人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から

世界のベストセラー聖書の価値観から、生きるを考えます!(モノの見方が変わると、とても楽になります)

罪の悔い改めは、「感謝と賛美」に至る。

f:id:jesuslovesmeus:20210705211606j:plain
クリスチャンになると、素晴らしい「心の変化」が起きます。

今回は、心が「感謝と賛美」に至るプロセスを追ってみたいと考えます。

 

先日ある方と話している中で、「感謝して生きることの恵み」を聞きました。

職場で、愚痴や批判を聞く時に、以前は巻き込まれて、同じように批判をしていたそうです。

後で無駄な時間を過ごしたと、疲れて虚しくなっていたそうですが、

「感謝すること」を意識していると、話は聞きつつも、同調しなくなったそうです。

無駄なエネルギーを使わなくなり、仕事上の人間関係が随分楽になったそうです。

「感謝は主の命令なのですよね。」とその方は言われていました。

 

人間の心は、相当に頑固です。

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」 (エレミヤ17:9)

人間には、自己防衛本能がありますから、「自分は正しい」と思いがちです。

そのため、「指摘される欠点」を認めようとしません。

「自分への批判」は、すべて「攻撃」と考えて、瞬間的にはねのけようとします。

そして「説明」と言う名の「自己弁明」を語り出すのです。(いわゆる自己正当化です。)

 

しかし「自分は正しい」と思い込んでいる間は、「心の変化」はなかなか起こらないのです。

心の変化が起こるためには、どうしたら良いでしょうか。

それには「道を間違えた時」のように、

「間違えた」と気がつくことです。

そして「正しい方向」に進み始める必要があります。

それが「自分の直感や気分」と違っていても、「正しい方向」を選ばなければなりません。

(その結果、目的地に近づけるのです。)

 

これが「悔い改め」のプロセスです。

「悔いている」だけで、「正しい方向」に向かっていないならば、「悔い改め」ではありません。

「悔いている」だけならば、自己憐憫です。

もっとはっきり言えば、基準が分かっていません。「基準が自分」なのです。

心のどこかで「自分が正しい」と思っているため、

方向転換できないのです。

 

自分が間違ったことに気がつくために、「地図」が必要です。

地図と現在位置さえ分かれば、「行くべき道」は明らかになります。

自分の気分が乗らなくても、「目的地」に向かうためには、「方向転換」しなければなリません。

 

この地図が、聖書の神様の言葉であり、

「間違った」と言う気づきが、「罪の自覚」なのです。

それらがあって初めて、「悔い改め」(方向転換)が起こります。

 

道を間違えた時、一番厄介なのは、「自分が正しいかもしれない」と中途半端に思っている人です。

その人は、道を戻ることが最短距離だと分かっていても、このまま行けば、どこかで道がつながっているかもしれないと、判断を誤って、ズルズルと問題を大きくさせます。

そして解決の時間を遅らせるのです。

 

「自分は正しくない」「自分は間違っている」

この感覚は重要です。

その実感によって、「正しいゴール」に向かおうと思えるからです。

 

どうして聖書は「罪を指摘する」のでしょうか。

「見たくない恥部や闇」を、明るみに出すのでしょうか。

「プライドを傷つける」ことを平気で指摘するのでしょうか。

 

それは、「本気で方向転換をする大切さ」を伝えたいためです。

「罪の報酬は死である」と言う、罪の恐ろしさを伝え、

自分の中に「死ぬべき罪」があることを、自覚させたいが為なのです。

 

「(罪)ここにいるとまずい」と本気で思わなければ、そこから離れようとは思いません。

「中途半端に自分は正しい」と思っていては離れられない、のです。

 

では、罪を自覚して、「ここにいてはいけない」、と実感したら、

次はどうしたら良いのでしょうか。

 

それは「目的地を知る」ことです。

自分の居場所が分かり、目的地が分かれば、「方向転換」して、進むことができます。

 

聖書を読むと「人生の目的地」は、「神の栄光のため」と言うはっきりとした方向性があります。

造られた人間は、造ってくれた存在の目的を意識する必要があるのです。

(「神の栄光のため」といっても抽象的なので、具体的には先回取り上げたソロモン王の言葉、使徒パウロの言葉を取り上げます。)

 

ソロモン王の言葉

伝道者3:12-13「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。

また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。」

 

使徒パウロの言葉

1テサロニケ5:16-18「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

 

創造主である神様は、聖書の記述(みことば)を通じて、

「いつも喜ぶこと」を命じておられるのです。(これが基本的な考え方です。)

ですから、この命令を受け止めている人は、

無意識でネガティブな考えを、退けることができます。(冒頭の知人のようにです。)

 

人間の心は、複雑です。様々なものが混ざっています。

ですから、人間的に、色々な策を練っても難しいので、

クリスチャンは、あれこれ考えずに、単純に「みことばの命令」 に従うのです。

 

「自分は罪びと」ですから、神の命令を聞いたならば、

自分の執着から手を離して、みことばに同意するのです。

 

すると、不思議なことが起きます。

みことばの方向に一歩近づくのです。

すると古いこだわりから、少し解放されるのです。

まるで、地図を見て、ゴールに一歩近づいたような感覚です。

 

まったく知らない道を通る場合、

一番確実な方法は、道を知っている人に、コーチ役になってもらって、

ナビのように案内してもらうことです。

 

このコーチが、みことばです。神様の道案内なのです。

 

聖書の言葉を「神様の私へのご命令」と受け止め、

アーメンと答える時に、(アーメンとは、然りその通りと言う意味)

「その言葉の通り」のことが、我が身に起きるのです。

 

ゴールに近づいた時、自分の前いたところが酷ければ酷いほど、

感謝が湧き上がります。

 

使徒パウロは、自分のことを「罪びとのかしら」と表現しました。

彼は教会を迫害し、クリスチャンを苦しめた時の、「自分の中の闇」を自覚していました。

だからこそ、赦されたこと、闇から出ることができた恵みを喜び、「心からの感謝」を捧げたのです。

 

「罪を自覚する」こと。

そこから立ち返った人は、「感謝が湧き上がる」こと。

特に、以前の自分が酷かったと自覚している人ほど、感謝の心が湧き上がるのす。

(そして「感謝」が「主の願い、ご命令」であることも悟るのです。)

 

イエス様の言葉です。

 ルカ7:47-48

「だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけいに愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」

そして女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。

 

「罪を自覚」し、「赦された」者は、

主を「多く愛し」、「多く感謝を捧げる」ようになることを、今回は取り上げました。

主の豊かな祝福がありますように。

 

にほんブログ村 その他生活ブログへ

にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

もし気に入って頂けたら、たくさんの方に読んで頂くために、クリックの御協力をして頂けると幸いです。(一日一回カウントされます)

人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から - にほんブログ村

読者登録をして下されば、新しい記事を自動的に知らせてもらえます。(無料ですが、はてなブログの登録が必要です。)

 

もう一つ別のブログランキングです。(こちらもクリックして頂くと助かります。一日一回カウントされます)

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓


人気ブログランキング

 

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑

こちらをクリックすると記事一覧を見られます。