この一週間、ずっと「神様がおられる」と実感すると、生き方はどう変わるのか、
を言語化したいと模索していました。
ツイッターで、どう思いますか?と発信すると、
「愛されている」
「山上の説教のような生き方になる」
「人を許せるようになる」
「穏やかな生活ができる」等、
たくさんの応答を頂きました。
確かにそうだと思うと共に、大変勉強になりました。
(応答してくださった方々に感謝します。)
今回、
①知っていることと、実感はまったく違う。
②振り返れば、そこにおられる感覚。
③愛されている、満たされている、その先にあるもの。
という観点でまとめてみたいと思います。
感覚を共有し、互いに深めていけたらと願います。
①知っていることと、実感はまったく違う。
「畳の上の水連」(畳の上で泳ぐ練習をしても、実際とはまったく違うこと)
「耳学問」(耳で聞いただけの知識、知ったかぶり)
という言葉があります。
「神様が共におられる」ことも、同じです。
知っていることと実感はまったく違います。
神様が共におられるなら、苦しい時でも、平安があります。
体験している人は、苦しみの中でも、案外「ポジティブ」です。
しかし、知識だけの人は、パニックになります。
②振り返れば、そこにおられる感覚。
「共におられる」を言い方を変えると、私は上記の表現ができると思います。
遠くにおられるのではありません。
すぐ近くにおられます。
そして、すぐ近くにおられるならば、「目には見えなく」ても、おられるのです。
思い込みでは、無理やり考えているのでは、と考える方もおられると思います。
イエス様を信じる人にとっては、
思い込みではありません。
イエス様が「世の終わりまで共にいる」(マタイ28:20)と、言われています。
イエス様が、「嘘をつかない」と知っている方ならば、
「本当のこと」だと信じることができるはずです。
要は、私がそれを「分かっているかどうか」
「体験しているかどうか」の問題です。
その感覚を持つと、
「安心感」がわきます。
「自己肯定感」があります。
未来に対する不安が「なくなる」のです。
今まで、「認められる」ために、努力していた人が、
「すでに認められていた」こと、に気がついてしまいます。
必死に認められようと「足掻く」必要がないこと、に気がつくのです。
「ほんわかとした、温泉のような、陽だまりの喜び」
心の「平安」が、湧き上がるのです。
③愛されている、満たされている、その先にあるもの。
愛されていることが分かり、満たされている実感が湧くと、
「行動の動機」が変わってしまいます。
自己実現(自分が決めたことを達成したい衝動)は、意味を為さなくなります。
それで、自分を支える必要がなくなるからです。
また承認欲求(認められたい、自分を認めさせてやりたい衝動)も、弱体化します。
そんなに頑張って意地を張らなくても、すでに「認められている」ことを知っているからです。
自己中心的な衝動が、消えていく、または小さくなるのです。
そして「愛してくださった方」に喜ばれるように生きていきたい、と動機が変えられるのです。
具体的には、
「神様に喜ばれたい」、
周りの人々に対して「ニーズに応えたい」、
私が愛されているように、その人々を大切にしていきたい、と動機が変化します。
聖書は(イエス様は)こう言っています。
「『心を尽くし,思いを尽くし,知力を尽くして,あなたの神である主を愛せよ.』これがたいせつな第1の戒めです.『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ.』という第2 の戒めも,それと同じようにたいせつです.律法全体と預言者とが,この2つの戒めにかかっているのです」
(マタ22:37‐40)
この主の「ご命令」を、強制的ではなく、
「自分の喜び」として、行動できるようになる、変えられる、、、
これが、クリスチャンが進んでいく方向だと思いますが、いかがでしょうか。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
皆さんが「神様が(イエス様が)共におられる」ことを通じて、
たくさんの恵みを受け取り、体験できますように。
共に深めてまいりましょう。
祝福をお祈りしています。
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