人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から

世界のベストセラー聖書の価値観から、生きるを考えます!(モノの見方が変わると、とても楽になります)

【コラム】「心を見られている」という感覚。天の願いを意識する(本題その1)

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多くの女性は、美しさに憧れています。

今日のテーマは、「心の美しさ」について、です。

また先回確認した、①「目に見えるもの、結果」をゴールにするのか、「目に見えないもの、価値観、聖さ」をゴールにするか。

そのことにも、触れていきます。

 

まず前提として、質問をさせて下さい。

あなたは、「見えない存在」を信じていますか?

(この世界は、見えるものだけではないという立場の方ですか?)

 

もう一つお聞きします。

「見えない存在」、

あなたは、自分を超えた「神をいう存在」を信じておられる立場の方でしょうか?

(色々な価値観があるとは思います。)

 

特に「創造主である神様」を信じる方に質問です。

「あなたの信じる神様」は、24時間、365日、あなたのすべてを知っておられ、

あなたの「行動」だけでなく、外には見えない「心の動かし方」までも

すべて把握しておられることを、知っていますか、それを信じ受け入れていますか?

 

(いろいろな価値観はあるとは思いますが)

私は、「心を見られている」、、、

このことは、「心の聖さ」を考える上で、とても「大事なポイント」だと思います。

 

「心を見られている」と思わないならば、

「心を綺麗にする」、、、

「自分の気がついていない心の部分までも綺麗にする」、、、

このことを、求めるようにはならない、と考えるからです。

神様に見られているならば「恥ずかしい」、、、この感覚が大切なのです。

 

「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。」
(マタイによる福音書10:39-31)

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」

(マタイによる福音書6:7)

 

「見える部分だけ」を綺麗にすることを、目標にする人たちは、

「形だけ」整っていれば、それで満足します。

つまり「見えない部分」への焦点が、欠落しています。

「心の正しさ、美しさ」を求めません。

 

「心を綺麗にしたい」と考える人は、

「心を見ておられる存在」(神様)を認めることが、大前提だと思います。

そう思いませんか?

「心の聖さを評価する存在」がいなければ、

「聖さ自体」が「マイルール」になります。

それでは「偽善」になりますから。

 

「心の聖さ」を求めるためには、

「聖さの基準」と、

「その基準に近づく作業(努力)」が必要になります。

 

聖書の中に、多くの「心の聖さを求める人」が出てきます。

その中の一人が、有名なダビデ王です。

 

『神よ。私を探り、私の心を知ってください。
私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、
私をとこしえの道に導いてください。』
詩篇139:23~24

Search me, God, and know my heart.
Try me, and know my thoughts.
See if there is any wicked way in me,
and lead me in the everlasting way. Psalm 139:23-34

 

私たちは、意外と自分自身でも「自分の心」が分からないことがあります。

(だから、自分を超えた基準が必要なのです。)

「何に傷ついているのか」「何を本当は求めているのか」、、、

自分のプライドや雑念の中で、見えなくなることが多いのです。

 

そんな時、私は「山に登り」ます。

高いところから、下界の小さな建物や道路のつながりを見る時に、

「自分の考えていること」や「抱えている課題」が、小さなものに思え、整理されるのです。

(イエス様に祈りながら、ですが、、、)

 

カウンセリングを受けたことがある方は、経験があると思いますが、

カウンセリングを受けると、自分自身への気づきが起こります。

カウンセラーが、鏡のように自分に対面してくれ、

時にヒントを与えて、自分の中の傷や歪みを気づかせてくれるのです。

 

「神様を信じる」とは、いつもカウンセラーに報告できるようなものだ、

と私は考えています。

そんな「最高のカウンセラー」と交流できるのが、

「神様を信じ」「神様に祈る」ということなのです。

 

「神様を信じ」神様の聖さに触れると、

「自分の醜さ」に気がつき、悲しくなることがあります。

 

作家の曽野綾子さんは、対談本「この世の偽善」の中で、こんな表現をされています。

(彼女は、クリスチャンであり、カトリック信者です。)

「私はこれでもカトリック信者につながっています。それはキリスト教と言うものが、はっきりと性悪説の上に立っているから、私は安心してものを考えられるからです。どうせ悪いことをするのだと、居直っているのではありません。私たちは一生の最後の日まで少しでも「ましな人間」なることを望んでいるし、またそれは可能なのだと思います。しかし、現実の姿は、「我が罪」と抱き合わせなんですね。見栄を張っても、神はお見通しですから。」

 

神様を信じ、神様の考え方を受け入れるようになると、

「自分の罪深さ」に気がつくようになります。

(曽野綾子さんの場合、自分の醜さの理由が分かり「安心した」、と言います。)

 

神様を信じるということは、

それでも飽きずに「私を受け入れ、助けて下さる存在」、

そんなイエス様というお方を知り、お付き合いを深めることができる、ということです。

 

「自分の心の奥底」を見て、悲しみを感じても、

「弱くても、大丈夫」「できていなくても、大丈夫」、、、

決して居直る訳でない、「弱い自分を受け入れることができるようになる」のです。

 

「本当の自分の姿」を知らないと、「心の聖さ」を求めることはできません。

(私はそう思います。)

スタートが曖昧では、ゴールには向かえません。

だから、偽善です。頭の中だけの「美しい言葉」になります。

 

「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」

(ペテロ第一の手紙1:16)

 

「聖い神様」は、私を愛しておられて、「心の聖さ」を求めておられます。

それは、「神様ともっと交わることができる」ため、であり、

私たちが本来の姿に近づき、「幸せを感じて生きる」ためだと、私は信じています。

 

「神様に心を見て頂いている」という感覚。

「心の聖さを求める思い」、、、

大事だと思いませんか?

 

祝福をお祈りしています。

 

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