先回、不健康な自己愛について考えました。
今回は、健康的に「自分を大切にする」ことを考えていきます。
結論としては、
「創造主に知られていることを意識し、体験する」時に、
それが成されることを論述したいと考えています。
まず、たましいの救いの「たましい」の定義です。聖書から導き出すことが本来ですが、
God Questionsの中で書かれている、
クリスチャン作家CSルイスの言葉「あなたはたましいを持っているのではなく、あなたは身体を持っているたましいなのです。」という「人格の中心」という説明がわかりやすいです。
さて、本題に入ります。
「自分を大切にする、愛する」ためには、自分のことを知らなければなりません。
しかし意外と自分を知るとは、難しい作業なのです。
今回、3つのことを考えていきます。
①自分のことをすべて知ることは、難しいこと。
②自分のことを、知っている存在を見つけること。
③その存在に見てもらい、触れてもらうこと。
①自分のことをすべて知ることは、難しいこと。
ジョハリの窓というものがあります。
自分が知っている「自分の特徴」、他人が知っている「自分の特徴」の一致・不一致を「窓のように見える4つの枠」から分類し、自己理解を深めるという心理学のツールです。
自分(身体を持ったたましい)は、ある構造の中で生きています。
知性や感情、世の中の常識やルール、ある縛りの中で実際には生きています。
「一つの窓、一つの部屋の中」で生きているといっても良いのです。
同じ空間にいたとしても(同じ家族でも)、個性によって「考え方」は違います。
「自分の部屋の中」は、自分が一番知っています。(そう思っています。)
しかし「外から見える、自分の姿」は、分かりません。
自分が「当たり前」と思うことが、人には「当たり前ではない」ことが多いのです。
そして「自分の部屋の中」には、いろいろなものが入っています。
「知性」で理解していても、「感情」で反発することがあります。
「仕事(行動)」をしていても、「心は伴わず機械的」にしていることもあります。
「喜んで」できれば一番ですが、敢えて「感情を見ないようにしている」ことだってあるのです。
自分の部屋の中には、知性、感情、良心、建前、羞恥心、、、、
そのように、様々ものが、共存している部屋が「私」であり、時々「自分でも分からなく」なるのです。(相反するものが共存しているからです。)
また、人は「私が見ているように」、私の部屋の中を見てくれません。
理解しようとしても、できないことも多いのです。
「分かってもらいたい」と強く願う時には、期待通りは分かってもらえません。
その気持ちが強ければ強いほど、「失望する」のです。
また、「自分の支え」を人に求めるほど、人の意見に「動揺」し「苛立つ」のです。
そして特に、自分でも「自分が分からない」時には、(自分が分からないことが多いのですが、、)
さらに混乱します。
ですから、自分がどんな酷い状態であっても、冷静かつ愛情深く、
「私を見て下さる存在」が必要です。
ジョハリの窓で言えば、「盲点の窓」だけでなく「未知の窓」をも教えてくれる存在なのです。
②自分のことを、知っている存在を見つけること。
自分のことを大切にしてくれて、アドバイスをしてくれる友人は宝物です。
しかしその友人にも、人間的限界があることを「悟らなくて」はいけません。
そうでないと、その人を「神様」のように考えたり、奴隷のように「理解を強要」します。
そんな「執着心」を持つ時、目をがくらまされます。
ですから、限界があり多くの問題を抱えている人間を、
「超えた存在」を見つけることは、重要なのです。
それが「創造主(神様)」です。
宗教に属するとかではなく、自分をつくって下さった存在の視点を「客観的に知る」(後に体験的に知る)ことです。
そこで今回取り上げる詩篇139篇です。
これは有名なダビデ王の詩で、ダビデの「神理解」です。
詩篇139篇
「1 主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
2 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
3 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
4 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
5 あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。
6 そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。
7 私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
8 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。
9 私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
10 そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。」
細かな解説は省きます。
ダビデ王は、創造主なる神様が、「自分を深く知って下さっている」ことを、理解していました。
③その存在に見てもらい、触れてもらうこと。
創造主が「自分をどのように知って下さっているか」、
そのことを体験的に知ることは、「大きな喜び」です。
パスカルが「人間には、創造主でしか埋められない、空白がある」
という有名な言葉を語りましたが、
「私の言葉が発される前」に、私の知性も感情も、、、羞恥心さえも知っており、
その上で「温かい目」で、私を見つめて下さる「存在がおられる」ことは、非常に有難いのです。
詩篇139篇の最後には、
「憎しみの感情」や、「自分が気がついていない心の痛み」にも、ダビデは言及しています。
「21 主よ。私は、あなたを憎む者たちを憎まないでしょうか。私は、あなたに立ち向かう者を忌みきらわないでしょうか。
22 私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。彼らは私の敵となりました。
23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」
ダビデは、祈りの中で、創造主と「触れ合う体験」をしています。
ですから、「自分の憎しみ」の中で「心の傷、痛み」が十分に分からない段階から、「祈りの中」で触れられることを期待していたのです。
「創造主の眼差し」を体験的に知る時に、「気がついていない自分」に目がいきます。
(深い痛みは、なかなか気がつかないものです。)
そして「創造主の愛情深さ」を体験する時に、自分が「愛されている」ことが分かります。
その「創造主が注いで下さる愛」で、自分を見る時に、
真実に「自分を愛し、大切にする心」を持つことができるのです。
自分の「限られた窓、部屋」だけで、「自分を愛する」だけでは不完全です。
完全に近づくには(一生近づき続けることにはなりますが)
すべての窓、部屋を知っておられる方から、愛されているという、
「触れられる体験」が必要なのです。
それが、「たましいの救い」であり、本当の意味で「自分を愛する」こととなります。
その「深い愛」を知り、体験できますように、
祝福をお祈りしています。
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