今回は、「死後の備え」 について、考えてみます。
先日ある番組を見ていましたら、私の知っている、博識でいつも優れたコメントされる方が、「死後の世界のことは証明できないので、考えない。」と言っていました。
司会者が、「私もそう思っていたが、多くの先輩方が死の直前に、死後のことを考えている姿を見て、自分はどうなるのだろうと思っている」と応じると、
彼は「若い時には何度か考えたが、考えても証明できないことは、時間の無駄だから、考えても仕方がない。」と言い切っておられました。
私は聖書を読み、そこに書かれている「死後の世界」を信じる立場なので、そのやりとりを「複雑な気持」で見ていました。
確かにこのことは、いわゆる「科学的」には証明できないのかもしれません。
「近似死体験」のレポートや、ドクターの証言「患者さんが死ぬ直前に『お迎え』が来たことで、死を安らかな気持ちで受け入れた様子」などは、「科学的でない」と一蹴できるのかもしれません。
しかし、それが「死後の世界がない」という証明にはならない筈です。
いくら否定しても「もしかすると、死後の世界はあるかもしれない」という思いを、完全に消し去ることはできないのです。
(重ねて書きますが、私は聖書から、死後の世界の天国と地獄、霊の不滅を信じている立場です。その立場の人間が書いている、と思って読んで下さい。説得されないように(笑)、気楽な気持ち?で読んで下されば、と思います。)
それでは、しばらくお付き合い下さい。
最初に、可能性の観点で考えます。
「死後の世界が、ある」と考える生き方と、「ない」と考える生き方、リスク回避の観点でどちらがより合理的でしょうか。
「死後の世界がある」としたら、死後に向けて「準備をする必要」があるでしょう。
「死後の世界がない」ならば、すべて終わりですから「準備の必要はない」のです。
「準備をして」無かった場合と、「準備をせず」に死後の世界があった場合、
どちらが恐ろしいかを考えると、自明です。
「準備をして」無かった場合、
準備していれば、少なくとも、自分を律した「良い生き方」ができる筈です。
しかし「準備をせず」に、死を迎え、そこに「死後の世界があった」ならば、
救いようがありません。そこには諦めしかないのです。
(あくまで「リスク回避」の合理的な考え方です。)
どう思われますか?
では、準備とは何でしょうか。(私の信じている聖書の価値観です。)
これがとても大事なポイントだと思います。
死後の世界は、「愛が基準の世界」のようです。(私も行ったことがありませんから、こういう言い方しかできませんが(笑)、、、)
黙示録22:3-5
「もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。
もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」
「太陽の光」のように「創造主の愛の光」が満ちた世界、それが「死後の天国の様子」です。
ですから、死後の準備は、ここに「入ることができるための準備」です。
具体的には、大きく二つ、A「自分の中の、愛を育てる」ことと、B「罪の赦し」を受け取ることになるでしょう。
A「自分の中の、愛を育てる」こと。
1コリント13:2-4
「また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。…」
人生の中で、「愛を動機として行動する」ことが、「どのような成功」をしたかよりも価値があると言うのが、聖書を通じて分かる価値観です。
1コリント3:12-13
「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、
各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。」
地上での働きは、「金銀宝石」の建物と、「木草わら」の建物がある、と言うのです。
火を通ると(死を越えると)、神様に喜ばれる「金銀宝石」の建物は天国でも残ります。
しかし「木草わら」で作ったものは、いくら大きな建物でも、天国では「燃えかす」になってしまうのです。
天国では、そのように見られます。
(あなたも、他人も、そのように見ることになるのです。)
このことを知っているかいないかでは、人生の優先度が変わるのです。
「大きな建物」を価値とするなら、人を騙してでも「大きさ」を求めます。
「木草わら」で「見栄えだけ」で建てるのです。ただし天国では、燃えカスになります。
しかし「金銀宝石」を価値とするなら、「小さな建物」でも満足するようになります。
「木草わら」で建てるよりも、
「神様が喜ぶ価値、方法」で建てることに、努めるようになるのです。
(愛を動機として、正しい方法で、仕事や人間関係を考えるのです。)
「死後の世界があると考える生き方」と「無いと考える生き方」
どちらがより「的を射た人生」(健全な人生)を歩めるでしょうか?
より「失敗が少ない」でしょうか?
聖書から学べることは、人生は「愛の道場」のようなものです。
人生の様々な艱難辛苦を通じて、自分の心、愛を育てるのです。
あくまで「聖書の価値観」を土台にした判断ですが、
参考にして頂ければ幸いです。
(「死後の世界がある」と考えるのか、「無い」と考えるのかは、
「人生の姿勢」を確実に変えます。)
次回、もう一つの「死後の世界の備え」である、「罪の赦し」について触れていきます。
祝福をお祈りしています。
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