様の観点となります。

人間は助けてくれますが、絶対にどこか足りないところが出てきます。

人に言われた通りのことをしても、解決できるとは限りません。

ですから、全能者の神様に、祈るのです。必死にお願いするのです。

 

先ほどの詩篇23篇4節 です。

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」

 

イエス様は、間違った道を歩んでいたならば、優しく「むち」で、修正しようとされます。

(イエス様は、羊のことを大切にされていますから、優しく正して下さいます。)

道が分からない時には、「杖(権威の象徴)」で、導いて下さいます。

(羊が迷った時には、声を掛けられます。)

イエス様が関わって下さる時、それが「死の影の谷」でも、

いやむしろ「死の影の谷」だからこそ、「大きな慰め」を感じるのです。

 

その神様について行くならば、「緑の牧場」に行けます。

イエス様は、羊飼いとして「完璧なお方」なのです。

 

「本当かな」と思われる方もおられると思います。

しかし、「もし、助けを求めたい」と思われるならば、

ぜひ一度「本気で信じて」みて下さい。

(信じることは、コストはかかりません。やってみるだけの価値はあります。)

 

キリスト教が、「イエス様の十字架と復活」以降、2000年以上存続しているには、

「それなりの理由」があります。

それは、「祈ったら助けて下さった」という体験があるからです。

「死の影の谷」でも、決して見捨てずに「共にいて」下さるイエス様の「実存」を、

「祈りと、その後の現実の中」で体験できるからです。

 

ぜひ期待して「祈られる」ことをお勧めします。

 

③「あきらめない」こと。

次回、この点に触れて終わります。

祝福をお祈りしています

 

詩篇23篇4節 ダビデの賛歌

1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。 

 

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自殺したユダは、どうしたら良かったのか?

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昨日の続き、後半です。

イエス様のお祈り「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)の真意を考えていきます。

また、悪魔の「悪い言葉」、人間を破壊しようとする「誘惑の言葉」を心に入れない秘訣に注目します。(質問者さんのご質問の意図を越えているかもしれませんが、大事なこととして書かせて頂きます。)

 

今回の要点は、ユダは、本当は、、、

①悪魔につけ込まれる材料をなくしていくべきだった。

②イエス様ともっと会話をすべきだった。

③「禍が益となる」イエス様の教えを知っていたら、、、。

 

①悪魔につけ込まれる材料をなくしていくべきだった。

ユダは、イエス様から会計係を任されており、能力も高い人物でした。

理想を持っており、「イエス様について行く」ならば、その理想が実現すると思っていたようです。

彼は、多くの弟子たちが考えていたと同じく、「イエス様は、自分たちの国をローマ帝国から解放してくれる」と思っていたでしょう。ですから、「早く武力蜂起して欲しい」と考えていたに違いないのです。

色々な解釈が考えられますが、私はユダは、イエス様が逮捕されたならば「武力蜂起してくれる」と考え、イエス様を後押しする動機で、イエス様を銀貨30枚で売ったと、思うのです。そうでなければ、イエス様が死刑になると悟った時、後悔して、「自殺してしまった理由」が考えられないのです。

 

彼の課題は、「自分は正しい」と思っていたことです。

そして「イエス様をコントロールしようとした」ことです。

つまり「高ぶり」です。

この「高ぶり」を持っていると悪魔に付け込まれる「隙(スキ)」を作ります。

 

悪魔は、「お前は、正しい。お前は、正しい。お前を認めない奴が悪い。お前を否定する奴は間違っている、、、」と煽ってきます。

そして、悪魔の言葉を受け入れると、「一気に絡めとり、引っ張り」、悪魔の甘い言葉から「離れられなく」させるのです。縛りつけてきます。

(誘惑に乗ってしまうと、恐ろしい結果を生むのです。その闇から「離してくれません」。悪魔は、優しくないのです。悪魔の目的のために「あなたを支配」するのです。)

 

ですから、「悪魔に付け込まれる材料」を無くしていくことが、不可欠です。

 

聖書には、ユダは金入れを預かり、そのお金を誤魔化していた。と書かれています。

ここがポイントです。

彼は、「自分の誤魔化し」を「正直にイエス様」にお話しすべきでした。

そして「赦しを受ける」べきでした。

「自分の弱さや失敗」を、イエス様にオープンにすべきだったのです。

(ユダの裏切りは、計画だった、必要悪だったという考え方、視点もありますが、ここではユダ自身の心に注目しています。)

 

②イエス様ともっと会話をすべきだった。

聖書の中には、トマスという、疑いを正直にイエス様に話す弟子が、出てきます。

しかし、ユダは「建前」は言っても、「本音」はイエス様に話していなかったようです。

もっと明確に言えば「イエス様の言葉を聞いていなかった」のです。

 

頭が良く、プライドの高い人は、「自分の頭の中だけ」で完結する傾向があります。

つまり、「人の意見を耳に入れない」のです。

自分の見ているものの「違う視点」が、受け入れられません。

頑なです。頑固です。

 

よく言われます。

「ユダも、ペテロのように、自分の落ち度を認め、イエス様に『赦して欲しい』と近づいたなら、赦されたに違いない、なぜなら、イエス様は最後の晩餐で、ユダの足も洗われたのだから。」

 

人間は、プライド高く、弱いです。

プライドを守りたいがために、簡単に甘い誘惑に乗ってしまいます。

 

だから、イエス様は私たち人間のために、「とりなし祈られた」のです。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)

 

この「切なる祈り」を聞くことができたならば、

私たちは、「別の視点」を持つことができます。

それは、「自分で自分は許せない」けれど、

「赦す、と言って下さる方がいる」という視点です。

 

その「優しさ」と「温もり」を感じることができたならば、

イエス様に足を洗ってもらったような「気持ち良さ」が、

「心の中」に湧き上がったならば、

その時、、、私の「頑なな心」が溶けていく体験をするのです。

 

「イエス様の優しい心」を聞いた人は、「悪魔の言葉」を聞かなくなります。

聞く必要がなくなるのです。

 

自殺したユダは、本当はどうしたら良かったのか。

その答えは、

「自分の罪、弱さを正直に認め、

イエス様と親しく会話をして、

イエス様の優しいお考えを受け入れる。」

です。

 

③「禍が益となる」イエス様の教えを知っていたら、、、。

聖書の中には、すべてのことが益となる、とあります。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」(ローマ8:28)

 

イエス様の教えは、「逆転の教え」です。

悪魔は、「十字架のイエス様の死」を見て「イエスを破壊した」と喜びました。

しかし、それでは終わりませんでした。

イエス様は「復活」され、弟子たちを再度集め、使命を語り、その後世界中にイエスを信じる者が起こされたのです。

 

「十字架」と「復活」の体験は、信じる一人一人にも起こる、奇跡です。

「これで終わった」ように思えても、次の「復活の道」があるのです。

 

「世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

 

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 」(ヨハネ11:25)

 

「ユダ」のような体験をした人こそ、イエス様の「復活体験」ができるはずです。

いろいろと書いてみましたが、「悪い攻撃に打ち勝つ」ための参考にして頂ければ、幸いです。

祝福をお祈りしています。

 

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