人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から

世界のベストセラー聖書の価値観から、生きるを考えます!(モノの見方が変わると、とても楽になります)

「真実に自分を愛する」とは? たましいの救いについて(詩篇139より)

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先回、不健康な自己愛について考えました。

今回は、健康的に「自分を大切にする」ことを考えていきます。

結論としては、

「創造主に知られていることを意識し、体験する」時に、

それが成されることを論述したいと考えています。

 

まず、たましいの救いの「たましい」の定義です。聖書から導き出すことが本来ですが、

God Questionsの中で書かれている、

クリスチャン作家CSルイスの言葉「あなたはたましいを持っているのではなく、あなたは身体を持っているたましいなのです。」という「人格の中心」という説明がわかりやすいです。

 

さて、本題に入ります。

 

「自分を大切にする、愛する」ためには、自分のことを知らなければなりません。

しかし意外と自分を知るとは、難しい作業なのです。

 

今回、3つのことを考えていきます。

①自分のことをすべて知ることは、難しいこと。

②自分のことを、知っている存在を見つけること。

③その存在に見てもらい、触れてもらうこと。

 

①自分のことをすべて知ることは、難しいこと。

ジョハリの窓というものがあります。

自分が知っている「自分の特徴」、他人が知っている「自分の特徴」の一致・不一致を「窓のように見える4つの枠」から分類し、自己理解を深めるという心理学のツールです。

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自分(身体を持ったたましい)は、ある構造の中で生きています。

知性や感情、世の中の常識やルール、ある縛りの中で実際には生きています。

「一つの窓、一つの部屋の中」で生きているといっても良いのです。

同じ空間にいたとしても(同じ家族でも)、個性によって「考え方」は違います。

 

「自分の部屋の中」は、自分が一番知っています。(そう思っています。)

しかし「外から見える、自分の姿」は、分かりません。

自分が「当たり前」と思うことが、人には「当たり前ではない」ことが多いのです。

 

そして「自分の部屋の中」には、いろいろなものが入っています。

「知性」で理解していても、「感情」で反発することがあります。

「仕事(行動)」をしていても、「心は伴わず機械的」にしていることもあります。

「喜んで」できれば一番ですが、敢えて「感情を見ないようにしている」ことだってあるのです。

自分の部屋の中には、知性、感情、良心、建前、羞恥心、、、、

そのように、様々ものが、共存している部屋が「私」であり、時々「自分でも分からなく」なるのです。(相反するものが共存しているからです。)

 

また、人は「私が見ているように」、私の部屋の中を見てくれません。

理解しようとしても、できないことも多いのです。

「分かってもらいたい」と強く願う時には、期待通りは分かってもらえません。

その気持ちが強ければ強いほど、「失望する」のです。

 

また、「自分の支え」を人に求めるほど、人の意見に「動揺」し「苛立つ」のです。

そして特に、自分でも「自分が分からない」時には、(自分が分からないことが多いのですが、、)

さらに混乱します。

 

ですから、自分がどんな酷い状態であっても、冷静かつ愛情深く、

「私を見て下さる存在」が必要です。

ジョハリの窓で言えば、「盲点の窓」だけでなく「未知の窓」をも教えてくれる存在なのです。

 

②自分のことを、知っている存在を見つけること。

自分のことを大切にしてくれて、アドバイスをしてくれる友人は宝物です。

しかしその友人にも、人間的限界があることを「悟らなくて」はいけません。

そうでないと、その人を「神様」のように考えたり、奴隷のように「理解を強要」します。

そんな「執着心」を持つ時、目をがくらまされます。

 

ですから、限界があり多くの問題を抱えている人間を、

「超えた存在」を見つけることは、重要なのです。

それが「創造主(神様)」です。

宗教に属するとかではなく、自分をつくって下さった存在の視点を「客観的に知る」(後に体験的に知る)ことです。

 

そこで今回取り上げる詩篇139篇です。

これは有名なダビデ王の詩で、ダビデの「神理解」です。

 

詩篇139篇

「1 主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。

2 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。

3 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。

4 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。

5 あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。

6 そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。

7 私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。

8 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。

9 私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、

10 そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。」

 

細かな解説は省きます。

ダビデ王は、創造主なる神様が、「自分を深く知って下さっている」ことを、理解していました。

 

③その存在に見てもらい、触れてもらうこと。

創造主が「自分をどのように知って下さっているか」、

そのことを体験的に知ることは、「大きな喜び」です。

 

パスカルが「人間には、創造主でしか埋められない、空白がある」

という有名な言葉を語りましたが、

「私の言葉が発される前」に、私の知性も感情も、、、羞恥心さえも知っており、

その上で「温かい目」で、私を見つめて下さる「存在がおられる」ことは、非常に有難いのです。

 

詩篇139篇の最後には、

「憎しみの感情」や、「自分が気がついていない心の痛み」にも、ダビデは言及しています。

 

「21 主よ。私は、あなたを憎む者たちを憎まないでしょうか。私は、あなたに立ち向かう者を忌みきらわないでしょうか。

22 私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。彼らは私の敵となりました。

23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」

 

ダビデは、祈りの中で、創造主と「触れ合う体験」をしています。

ですから、「自分の憎しみ」の中で「心の傷、痛み」が十分に分からない段階から、「祈りの中」で触れられることを期待していたのです。

 

「創造主の眼差し」を体験的に知る時に、「気がついていない自分」に目がいきます。

(深い痛みは、なかなか気がつかないものです。)

そして「創造主の愛情深さ」を体験する時に、自分が「愛されている」ことが分かります。

 

その「創造主が注いで下さる愛」で、自分を見る時に、

真実に「自分を愛し、大切にする心」を持つことができるのです。

 

自分の「限られた窓、部屋」だけで、「自分を愛する」だけでは不完全です。

完全に近づくには(一生近づき続けることにはなりますが)

すべての窓、部屋を知っておられる方から、愛されているという、

「触れられる体験」が必要なのです。

 

それが、「たましいの救い」であり、本当の意味で「自分を愛する」こととなります。

その「深い愛」を知り、体験できますように、

祝福をお祈りしています。

 

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