人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から

世界のベストセラー聖書の価値観から、生きるを考えます!(モノの見方が変わると、とても楽になります)

「イエス様の語りかけ」を聞ける恵み

クリスチャンは、自分がなりたくてなれるものではありません。

イエス様からの「個人的な語りかけ」を聞いて、信仰を持てるのです。

 

自分から求めて信仰を持った人も、実は「語りかけ」を聞いています。

イエス様の語りかけです。


ヨハネ15:16 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」

 

イエス様の選びが、「まず最初」なのです。

「選ばれている人」は、イエス様から「覚えられて」いますので、

必ず「語りかけ」を受けます。(感謝なことです)

 

しかし残念ながら私たち人間は、基本的に「目が曇って」います。

そのため、語りかけにまったく「気がついていない」ことが多いのです。

又は無意識になんとなく、行動していることも多いのです。

(自分で選んでいるようで、いくつかの目に留まったものの影響で、選ばされていることも、多くある のです。人為的にそのテクニックを使って人を誘導する悪人も、いるほどです。イエス様は良い方ですから、安心ですが、、、)

 

イエス様の復活後の「弟子たちの様子」を通じて、

「イエス様の語りかけに気がつくプロセス」を考えていきます。

 

①身近におられていても、「気がつかない」

弟子たちは、イエス様の十字架の後、イエス様が亡くなったと考えて失望していました。(目が曇っていました)

イエス様が事前に「三日後に、復活する」と言われていましたが、信じることができませんでした。

今回は聖書箇所を列挙しませんが、

すべての箇所で、

弟子たちは皆、最初はまったく気がつかなかったのです。(ヨハネ20-21章、ルカ24章等参照)

 

②それでも「イエス様が近づき、語りかけて」くださった

失望し、イエス様が近づいてくださっても「気がつかない」弟子に、

それぞれの場所で、イエス様は「語りかけ」てくださいました。

しかし彼らは、イエス様と気がつかずに「会話をしていた」のです。

 

③ある瞬間に、「イエス様の語りかけだ」と気がつく。

弟子たちの状況によって十人十色ですが、

会話をしているどこかのタイミングで、弟子たちは「ハッと」気がついたのです。

目の前の語りかけの主は、「イエス様なのだ」と。

 

すると、「喜び」が湧き上がりました。

「感激」で言葉が出ませんでした。

私を愛してくださるお方、

天地を造られた王の王であるお方が、

「私を見て、私のことを考えてくださる恵み」の「大きさ」を実感できたからです。

 

これを「知識だけ」で理解しようとしても、分かりません。

イエス様からの語りかけは、実際のところ、体験です。

これを読まれている方で、実際に「イエス様からの語りかけ」を受けている方は、

はっきりと理解できると思います。

その人はすでにクリスチャンです。(またはクリスチャンになる人です)

 

「そうあったらいいな」と思われる方ならば、

その方も、語りかけを受けている方である可能性があります。

またぼんやりとしか「感じられない」段階なのです。

ですから、これから「はっきりわかる」ことを期待したら宜しいかと思います。

 

知識だけで信じたと思っている人は、よく吟味する必要があります。

信じていると自分では思っていても、イエス様と「まったく関係がない」生活をしている人がいるのです。(実はこのことは「非常に恐ろしいこと」なのです。マタイ7:23参照)

 

イエス様を信じることは、知識だけではありません。

イエス様と「目と目を合わせるような体験」であり、「深い関係」です。

 

あなたがイエス様から選ばれた方ならば、次第にイエス様との関係が深まります。

大事なことは、

イエス様を意識して祈る(会話する)ことです。

そして、会話を通じて、関係が深まったら、応答することです。(自然に行動が変わるはずです)

 

そして応答することによって、ますます見える景色が変わり、

生き方考え方が変わります。

 

イエス様についていくと、人生の冒険が始まります。

自分を大切にし、人を愛し、神様に感謝をしながら生きる生活に、

(自然に)なっていくのです。

自分の理解を超えた素晴らしい、人生を歩み始めるのです。

 

イエス様についていく人生は、素晴らしいです

 

ヨハネ10:27-28

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」

 

祝福をお祈りしています。

 

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イエス様の「平安」を頂くには、どうしたら良いでしょうか。

本日は、イエス様の平安を頂く方法について、まとめたいと思います。

イエス様は目には見えませんが、私たちが出会うと、人生が変わります。

失望の中にいても、暗い闇の中にいても、関係ありません。

イエス様の力は、闇の力以上なので、難しい状況でも問題はないのです。

(むしろ簡単より、難しい方が、必死になるので、出会いやすいのです)

 

イースターをご存知のでしょうか

2022年は、4月17日がイースターでした。

イースターとは、イエス様のよみがえり(復活)をお祝いするお祭です。

イエス・キリストは、十字架の三日後に復活された、というのが聖書の主張です。

 

弟子たちは皆、イエス様の十字架で失望と悲しみの中にいました。

信頼していた先生が亡くなられたのですから、当然ではあります。

そして自分たちも逮捕されて、殺されるのではないかと、恐怖に怯えて集まっていました。

 

マグダラのマリヤという、女性がいました。

彼女は、イエス様から人生を変えて頂き、その感謝によって、心よりイエス様を慕っていました。

(師弟愛です)

 

①イエス様を愛している、または心から会いたいと思う人が、イエス様に出会って平安を受ける。

マグダラのマリヤは、イエス様を心から愛していました。

だから十字架の近くにもいましたし、お墓にも香料を塗ろうとやってきました。

 

イエス様を愛している人は「行動」します。

現在の私たちで言えば、どうなるでしょうか。

きっと、聖書を読む、キリスト教関係の文章を読む、クリスチャンに会う、教会に行って見る、、、

とにかく「求めて、行動すること」が、重要です。

 

使徒17:27 「これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。」

 

②そういう人に、イエス様は近づいてくださる。

マグダラのマリヤは、お墓でイエス様に出会いました。

しかし彼女は、その方がイエス様とは、気がつかなかったのです。

 

ここで重要なことは、「イエス様の方から」近づいてくださったという点です。

求める人には、神様が近づいてくだいます。

(神様が近づいてくださらなければ、私たちは、出会えないのです)

 

ヤコブ4:8 「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心ある人たち。心を清くしなさい。」

 

しかし私たちの目が鈍いので、最初は神様に気がつきません。

 

③イエス様は、語りかけてくださり、私たちは、目が開かれて気がつく。

マリヤは、イエス様を園の管理人と思って話しかけます。

「あの方の身体をどこに置いたのか教えてください。そうすれば、引き取ります」

するとイエス様が、「マリヤ」と、いつものあの懐かしい声で語りかけてくださったのです。

彼女は、目が開かれました。

そして「ラボニ(先生)」と呼びかけたのです。

 

今年のイースター礼拝会で、私たちの教会のある女性が、

集会中、急に右肩を叩かれたそうです。

彼女は「そこに誰かがいる」と思ったそうです。

その時「大丈夫だから」と声が聞こえました。イエス様だと思いました。

その瞬間、涙が止まらなくなりました。

そして急に心が軽くなりました。

彼女は長い間「イエス様が身近におられることを教えてください」と祈っていました。

それ以降、イエス様が益々身近になったそうです。

 

イエス様の平安が欲しい、本気で体験したい、と願うならば、

①求めることです。

すると②イエス様が近づいてくださいます。

そして③ある瞬間に語りかけてくださります。

そうすると、目が開かれるのです。

 

このパターンは、ルカ24章のエマオの途上の弟子たち、にも共通するパターンです。

(この時は、イエス様がパンを割かれたことがきっかけで、目が開かれました)

 

この世界を造られた創造主を信じるあなたは、求めさえすれば、出会うことができます。

それが聖書の主張であり、信じるクリスチャンの体験なのです。

 

あなたも、イエス様に出会って「深い平安」を頂けますように。

祝福をお祈りしています。

 

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その8まとめ 「自分だけが正しい」という考えを乗り越えるには。

今回で、一旦まとめたいと思います。

(神様から離れてしまった、人間は、すなわちアダムとイブの子孫は、)

誰もが、自衛本能を持っています。自分を守ろうとします。

ですから、根本的に「自分は正しい」と思っています。

そうすると自然に、「人は間違っている」という結論になるのです。

 

普通、人はバランスを取ろうと思います。

またプライドや恥ずかしいという思いがあるので、自己中心の言動は控えます。

しかし、根本のところでは、「自分は正しい」と思っているのです。

 

心をえぐるような聖書箇所ですが、敢えてもう一度掲載します。

 

エレミヤ17:9-10

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。

わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれ生き方により、行いの結ぶ実によって報いる。」

 

人間は、残念ながら、心の奥深くまで「自己中心」なのです。

では、どうしたら、「自己中心の壁」を乗り越えることができるのでしょうか。

私がずっと主張していることは、創造主の存在を知って、信じることです。

 

私は、学生時代に剣道をしていました。

剣道では、審判は絶対です。(他の競技、特に武道では同じ感覚だと思います)

審判が、一本と言えば「一本」なのです。

(そのため審判には、高い判断力が要求されます)

私の判断でも、敵の判断でもないのです。

「審判の判断」で、すべてのことが進みます。

審判者がいるので、精一杯のことをして、全力で相手に戦い挑むのです。

 

人生にも、実は審判者がいます。

ヘブル9:27-28

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、、、」

 

結局のところ、「自己中心の壁」を乗り越えるには、

自分を越えた審判者を知り、受け入れるしかないのです。

 

私は、死後に天国と地獄があることを信じています。

だから、そのジャッチをする権限を持つ「創造主」を信じて、罪の赦しを求めます。

 

そうすると、「自分だけが正しい」という考えを持つことはできません。

創造主が存在する以上、私は創造主のルールで判断され、正しく裁かれるのです。

 

そして私は、罪(神様から離れて、自己中心に生きてしまう性「さが」)を、

赦して頂くという恵みを、

イエス様の十字架を信じることによって受けているのです。

(この「赦し」の安らぎは、言葉にできないほどの「喜び」を伴います)

 

「自己中心の壁」を越える方法は、創造主を信じる以外にはない、と私は考ています。

それが聖書の主張であり、罪の赦しを受けるためには、この道しかないと、

私は結論づけています。

 

ローマ6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 

今まで、8回に渡って、「自分を正しいと思いたい人」「自分を良い人だと思いたい人」

の特徴と、課題について書いてきました。

これを読まれた方が、私と同じように「罪からの解放」という平安を頂き、

罪(自己中心)から自由になって、喜びと愛の人生を歩めますように。

 

祝福をお祈りしています。

 

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その7 プライドが邪魔をして助けを求められない「自分が正しいと考える人」

「自分が正しいと考えたい人」は、色々なところで損をしています。

まず、できていないことを、できているかのように振舞うので、とても疲れます。(演技は長続きしません)

「人が適当にやっている姿」を見ると、異常に腹が立ちます。(当人の強迫観念やコンプレックスが刺激されるのです)

「頑張り過ぎる」と、人から煙たがられます。

努力が、報われないのです。

 

今回取り上げたいのは、「不健全なプライド」です。

普通、健全なプライドを持つ人は、安定しているので、柔軟性があります。

原則は持ちつつも、臨機応変の対応ができるのです。

 

しかし「正しさを求める」不健全なプライドを持つ人は、

「正しいこと(正しさを求めること)」を支えとして執着しているので、

「正しさから離れられない」のです。

(分かりますでしょうか?)

 

人に頭を下げることや、謝ることが、苦手です。

教えを請うことや、助けを求めることも、苦手です。

「不健全なプライド」が邪魔をして、素直になれないのです。

謙虚になれません。

 

だから、損をします。

そして、どうしてもお願いしないといけない時には、異常なストレスを味わうのです。

精神的にも、大きな損失です。

 

では、どうしたら良いのでしょうか。

それは、より大きな視点で、物事を見ることです。

 

会社であなたがある部署で、ある企画を出したとします。

優れた企画でしたが、

しかし会社全体で考えると、ボツになりました。

その時、あなたがどう考えるかです。

「自分の視点だけ」で考えるなら、反発しても、

「より全体の視点」で考えるならば、納得するしかありません。

 

自分の執着心を越えて考えるためには、神様の視点で考えるのです。

聖書の御言葉を意識して、結論を出すのです。

 

マタイの福音書7:1〜2

「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」

 

自分の視点では、裁くことは当然でも、

より高い視点から見ると、裁くことは、損失につながるのです。

私たちも、他人が人を裁いてドロ沼に入っていくのを見て「良くない」と思うのですが、

自分のこととなると「見えなくなる」のです。

 

高い視点で見るためには、人生のどこかで、

「自分の正しさでは無理」とギブアップしなければなりません。

考える軸を、自分自身から、神様に移行するためです。

 

ギブアップには、2つの可能性があると思います。

①死を意識するような苦しみを経験すること。

②圧倒的な助けを体験すること。

 

①死を意識するような苦しみを経験すること。

「大成する人は、闘病生活か、監獄生活、大きな挫折、又は身近な人の死を経験する」と言われます。

「死を意識した限界」を通過する時に、人は「自分の殼を越えます」

自分の殼を越えないと、生きる意味を見出せないからです。

 

「小さなプライド」を捨てないと助けられない、という限界を通過して、

「自分のプライド」を捨てて、飛び込むのです。

これを通過した人は、「中途半端なプライド」に執着しなくなります。

 

②圧倒的な助けを体験すること。

辛いだけでは、人は変わりません。

やはり助けられたという、体験が必要です。

自我を捨てて、飛び込んだなら「助けられた」という成功体験が必要です。

 

旧約聖書にヒゼキヤという王様がいました。

強国アッシリヤからの脅迫を受けた時、彼は神殿に行って「創造主に祈り」を捧げました。

死に物狂いの祈りをしました。

その後、不思議な助けを体験し、国は守られたのです。

 

私の友人の宣教師は、数年前に奥さんが肺癌にかかりました。

友人は、こう祈ったそうです。

「全能者の神様。あなたにとって、風邪を治すのも肺癌を治すのも同じです。ですから、癒されることを感謝します」

しばらくすると、主治医から「癌が消えている」と言われたそうです。

先日もその奥さんにお会いしました。

 

圧倒的な助けを体験すると、

同じような苦しみがやってくると、必ず「助けて下さった方」のところに行きます。

「小さなプライド」簡単に捨てられるのです。

 

「不健全なプライド」に執着するよりも、「確実に助けてくださる存在」に、

「素直に助けを求める」方が、何倍も得策です。

 

あなたの苦しみの時に、「助けを経験」できますように。

祝福をお祈りしています。

 

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」       

(マタイによる福音書7章7節)

 

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その6 「人を下に見る」心理「自分を正しいと思いたい人」

クリスチャン作家、三浦綾子さんのエッセイの中に、こんな文章があります。

「人間はとても自己中心である。集合写真を見ればまず第一に自分を見る。髪の毛がちゃんとしていたか。目はつぶっていなかったか。必ず自分をチェックする。また大事な花瓶を自分で割ってしまったら、惜しいことをした、と思うが、他人が割ったならば、徹底的に攻撃をする。そのように自己中心なのである。」

秀悦な文章です。

 

私たち人間は、悲しいことに皆「自己中心」です。

聖書はその理由を、霊的死、神様から離れてしまったことによる罪の結果だ、と記しています。

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」 ローマ人への手紙3章10~12節

 

自己中心、「自分が一番」ということは、他の人は「それ以下」になります。

自分が尊敬する指導者や、目上と考える方以外は、

基本的に「人を下に見ること」は、堕落した人間の「自然な考え」なのです。

 

「このこと」を自覚する必要があります。

なぜなら、自分が正しい人、良い人だと「思いたい人」は、

「自分が悪い人間である」ことを認めたくありません。

 

見下しているのに、「私は、見下していない。いつも平等に見ている」

と言い切ってしまい、「自分の本音」を見ようとしないのです。

 

そういう人は周りにいませんか?

ちょっと問題点を指摘をするだけで、物凄い反発をする人です。

「正しくなければならない」と、頑張り過ぎている人です。

 

そういう人は、全てを抱え過ぎて「神様のように」なろうとしています。

そのプレッシャーは、相当な重圧です。

だから早く、諦めて(白旗を上げて)、自分の歪んだプライドを捨てた方が良いのです。

そうすれば、重圧から解放されて、楽になります。

 

イエス様を信じる、とは、

自分の歪んだ罪を認めて、自分の罪を十字架につけることです。

罪を渡してしまうのです。素直に渡すと赦されます。

そして、その赦しを受け入れられるならば、深い部分で癒され、解放されるのです。

 

今回のポイントは、(イエス様のお考えを知ることを通じて)

①自分が一番と考えて、人を見下している事実を認めること。

②聖書を読むことで健全な考え方を知り、心を変えて頂く。(赦し、癒しを体験する)

 

①は、すでに書いてきました。

ですから、後は「自分の正直な姿」を認めるかどうかなのです。

② について考えていきます。

 

自分が、「人を見下している」ことを本当に気がつくと、

「どうしたら良いのだろう」と真剣に考えるようになります。

 

そういう時は、聖書の言葉が役立ちます。

ピリピ2:3-5

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」

 

聖書の言葉を読む時は、姿勢が大切です。

単なる「情報」ではなく、「神様の言葉」として読むのです。

自分の価値観よりも「上位の尊重すべき言葉」として受け止めるのです。

 

そういう姿勢で読めば、考え方にバランスが取れるようになります。

人間は重ねて言いますが、自己中心です。

自分が一番上なのです。

 

しかし、神様は「それ以上の存在」であることを認めた人は、

「自己中心」の壁を乗り越えて、より健全な「心の持ち主」になれるのです。

 

エレミヤ書17:9-10

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。

わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれ生き方により、行いの結ぶ実によって報いる。」

 

箴言16:20

「みことばを心に留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。」

 

ヘブル人への手紙10:22

「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」

 

※自分の力では、自分の心を綺麗にすることはできません。

イエス様を信じ、神様が「自分の上」におられることを認めた者たちは、

「神様の言葉を聞いて」変えられていくのです。

祝福をお祈りしています。

 

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その5 いつも正しいところに立とうする心理「自分を正しいと思いたい人」

「勝てば官軍」という言葉があります。

勝ってしまえば、思い通りにすべてを支配出来るという意味です。

「勝ち馬に乗る」という言葉もあります。

(人は自分の身が可愛いので)、勝った側について、優位に立とうという心理を表す諺です。

 

今回は、「正しいところにいつも立とうとする心理」を考えていきます。

人間はとても弱いです。

ある状況では、自分の身を守るために「何でもする」という弱さがあります。

 

自分の言動を、後から悔いることが無いために、

いくつかのポイントを考えていきます。

事前にシュミレーションをすると、失敗が少なくなると信じています。

 

①正しいことだけを言う心理

②正しいところにいつも立とうとする人の心理。自分の弱さを認められない。

③違いを、相手の間違いだと決めつける心理。

 

神様を信じるということは、自分を越えた存在を「受け入れる」ということです。

それは、自分が「間違えることがある」と「受け入れる」ことでもあります。

 

しかし、「自分を神様」のように考える人たちもいるのです。

そう言う人は、「自分が正しくあろう」とします。

(その志は、立派ではあります。)

しかし残念ながら、人間は完璧ではありません。

自分を神様のように考えると、ズレが起こります。(無理が起きるのです)

 

行動が一見正しくても、考えていることが邪(よこしま)ならば、

演技をしなければなりません。

 

①正しいことだけを言う心理

「自分が正しくあろう」と考える人は、無意識のうちに言葉を選んでいます。

自分の「都合の良い」ことだけを、「言葉にする」のです。

それは、

自分が「批判をされない」ためであり、自分が相手よりも「優位に立つ」ためです。

 

②正しいところにいつも立とうとする人の心理。

そして、いつも自分は正しいところに立とう、とします。

自分を「安全な場所」に置くのです。

(処世術としては必要な場合もあるでしょう。)

しかしタイミングを間違えると、信用を無くします。

 

「自分をいつも正しいところに置こう」とする人が失敗するのは、

イソップ寓話の、コウモリのようになる時です。

 

あなたに考え方の芯があって、行動しているならばまだ理解されますが、

その都度コロコロと、「自分を守るために意見を変える」ならば、

人は、その人を信用しません。

 

時には損をしても、自分が正しいと思うことを主張する人を、人は信用します。

状況ではなく、理念で動く人を信用するのです。

別な言い方をすれば、

敵がいても、あなたの味方になってくれる人を、人は信用するのです。

 

そのためには、理念が必要です。

状況でコロコロと変わらない、「芯」が必要なのです。

 

③違いを、相手の間違いだと決めつける心理。

人にはそれぞれやり方があります。

同じ仕事をするにも、多少の違いがあることは当然です。

しかし「いつも自分を正しいと思いたい人」は、その違いが認められません。

少しの違いを、個性ではなく、間違いだと決めつけるのです。

 

ではどうしたら良いのでしょうか。

 

「自分はいつも正しい、正しくなければいけない」という偶像(神話)を一旦捨て去るのです。

現実を直視するのです。

そうすれば、自分は正しい時もあれば、間違っている時もあると言う「当たり前の事実」にたどり着きます。

 

つまり、

自分の弱さを認め、受け入れる必要があります。

そして、

自分の弱さを認めた人が、人の弱さをも認められるようになるのです。

(相手の個性の幅を「受け入れる」ことができるようになるのです。)

 

「自分がルール」では、それは不可能です。

「自分を越えたルール」があり、

自分はできる時もできない時もあるのだ、と謙虚に認めることから始まるのです。

(それは、相手もできる時もあれば、できない時もあると「受け入れる」ことにつながります。)

 

イエス様を信じ、見えない創造主を信じる、と言うことは、

「自分を越えたルール」があることを受け入れることです。

そして、イエス様を信じると、

「私を造られた創造主は、私を愛しておられ、私の失敗を助けてくださる」、

そのことを体験できるのです。

 

創造主を知り、体験すると、

本当の自分を知ることができる(受け入れることができる)ようになります。

(そして、人も受け入れることができるようになります。)

 

それは、とても楽な生き方です。

「自分が正しく、神のようになれなければいけない」という考え(偶像)は、疲れます。

早く捨て去った方が良いのです。

 

自分の身を守るために(自己保身で)、間違った判断をしないために、

①自分が「いつも正しい」と思わない。

②自分を「いつも安全な場所」に置こうとしない。

③人の個性を「間違い」だと決めつけない。

 

そのためは、「自分の正しさ」を一旦捨て、

自分を越えた正しさ(創造主)を受け入れることが最善です。

(バランスが取れるようになります)

 

祝福をお祈りしています。

 

伝道者の書7章16節

「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。」

 

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その4 出来ていない人が、人に厳しくなる「自分が正しいと思いたい人」

f:id:jesuslovesmeus:20220413111326j:plain

○出来ていない人が、人に厳しくなる

このことに触れていきます。

 

コンプレックスという言葉があります。

心理学用語で、「感情の複合体」という意味です。

感情が無意識に絡みあって、自分でも良く分からない状態を指します。

 

自分の心がよく分かっていないと、

イライラしたり、過剰に感情的になったり、してしまうものです。

 

イライラしている時、紙にイライラの原因を書き出してみると、効果があります。

「自分はこれで、イライラしている」その原因が分かったなら、

対処ができるのです。

 

「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」ということわざがあります。

(怖いと思ってよくみると、枯れたススキで、大したことは無かったという意味)

 

感情のコンプレックス(ごちゃごちゃしたもの)も、

その正体が分かれば、「なーんだ」となるのです。

 

さて、本題に戻ります。

「できていない人が、人に厳しくなる心理」です。

 

先回、「自分が正しい人、良い人だと思いたい人」は、

「自分の闇」を直視できるかをない、ことを書きました。

そのため、演技をして「できているフリ」をするようになることを指摘しました。

「実際の感情」と「行動」が遊離しているので、疲れてしまうのです。

 

今回は、その続きです。

上記の心理状態が、まさに「コンプレックス状態」(ごちゃごちゃ状態)と言えます。

自分の怒りや葛藤と言った「闇の部分」が、「見えていない」のです。

 

そういう人の前に、「同じようなタイプ」の人が現れたら、どうなるでしょうか。

答えは、簡単です。

感情が「引き出される」のです。

 

そういう場合、

その人の心の中の、感情の「見ないようにしている部分」が、揺れます。

すると、イライラしてくるのです。

攻撃的になります。

(それは自己防衛からです。自然なことでもあるのです)

 

その人は、自分の感情を抑えるために、

悪いのは「すべて目の前の人間のせいだ」と決めつけようとします。

それをすることで、自分の負の感情を見なくて良くなるだけでなく、

カタルシス(精神的な浄化)が、瞬間的に起こります。

 

ですから、中途半端にできていない人が、「異常に人に厳しく」なるのです。

(全く出来ていない人は、そもそも発言しません。そして良く分かっている人は、細かいことはごちゃごちゃ言いません。ポイントだけを端的に語るのです)

 

笑い話ですが、

どこに行っても嫌な人がいるので、嫌な人の特徴を考えてみたら、「自分と同じ」だった。

どう思いますか。

 

自分の心を、正直に見ることが出来ず、(見たくない)

「自分を正しい、良い人だと思いたい」人は、

「同じタイプ」の人が現れると、大変です。

感情的にイラついて、攻撃的になるのです。

 

解決策は、自分を知ることです。

良い点、悪い点をごまかさず、正直に受け入れることです。

そのために、創造主を信じることは、非常に益となります。

創造主を信じると、創造主の視点で自分を見ることができるようになります。

鏡を見るように、自分の姿を知ることができるのです。

 

2コリント3:16-18

「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。

主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

 

真に自分を知り、受け入れることができた人は、

「悪感情の束縛」から解放されます。

イエス様を信じ、創造主に助けて頂けると、

心の中に奇跡が起こり、人は変えられるのです。

 

祝福をお祈りしています。

 

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