今回は、「罪責感」からの解放を、取り扱います。
「悪いことをしてしまったけど謝りづらい」
「悪気がなくしてしまったことを、許して欲しい」
生きていれば、失敗を避けることはできません。
意図せずしたことが、人を傷つけてしまったり、状況を悪化させ、後悔することは日常茶飯事です。
「自分が正しい」と虚勢を張っても、「アイツのせいだ」と責任転嫁をしても、
心の奥には、すっきりしない「モヤモヤ感」が残ります。
それが「罪責感」です。
心を落ち着けて、冷静に考えれば、「誰が悪いか」は明らかです。
「自分は悪くない」と言い続けても、「100パーセント悪くない」とは言い切れないことがほとんどです。
ですから人は、「心の奥」で「罪責感」を抱え、誰かに「許して欲しい」と願っているのです。
「ゆるし」は、キリスト教の「最も中心的な教え」です。
神様のゆるしを「赦し」、人間のゆるしを「許し」と漢字で分けて表現します。(一般的に教会で)
神様に「赦されて」いるから、自分を「許し」傷つけた人を「許す」ことができるのです。
(このことは、後で触れます。)
ご存知のことと思いますが、人間は、なかなか人を「許せ」ません。
聖書の中にイエス様が「赦し」についてのたとえ話を語っています。
それは、王様に借金を一万タラント(現在の価値で約6000億円)赦された僕が、
百デナリ(約100万円)の、友人の借金を許せなかった、話です。
実は、「人を許せる」ことは、「自分を許せる」ことと比例します。
自分を「80%程度許せる」なら、他人を「かなり許せる」のです。
自分を「10%程度しか許せない人」は、他人は「ほぼ絶対許せません」
そういう人は、自分の心の防衛反応で「自分は絶対に正しい」と主張しないと収まらないのです。
「自己正当化」を強く主張する人は、自分を許せない・・・つまり「罪責感から解放されていない」場合が多いのです。
ちなみに、クリスチャンが全員これができているかと言うと、実は「そうでもない」のです。
「知識」で知っていても、「赦し」を「自分のものとして受け止めていない」場合には、
自分を「平気で裁きます」し、人の落ち度は「徹底的に攻撃」するものです。
攻撃しないと心が収まらないのです。(「意識していない」場合が多いですし、「自分は許せている」気持ちになっている場合は、更に罪の根が深いのです。)
人を過剰に攻撃してしまう。
自分を正当化することが多い。(少し批判されるだけで、ムキになってしまう。)
もしそういう傾向があるとしたら、その人の「人生の課題」は、「罪責感からの解放」かもしれません。(多分そうです。)
罪責感とは、「自分で自分を許せない」感情です。
無意識で「自分を裁き続ける心」です。
では、どうしたら「自分への裁き」を止められるのでしょうか。
「罪責感からの解放」は、どのようにしたら良いのでしょうか。
それは、「ゆるしを体験する」ことです。
誰かから「ゆるされる」ことです。
それも「自分よりも権威を持った存在」から「ゆるされる」体験です。
第一ヨハネ3:20
「たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。」
それが神様からならば「赦し」となり、
両親や尊敬する存在からなら「許し」となります。
(赦しに近い感情のケースもあるでしょう。)
とにかく、自分は「許せない」が(この自覚も大事です。)、
権威ある存在は「赦してくれた」という体験が必要です。
(オセロがクロからシロに変わるような変化です。)
その時に初めて、「自分は赦された」、だから「自分を許す」という選択ができるのです。
(その後、「自分を傷つけた者を許す」という、選択が少しずつできるようになるのです。)
イエス様の地上での御使命は、「十字架の贖罪」でした。
創造主である(罪のないお方)イエス様が、
「全人類の罪」をすべて背負って、
死んで下さった(罰を受けて下さった)ことにより、
人類の罪(私の罪)が、赦されたのです。(これを「信仰」で受け止めると、「自分のもの」となります。)
悪魔は、「人間の罪」を永遠に告訴し続けています。
しかし、「イエス様の罪の赦し」を受け入れた者には、
攻撃できなくなるのです。
しかしそれでも悪魔は、「罪責感」を突いてきます。
その度に、「赦し」を受け入れている者たちは、(赦しを信じるクリスチャンは、)
「私は赦されている」と、
「感謝の告白」をし続けることができるのです。(罪責感を撃退できるのです。)
「赦す」と「宣告し続けて下さる存在」、がいることは「大きな感謝」なのです。
最高裁判所で、「無罪」と宣告されたなら、「無罪」です。
誰も、罪を指摘できなくなるのです。
ですから「罪の赦し」を体験した者は、
罪責感を見つける度に、
「赦されていることを感謝します」と告白できるのです。
新約聖書の代表的なクリスチャン、使徒パウロは、
自分は「罪びとの頭」だと表現しています。
しかし「キリストの愛に囲まれている」とも告白しているのです。
つまり「罪や罪責感」を自覚する度に、「赦されている、愛されている」ことが分かると、
「感謝」しか出てこないのです。
これが今回取り上げた「いつも感謝できる」理由です。
「いつも感謝する」ためには、
「罪責感」に対処する「武器」が必要です。
それが「イエス様」であり、「イエス様の犠牲、十字架」なのです。
「この武器」を活用したいと思いませんか?
ぜひ、今回取り上げた「罪責感からの解放」をご体験下さい。
祝福をお祈りしています。
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