人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から

世界のベストセラー聖書の価値観から、生きるを考えます!(モノの見方が変わると、とても楽になります)

思い通りにならないと、自分を罰したくなります。どうしたら良いでしょうか。(中学生女子)

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「先日は、質問に答えてくださってありがとうございました。私のことを繊細と言ってくださってうれしかったです。相変わらず、周りの大人を見て悲しくなることはありますが、何とかやっています。今日は困っていることを質問したいと思います。上手くいかなかった時、思い通りにならなかった時、特に自分が失敗した時、自分を罰したくなります。殴ってやろうかと思います。そんな自分が怖くなります。こんな時、どうしたら良いでしょうか。よろしくお願いします🤲」(MK 中学女子)

 

Mさん。ご質問をありがとうございます。

さて、Mさん。少し、ご一緒に、ご自身の心を整理してみたいと思います。

 

質問をしますが、どんな時に、「思い通りにならない」と感じますか。

ゆっくりとMさんのお話が聞けるといいのですが、ここは文章での相談ですので、いくつか可能性を考えて書かせて頂きます。

 

では、しばらく一緒に考えていきましょう。

今回も、3つのポイントです。

①自分のものさしの自覚と、「嫌な気持ち」を味わうこと。

②健全に愚痴ること。

③自分で自分をさばくことの意味(理由)と、その解決方法。

 

①自分のものさしの自覚と、「嫌な気持ち」を味わうこと。

人は皆「こうあるべき」という「ものさし(基準)」を持っています。

そして、その「基準」から外れると、

つまり「思い通りにならない」と、イライラします。

 

先日、別の質問で説明した「うんていの棒」のようなものです。

あるべきところに「棒(支え)」がないと、ストレスを感じるのです。

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学校に行く前に、髪の毛が上手くセットできなかった時、

朝ごはんが時間通りにできていなかった時、

「こうあるべき」だと思って、それが思い通りでない時があります。

そんな時にストレスを感じてしまいます。

 

特に「当たり前」「当然こうなるはず」と思っていたものが、期待通りいかないと

爆発しそうになることがあります。

(「うんていの棒」が抜けていたため、落ちそうになるような苛立ちです)

 

また感情は、「水の中に入れた風船」のようなものでもあります。

水の中に沈めて、隠していたようでも、必ず「出てくる」のです。

たくさん隠した分、だんだん反動が大きくなり、出てきた時には、「制御(コントロール)」できなくなる場合があります。

多分、Mさんが、「自分を殴りたくなる時」は、こういう状況だと思うのです。

 

つまり、普通の状態では、Mさんは、「爆発するような人」ではないと思います。

しかし、イライラが募って、余裕がなくなっている時に、

「さらなるイライラ」がやってくると、「反射的」に自分を殴りたくなるような気持(衝動)になるのだと思います。

 

今回、最初に注目したいことは、

今、自分は「何に」イライラしているのか、と考える(自覚する)ことです。

実はイライラで一番やっかいなのは、「理由が分からないイライラ」です。

理由が分からないと、対策の打ちようがありません。

 

しかし、理由が分からなくても、必ず理由はあるのです。

人間は、実は、自分自身であっても、「見ないようにしている領域」があります。(否認)

自分は「こんなことでイライラするはずがない」、「こんなふうに考えるはずがない」

・・・そんな感じです。

特にまじめで正義感の強い人ほど、自分の中にある「負の感情」に気がつきにくい傾向があります。

 

それは、アクセルとブレーキを同時に踏んでいるような状態です。

「イライラのアクセル」と「自制のブレーキ」です。

表面では「停止している」ように見えても、実は何度も「アクセル」と「ブレーキ」を同時に踏んでいて、背後ではものすごいエネルギーが流れています。

それが続くと、(アクセルもブレーキも踏み続けるには大量のエネルギーが必要ですから)莫大なエネルギーを浪費します。そして(表見は何も起こっていないようでも)、心は「疲れ果ててしまう」のです。

 

ですから、イライラの理由が分かっている場合は、良いのですが、

分かっていない場合(あいまいな場合)

自分は「どんな基準」で考え

「何に」イライラしているのか、を確認することが大切です。

自分の感情を受けとめる作業です。

(そうでないと、次に考えたい、「健全に愚痴ること」に入ることができません)

 

デジタル断食、という言葉があります。

スマホやゲームからしばらくの間、離れて「自分自身を見つめる」時間を持つことです。

現代は忙しい時代です。絶えず情報にされされています。

自分の感情を「そのまま受け止める」作業をする場合、

少し静かな場所で、ゆっくりと自分自身を振り返ってみたら宜しいかと思います。

 

思い出してください。

Mさんがイライラした時は、「どんな時」ですか。

(また「どんな基準」で「何に」イライラしましたか)

 

例えば、時間に遅れそうで、イライラした状況があったとします。

多分Mさんは、「時間に遅れてはいけない」という「基準」で、

「遅れそうになる自分」に、ダメだという「判定(ジャッチ)」をしていることでしょう。

 

人によって、「到着時間の感覚(基準)」は「違い」ます。

「時間ちょうど」という人もいれば、「10分前」には準備したいという人もいるでしょう。「5分ぐらい遅れた方」が親切だ、と考える人もいます。「全く考えない」ようなあいまいな人もいます。

 

自分は「どんな基準」で考え、「どこまでは許容できるのか」を知っていることは重要です。

自分が「10分前には準備したい」と考えている人だ、ということであれば、

自分は、こういう人間だから、いらいらしているのだ、と自分自身を冷静に把握できるのです。

そうすると、パニックにならず、遅れそうな先方に、連絡をする等の対策を打つことができます。

 

また、同じ基準で、相手が時間に遅れる時も「イライラ」するでしょう。

しかし自分の基準(10分前)と相手の基準(5分後)とは違うことが多いのです

 

相手が時間に遅れ「平気な顔をしている」時、当然イライラするはずです。

しかし「自分の基準に違反するから」「腹が立つ」のだ、と自覚することができると楽です。

自覚した後で、「相手の基準」は、自分とは違うのだから、「仕方がない」とあきらめることができるのです。(受け入れることができるのです)

 

「自分はどんな基準」を持っており、

「何に」イライラしているのか。

それを自覚することは、心を平常にコントロールする上でも、非常に大切です。

 

一度、ゆっくりした時間を持てた時、「自分の基準」と「何にイライラしたのか」、この二つを考えてみて下さい。

 

その上で次のポイントに移ります。

②健全に愚痴ること。

Mさん。私はMさんの質問を読んでいて、非常に「高い良心基準」を持っている方だと思いました。

繊細で細やかで、そして非常に「高いところを目指している」方だと思うのです。

それは個性として、とても素晴らしい考え方です。

 

しかし自分にその「高い基準」を当てはめると、「身動きが取れなくなる」可能性があります。

中高生の年齢は、一般に「非常に理想が高くなる時代」です。

「こうあるべき」ということを考える時代です。

 

しかし、「理性」と「感情」は違います。

理性でこうあるべきだ、と知っていても「感情」は全く反対に向かうこともあるのです。(人間ですから、理想論では片付けられません)

 

Mさんのように「高い理想」を持っている人は、

自分の中の「負の感情」を許せないかもしれません。

つまり、「自分の愚痴が言えない」ということです。

でも人間ですから、どこかで「感情」を吐き出さなけば、心のバランスが保てないのです。

 

ですから、「健全に愚痴をこぼすこと」は大事です。

Mさん自身の「感情に焦点」を当てましょう。

「イヤなことはイヤ」と受け止めましょう。「腹が立つことは、腹が立つ」と認めましょう。

その上で、「愚痴を聞いてくれる人」を見つけるのです。

友だちでも、家族でも、あなたのことを大切に思ってくれている人であれば、だれでも構いません。

 

先ほど、感情は「水の中に入れた風船」のようなものだ、と書きました。

水の中に沈めても必ず「出てくる」と書きました。

たくさん隠してしまうと、反発が大きくなり、出てきた時には、「制御(コントロール)」できなくなる場合があります。

 

ですから、「風船が大きくなる前」に、できるだけ「小さく」出す(愚痴る)ことです。

「信頼できる人」に何度も「健全に愚痴る」のです。

 

私もありがたいことに、「心の内」を話せる方が数人います。

時々、問題があると、電話をかけて話を聞いてもらいます。

(一人でもこの世で、心の深い部分を知って応援してくれる方がいると、とても支えられるものです)

 

しかし、ここで「人に話す限界」も知っておかなければなりません。

話したい時に、その場で「信頼できる人」が電話に出てくれない時があります。(相手の都合が悪い場合もあるのです)

そんな時にも、ストレスは襲ってきます。

 

また人間は、感情や理性の限界があります。

カウンセラーでも、限界が当然あります。

(私にも限界があります)

ご両親にも、ご家族にも、お友だちにも「限界」があるのです。

ですから、相手が「自分の期待した」ように受け止めてくれないこともあるのです。

 

また人に「話さない方が良い」話題もあります。

 

私は、人に話せない状況の時、

まず「イエス様や天の父なる神様」に「お祈り」をします。

(実は、人に話す前から、イエス様にお祈りを始めています)

そして「心の内」を「全部お話し」します。

「祈り切ること」ができると、心が軽くなって人に「やさしく」なれるのです。

(祈りについては、別の個所でお話ししたいと思います)

 

Mさん。

できるだけ、「あなたの心」を信頼できる方に、

「健全に愚痴って」下さい。

「自分の負の心」を正直に受け止め、それを聞いて貰って下さい。

そうすれば、暴発することはとても少なくなります。

(苦しみも正直に話すことができれば、半分に減っていきます)

 

最後のポイントです。

③自分で自分をさばくことの意味(理由)と、その解決方法。

 

「リストカット」をしてしまう人がいます。

その人は、身体を傷つけると「ホッとする」と言うのです。

(身体は大切ですから、傷つけないようにと願っていますが、、、)

その理由は、はっきりとしています。

「自分で自分を罰する」と「ホッとする」のです。

 

【多くの人間】は罪を犯したら「罰(バツ)を受けるべき」と考えています。

酷いことをすれば、「報いがある」(罰がある)考えるのです。

(聖書もそのことを認めています)

 

Mさんが失敗した時に「自分で自分を殴りたくなる」と書いてありました。

多分Mさんは、無意識でも、こんなことをする自分は「殴られるべき」である、そして「殴ってやりたい」と心の奥で感じてしまうのではないでしょうか。

(自分を罰するタイプと、他人を罰するタイプがあるようです)

 

では、どのようにしたら「罰したい」という衝動を「昇華させる(解決する)」ことができるのでしょうか。

 

 

実はこれは、キリスト教の根本のテーマなのです。

それは「罪の赦し」です。

イエス様が「十字架」にかかられ、私たち人間の「罪の罰」を受け、その「身代金」を支払って下さったので、私たちは「自分で自分を裁く」必要がなくなったというのです。

 

自動車を運転している人は、法令違反を警察に指摘されたら、反則金を払わなければなりません。(例えば、普通車で一時不停止違反は7000円の反則金を支払うことになります。)

もし仮にそれを無視していた場合、些細な違反でも刑事裁判にかけられ、3か月以下の懲役または5万円以下の罰金を命じられます。

 

つまり、「罪」を犯したら、「反則金」を支払わないと拘束されてしまうのです。(逃げられません)

この「反則金」を、他の人が支払って下さったとしたらどうでしょうか。

当然、「他の人」が支払っても、「あなたは自由」になります。

 

イエス様の「十字架の罪のゆるし」を知り、信じた人は、

自分で自分を裁きたくなる時が来ても、

自分で裁く「必要」がなくなります。

「イエス様のいのちの代価」によって、自由になれるのです。

 

初めて、この「十字架のこと」をお聞きした人にとっては、十分には分からないかもしれません。しかし私たち人間には、「罪の問題」や「裁きの問題」を解決できる方法があるのです。(そのことだけでも、覚えておいて下さい)

 

実は、あなたの「罪の代価」の総額は、「あなたの力」で支払うことはできません。

私たちは、日々「的はずれ(罪)」を犯してしまいますから、その総額は、

「一時不停止違反」程度ではありません。

 

聖書のある個所に、人間の「罪の代価の総額」は(あくまで例えですが)1万タラント(約6000億円:国家の予算程度のお金)と表現されています。

厳密に考えれば、あなたは「犯したすべての罪の報い」によって「莫大な罰金」を請求されているのです。そして、必ず支払わなければならないのです。

しかしこんなことは不可能です。

 

【私】は、イエス様の十字架を「心から感謝」しています。

【私】の毎日の生活で、自分を罰したくなるようなことが起こっても、

(「莫大な額」を既に支払って下さっている「イエス様」のお陰で)

「わたしは赦されている」「わたしの罪の代価(身代金)は支払われている」

と言い切ることができるのです。

そして「自分」を「裁かなくても良い」とも言い切ることができるのです。

(これが【私】が失敗を犯しても、自分自身を受け入れて生きられる、原動力です)

 

心の奥を正直に見ていくならば、

「心の闇」の問題は、避けることができません。

ですから、保険として「イエス様の十字架の赦し」を握っていることは、

「自分の心」を「直視」するために、必要なことであると、【私】は考えるのです。

 

「思い通りにならないと自分を罰したくなる」と、

「その解決の方法を教えて欲しい」と、

Mさんは、質問してくださいました。

【私】の体験を参考にしてみて下さい。

 

Mさんには、

次に大きなストレスが来る前に、事前の準備をすることをお勧めします。

それは、

①自分の心を自覚し、受け止めること。

②心のストレスを、信頼できる人に(問題が小さいうちに)「健全に愚痴る」こと。

(神様へのお祈りも、チャレンジしてみて下さい・・・)

 

そのことを通じて、心を穏やかに保つことができると信じます。

 

また、自分を罰したくなった時には、

③罰する気持ちは自然なことである。しかしもう「罰さなくても良い」という解決方法が存在している。

 

ということを「思い出して」頂きたいのです。

 

 

(解決方法があると、考えるだけでも「気が楽」になれると信じています)

 

Mさんが「裁きの心」から「自由」になり、

よりMさんらしい、明るく素敵な人生を送ることができると信じ、

祈っています。

 

またご質問があれば、お知らせください。

祝福をお祈りしています。

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