今回は「神様を体験するヒント」を、「聖書」から考えてみます。
単なる知識ではなく、実践的な内容を目指します。
しばらくお付き合いください。
神様を「日々体験」できるならば、素晴らしいことが起こります。
「愛されている」ことを実感できます。「心が満たされ」ます。
人への過剰な「承認欲求」という地獄から、抜け出すことができます。
精神状態が「安定」します。
「不安」がなくなります。
人から「誤解」を受けても、自分のすべきことを、「愛情深くコツコツ」することができます。
結果、人から「信頼」され、自然に「尊敬」を受けるのです。
良いこと尽くしです。
ですから、私たち人間は、お金や地位やプライドよりも、
「神様に満たされること」を追求すべきなのです。
「神様を体験する勘所」として、3つを考えます。
①シンプルに求めること。
②自分の肉(自我)を明確に意識すること。
③肉以上に、神様を求めること。それを習慣化すること。
今回は最初に聖書箇所を取り上げます。(今回のテーマの方向性を示します)
ルカ11:9-13
「9わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
13とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
2コリント3:16-17
「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」
ヤコブ4:8
「 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心ある人たち。心を清くしなさい。」
①シンプルに求めること。
新約聖書のギリシャ語の現在形は、「継続の意」を含んでいます。
ですから、「求めなさい」は、「求め続けなさい」という意味なのです。
1つ質問をします。
「あなたは、神様を体験したいですか?」「神様の助けが欲しいですか?」
この質問に、「本気でハイ」と答える方は、「何かの問題や困難」に出会っている人だと思います。
または、「本質を求める人」で、「神様しか満たすことができないものがある」と、知っている人かもしれません。
特に現在、問題や困難に出会っている人に、お尋ねします。
「その問題がなくなっても、あなたは神様を求めますか?」「神様とのつながりを求めますか?」
かなりの人が、「イイエ」と答えるのではないでしょうか。
それほど人間は、自己中心で自分の欲求を中心にして、生きているのです。
(批判をしているのではありません。私たちの現実を確認しているのです)
神様を本気で体験したいなら、困難がなくなっても、求め続ける姿勢が大切です。
つまり「神様しか、満たすことができないもの」があることを悟って、
「本気でいつも求め続ける」のです。
お金も、地位も、プライドも、「あなたの心とたましいの渇き」を、
本当には満たすことができません。
定年退職、高齢、病気、、、死を迎えるまでに、すべての支えは崩れていきます。
それらは「砂上の楼閣」なのです。
あなたが神様を信じる人であれば、最後の最後には、
「神様しか自分を支えられない」と悟ります。
悟れなくても、追い込まれます。
「自分の土台は、神様だ」、、、そうなります。
そんな気持ちで、神様を求めるのです。
シンプルに求め続けるのです。
②自分の肉(自我)を明確に意識すること。
先回取り上げた、盲人バルテマイを、今回もう一度取り上げます。
マルコ10:49-50
49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。
50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐに立ち上がって、イエスのところに来た。
彼にとって「上着」は盲人の唯一の財産で、夜具で絶対に必要なものでした。
野宿する時には、それが布団の代わりになりました。
再び質問をします。
あなたが「自分の支え」としているものは、何ですか?
神様以外で、あなたが「実際に支え」としているものを、思い起こして頂きたいのです。
お金ですか?地位ですか?友人や家族ですか?
又は、あなたのプライドですか?
ある人は、自分が決めたゴールに向かうことを、生き甲斐にしている人がいます。
だから、目標がなくなると不安になります。
自分に価値がなくなる感覚になるのです。
自分が「執着」しているもの。
「これがないと生きていけない」というもの。
それらを思い起こして下さい。
正直になることが大切です。
ある人は「異性や親」を支えとしています。「兄弟や友人」を支えにしている人もいます。
自分が「最も執着しているもの」を、自覚して欲しいのです。
③肉以上に、神様を求めること。それを習慣化すること。
信仰の父、アブラハムは、
自分の命よりも大事な、「イサクを捧げよ」という神様の命令に従いました。
高齢で生まれた子供です。可愛いだけでなく、財産を相続する唯一の子供です。
「イサクがいなくなる」ことは、自分の人生の後半の「全否定」でもあるのです。
「すべてを与えて下さった神様」を求めるのか、「与えられたもの」を選ぶのか。
理屈では、神様ということになりますが、感情はそう簡単にはいきません。
理想通りには、普通はできないものです。
しかしアブラハムは、神様のテストに合格したのです。
「神様を選び」ました。全てを与えてくださった方を「一番」にしました。
このことが、評価されたのです。
「肉の思いより、神様を選ぶ」
これを日常的にする人は、神様に出会い続けます。(本当です)
「肉を捨てる」のです。
自分の執着するもの以上に、「創造主を求め、選び続ける」のです。
「これは難しい」きっとそう思われるはずです。
確かに、この応答は最初は難しいです。
しかし少しでもできるようになると、
加速がついて段々と、神様を選ぶことが「自然に」なっていくのです。
自然になるところまで、「習慣化する」ことが大切なのです。
「小さなこと」から始めましょう。
朝起きたら、まず神様にお祈りをする。
食事の前に、祈る。
車の運転の前に、祈る。
何かの大事な仕事をする前には、必ず祈ってから始める。
小さなことかもしれませんが、
習慣化の力は、素晴らしいものがあります。
いつもシンプルに、神様を求め続けましょう。「 満たし」を願いましょう。
自分の執着するもの、自分自身の自我や常識を、「自覚」して、
「それらの『肉の考え』以上」に、「神様を求める」のです。
小さなお祈りを積み重ねることです。
神様に近づくための、「種まき」をするならば、
神様の御臨在を体験する、「霊的刈取り」を必ず受け取ることができるのです。
神様の御臨在を体験することは、素晴らしいことです。
祝福をお祈りしています。
ヤコブ4:8
「 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心ある人たち。心を清くしなさい。」
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