イエス様を信じて、クリスチャンになる人は、「選ばれた人」だと聞きました。
何だか「特権階級」のような気がして、あまり良い気持ちがしませんでした。
「選民思想」「プライドをくすぐる言葉」のように感じたからと思います。本当のところはどういう意味なのでしょうか。
ご質問をありがとうございました。
戦後建てられた多くの教会の入り口に、こんな聖句の看板がありました。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
この言葉を読んで、自ら教会に飛び込み、
聖書の御言葉を聞いて、信仰を持った方々も多くおられたのです。
そういう人の中には、「自分で信仰を持った」「自分で教会を選んだ」と考える人もいました。
しかし、その立て看板の反対側には、この御言葉が書かれていた教会もあったようです。
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、、、」(ヨハネ15:16)
この聖句は、文脈上、弟子たちに向けたものですが、後に弟子となる人たちにも向けられた言葉でもあります。(ヨハネ17:20)
ですからこの聖句は、プライドをくすぐる言葉ではなく、招きの言葉です。
(すべての人に向けた言葉でもあります。)
実は、すべての人が「選ばれて」いて「招かれて」いるのです。
そのため、クリスチャンは、「イエス様の招き」に応えた人ということになるのです。
(プライドというより、謙遜さが要求されます。)
昭和の有名な牧師に、渡辺善太という方がおられました。
渡辺師の「わかって、わからないキリスト教」という著書の中に、
「クリスチャンになってしばらくすると信仰をやめてしまうのは、『自分で信仰を選んだ』と考えるためです。もし、招かれている、選ばれているということを理解していたら、簡単にはやめない(細々でも信仰を持ち続ける)はずです。」という言葉がありました。
私も、渡辺師の意見に同意します。
信仰は、「自分で信じる」のですが、信じる以前に「主からの選びと招き」があって、
「信じることができた」という理解です。
私の「イエス様を信じる」イメージは
「エンジンのかかったオートマ車」のように思う時があります。
(少し変な例えかもしれませんが、お聞き下さい。)
最初は、「ブレーキを踏んで」います。
そしてエンジンの稼働が分かり、前進したいと考えたなら、
「ブレーキを外して」進むことができるのです。
最初は、「ブレーキ(自分の考えやプライド)」を踏みながら、
「エンジンの稼働(神様の選びや招き)」を確認します。
しかし「神様の選びや招き」が分かったなら、
「ブレーキ(プライド等)」を外す必要があるのです。
「自分が邪魔」をしなければ、前進し成長できるのです。
繰り返しますが、
クリスチャンは、「選ばれた人」です。
そして「招きに応答した人」です。
そこには、プライドはありません。
(神に反逆するプライドや自我は、イエス様についていくには、邪魔となるのです。)
イエス様についていくには、「こだわりを捨てる、へりくだり」が必須なのです。
ルカ9:23
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
「選ばれた人」の意味合いが、少しは明確になりましたでしょうか。
私たちは、「不十分な人間」です。
しかしイエス様はそれを知っておられながら、
その上で「私を選び、招いて」おられるのです。
(有り難いことです。)
自分が「イエス様を選んだ」のではないのです。
参考にして頂ければ幸いです。
祝福をお祈りしています。
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、、、」(ヨハネ15:16)
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