「あることをキッカケに、人を裁いてしまいました。許すことができません。理性では抑えようとしているのですが、見ないようにしよう、紛らそうと思うほど、心が悶々としてきます。苦しいです。どうしたら良いでしょうか。」32歳女性
苦しいですよね。人を裁く思いを心に持つことは、しんどいことです。
最初にお話したいことは、あなたはとても「良心的な方」だと思います。
ある人たちは、「裁くことに快感」を持ちます。
それは自分を高い位置に置いて、人を見下し、自分を正当化しているためです。
そのような人は、「自分の裁く思い」を間違っていると「決して考え」ません。
「歪んだ感情」と言わなければなりません。
しかし、質問者さんは、そのようには、考えておられません。
「裁くこと」に苦しんでおられます。
それは、とても純粋な心であり、誠実な姿勢です。
私のブログを読まれている方(質問者さん)は、私の立場を知っておられると思います。
聖書は、こう記しています。
マタイ7:1「 さばいてはいけません。さばかれないためです。
7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」
他人を「裁く」場合、その裁きと「同じものさし」で、自分で自分を裁きます。(自然なことです)
「コイツは価値がない」と思えば、自分が同じ状況に落ちた場合、「自分も価値がない」と宣言することになります。
歳をとって能力が落ちた人を「価値がない」と見下す人は、自分の能力が落ちた(と感じた)時、自分自身を「同じように裁く」のです。そうすると落ち込んだり、場合によって鬱になったりするのです。
人は、そうならないために、「二つのものさし」を持ちます。(自己防衛です)
人は裁いても、自分はOKというものさしです。
しかしこれは厳密には「不正」です。そして「罪」なのです。
人を見下す理屈も、同じです。自分は「良く」人は「悪い」のです。
そのものさしが「二つ」あることに、気付こうとしないのです。(否認)
二つの物差しは、「不正」です。私たち人間は、この「罪」を背負って生きているのです。
長々と説明をしてしまいました。
「人を裁く思い」の解決のため、
今回は、二つのことを書きたいと思います。
①裁きによって、自分の隠れた思いが明らかになること。
②裁きによって、自分の持つ「小さなものさし(価値観)」に気付き、心をもっと大きくするチャンスを得るということ。
この二つによって、質問者さんの心が整理され、ご自分の心を受け止め易くなると信じます。(裁きの心の「赦し」と「きよめ」については、別の機会に触れる予定です)
①裁きによって、自分の隠れた思いが明らかになること。
「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」ということわざがあります。
憎しみという感情は、理性を混乱させます。心の中がぐちゃぐちゃになり、正しい判断ができなくなります。
上記のことわざは、人は感情的に憎むと、関わるすべてが憎くなることを、言い当てています。(このような対応は、問題を起こします)
ですから、「自分の心のものさし(価値観)」や「感情」を冷静に分析しなければなりません。見たくないものであっても「事実」ならば、「受け止める心」を持つ必要があります。
しかし「本当の自分を知る」と言う事は、実は恐ろしいことです。
それは、「自分は善人だ」と言う認識を持つ人にとって、「自分は善人という偶像」を打ち砕くことになるからです。
(よく聞いて下さい)
私がお話をしていますと、ある話題になると、明らかに「心ここにあらず」という感じになる方がいます。人によっては「眠くなる」方がいます。しかしどちらの方にも言えることは、否認(聞きたくないことを聞かない自己防衛)だと言うことです。
(自分のことは気がつきにくいのです)
もし、自分の心を見ようとせず、処理できていない感情で、物事に当たる場合、
人を通じて「自分が抑えこんでる感情」が引き出されます。
いわゆる「どこに行っても嫌な人がいる」という現象です。
神様が、あなたの課題を、気づかせようとしていることではありますが、
人間的な視点で見れば、自分の中の、見えてないコンプレックス(処理できていない感情)が、嫌な人を通じて「引き出される」のです。
「それを見たくない」という心が動く時、ますます心の中が、悶々とします。
ダビデという人物がいます。(旧約聖書の人物です)
彼は、苦難の後、王様になってしばらくたった時、夫のある女性と関係を持ってしまいました。
彼はその罪を正当化しました。そしてその後、王であるという権威を使って、夫を戦死させたのです。
彼は、「自分の罪深さ」に気がついていませんでした。(ものさしが二つあったのです)
しかしここに預言者が遣わされます。そしてたとえ話をしました。
それは罪を犯した「別の男の話」でした。
それを聞いてダビデは激怒します。「そんな奴は死刑だ」と言います。
すると預言者は「その罪人はあなたです」と宣告したのです。
このように、ダビデは「人の罪」によって「自分の罪」に気付かされたのです。
(人の罪は分かるが、自分の罪は気づきにくいのです)
しかしダビデは、「自分の罪」に気がついた時、「深く悔い改め」、赦しと回復の道を歩みました。
他人を許せない思いがあったら、何が許せないのかと考えましょう。(他人のことは冷静に分析できます)そこにあなたの価値観があります。
その価値観で、自分自身を計ってみるのです。
出来ているところ、出来ていないところ・・・あなたは頑張ってその価値観を守っていたかもしれません。しかしあなたも状況が変われば、(究極まで追い詰められたならば)、「同じように罪を犯す可能性」があるのです。(または既に犯しているのです)
そこに目を留めた時、心の取り扱いが始まります。
(心の取り扱いに関しては、別の場所で触れていきます)
心の取り扱いを受けると、あなたは頑張ってではなく、恵みによって自然にそのことができるようになるのです。
その取り扱いを受けたしるしは、「許しのこころ」です。
実はこれがキリスト教の「一番の根幹」です。
(自分が赦されたから、人を許すことができるという体験です)
その体験をした人は、心が穏やかに変えられていきます。
②裁きによって、自分の持つ「小さなものさし(価値観)」に気付き、心をもっと大きくするチャンスを得るということ。
嫌な気持ちは、自分の心の中の「ものさし」に反することによって起こります。
そのものさしが、どんなものかを知ることができたならば、自分のイライラの原因がはっきりとします。
「人を裁く原因」を考える中で、「自分のものさし」が見えてきます。
そして「そのものさし」は、意外と小さく短いのです。
自分の価値観がはっきりとした時が、実はスタートラインです。
また、自分を客観的に見るためには 、「もっと大きく長いものさし」を知る必要があります。
これはイエス様の言葉です。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」
「自分のものさし」が、小さなもので「実は大したものではないこと」に気がつくと、
そのものさしで「人を切りまくること」は少なくなります。
「自分も大したものではない(完全でない)」「人だって大したものではない」所詮みんな人間なのだ。・・・そう思えるのです。
Ⅰヨハネ(新約聖書)
3:20 たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。
3:21 愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、3:22 また求めるものは何でも神からいただくことができます。
「自分の小ささ」を知り、「大きなもの(存在)を見つめながら」進む時、裁きの思いが小さくなっていることに気がつくでしょう。(そして、少しづつ「愛の心」が大きくなっていくのです・・・見るものに近づくのです)
裁きの思いは、アラート(警報)です。
1自分の中によく似た罪が隠されていること。
2自分のものさし(価値観)は意外と小さいもので、振りかざす価値はないこと。
思い巡らしてみて下さい。
きっと裁きの思いが、小さくなっていることに気がつくはずです。
祝福をお祈りしています。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
もし気に入って頂けたら、たくさんの方に読んで頂くために、クリックの御協力をして頂けると幸いです。(一日一回カウントされます)
もう一つ別のブログランキングです。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓