人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から

世界のベストセラー聖書の価値観から、生きるを考えます!(モノの見方が変わると、とても楽になります)

【コラム】悪を「悪であると」、心の底から認識すること。

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今回は、悪について考えていきます。

 

先ず前提として、「悪を知識で理解する」ことと、「悪を避けて生活する」ことは、

まったく違います。

人は、「知って」いても、「行うかどうか」は別次元なのです。

 

小学生の頃、友だちと遊んでいた時、

その家にいた犬に、持っていたパンをあげようとしたことがありました。

しかしその犬は「食べません」でした。

友だちは「この犬は他人からの食べ物は食べないように訓練しているから、食べないよ」と言いました。(「食べたそうにしながらも、食べなかった悔しそうな顔」を今でも覚えています。)

 

その時は「ふーん」で終わりましたが、

大人になった今、想像すると、

その犬は、「小さい時に、他人から不味いもの」を「訓練として食べさせられ」、

「他人からの食べ物」は、「不味い」と叩き込まれたのでしょう。

ですから、食べないことを「知っていた」というレベルを越えて「生活化していた」のです。

 

悪についても同じです。

「知っていること」と「生活化」は別次元です。

意外と二つが、バラバラの場合があります。

(本来つながっているはずのベルトが、掛かっていない場合があるのです)

 

以前、あるキリスト教牧師のセミナーに参加しました。

その講師のお話には、ある特徴がありました。

それは「徹底的な悪(罪)の指摘」でした。

 

「罪の指摘」を長い時間、聞いている内に、眠くなってきました。

罪の指摘になるたびに、眠気が襲うようになったのです。

おかしいと思いました。こんなに「眠気がくるはずがない」、と。

何度か眠気に襲われながら、急に悟りました。

この「心の反発」(眠気の原因)こそが、「私の中の罪」なのだ、と。

私の心が罪の指摘に反発して、否認し、逃避しようと、眠気として反応したのだ、と。

 

コペルニクス的な発見でした。

文字通り「目が覚める」発見でした。(自分の「深い部分の罪」に気がついた瞬間でした)

 

 

そのキリスト教のセミナーでは、最後にお祈りの時間を持ちます。

講師は「涙ながら」にお祈りをしていました。

私も心を合わせて、「涙ながら」に祈りました。

 

祈った後、不思議なように「心が軽く」なりました。

そしてそれ以降、今まで以上に「自分の心の反発心」に敏感に気がつくようになったのです。

 

今まで「当たり前の反応」と思っていたことが、

「心の反発心」である、

すなわち「不健全な心の反応」・・・であることに目が覚めたのです。

 

イエス様は、当時の宗教家であったパリサイ人に、

徹底的な「罪の指摘」をされました。

強烈な指摘でした。


ルカ(新約聖書)
11:43 わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。
11:44 わざわいだ。おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」
11:45 すると、ある律法の専門家が、答えて言った。「先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです。」
11:46 しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。

 

これらの言葉を聞き、多くの「プライド高い宗教家たち」は反発しましたが、

「イエス様の言葉」によって、

「自分の罪」に気がついた「良心的な者たち」は、

後にクリスチャンとなっていったのです。

 

「自分が正しい」と思っている人(思い込んでいる人)は、

「間違っている」という指摘を受け入れることができません。

 

しかし「罪の指摘」を聞き、正直に自分を鑑み、

その反発心が、「罪の反応である」ことに気がついた人たちは、

「人生が変えられる」のです。

 

「リンゴ」を見ていた時、英語で「Apple(アップル)」と言われて、

リンゴをアップルと認識するようなものです。

 

「罪の感情」は、

言われないと気がつかないのです。(定義づけできないのです)

 

人間とは不思議なものです。

「自分の心の中」に「不健康な思い」があることに、

心の底から本気で気がつくと、

「見える世界」が変わってきます。

 

クリスチャンである私は、

私の罪を「イエス様が赦して下さっている」ことを知っています。

 

その「罪の自覚」が大きい分、「赦しの素晴らしさ」と、

「罪からの解放の大きさ」が、実感できるのです。

 

それは「頭でだけ」罪を知っていた時とは、

比べ物にならない、「大きな喜び」なのです。

 

・・・あなたは、自分の心の中に「罪の自覚」を感じることがありますか?

・・・それは「知識ですか」。

・・・それとも「感情を伴う、実感」ですか。

 

心の中の悪を「深く実感」し、

悔い改める者は、

その分の「解放の素晴らしさ」を体験できるのです。

 

読んでくださった「あなた」の上に、

豊かな祝福がありますように、お祈りします。

 

 

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