本日は、雑念の中で、「心がリセット」され、心穏やかになるには、
どうしたら良いか。
どこに「心の焦点」を当てたら良いか、について考えます。
今回のポイントは、以下の2点です
①イエス様(神様)を意識して祈ること、お話すること。
②感情を吐き出すこと、受け止めて貰うまで祈ること。
皆さんは、心がざわざわする時には、どうしますか。
気分転換に、お茶を飲んだり、
好きな動画を見たり、
一度、今の気分をリセットするには、それらは効果があります。
私は時間があれば、車でしばらく走って、近くの山の中腹にある「展望台」に行きます。
そこは、私の祈りの場所です。(ほとんど人がいません)
そこから下界を見ると、家も車も豆粒のように見えます。
「自分の苦しみも、小さく大したことはない」と思いながら、神様に祈るのです。
(心がリセットされます)
何か、「リセット」のため、自分なりの方法を持っていることは、大切です。
心は「正直」です。
メンテナンスをおこたると、胃が痛くなったり、頭痛がしたり、めまいになったり、
どこかの弱いところに出てきます。(我慢し過ぎると、後で大変です)
ですから、心の耳を研ぎ澄まして、自分の「心の声」を聞く必要があるのです。
そして、「心の声」を聞いたなら、
次にすることがあります。
それは、、、その心を誰かに「受け止めて貰う」のです。
そのお相手は、安心感がある存在である必要があります。
また、解決する方法を知っている存在でなければいけません。
(そうでなければ、安心して、すべてを吐き出せません)
あなたには、そんなお方は、おられますか?
私も、そのような友人や先輩がいます。
何かあったら、電話をかけます。
しかし、日常は「お祈り」です。
イエス様に祈ります。
人は、いつもそばにいてくれません。
またいくら優れた人でも、私のすべては理解できません。
(理解しようとしてはくださいますが)
人は「山の裾野」のような助けは与えてくれますが、
「山の頂上」のような助けは与えられません。
(この意味を分かって頂けますでしょうか)
イエス様はいつも私を見ておられます。
ですから、もしあなたが「イエス様」につながり、心のすべてを吐き出すことができるなら、
あなたは、「心の深い部分」まで、平安が与えられるのです。
そのための今回のポイントです。
①イエス様(神様)を意識して祈ること、お話すること。
②感情を吐き出すこと、受け止めて貰うまで祈ること。
嵐を静めて下さる、イエス様。
イエス様に「祈り切る」(感情を注ぎ、開け放つ)大切さを考えます。
マルコ4:38-41
37 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。
38 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思わないのですか。」
39 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
41 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
ここで理解の前提となる感覚は、イエス様が近くにおられるという感覚、です。
クリスチャンの方々は、それを習得しています。
そして、イエス様が「祈りを聞いて下さり」「すぐ身近にいて下さる」ことを、
悟るようになります。
イエス様が身近におられるので、
イエス様にお話できるのです。
(この感覚は、非常に大切です。)
ところが、この聖書の場面では、
イエス様は、眠っておられました。
弟子たちは、イエス様を揺すって叫びました。
「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思わないのですか。」
これは「冷静な言葉」だと思いますか?
いいえ、「感情的な叫び」です。
①「誰に」訴えるかは、非常に大事です。
自分なりのイメージであっても構いません。(段々とはっきりしていくものです)
「イエス様に訴える」のです。
祈りは、「対象が重要」です。
「イエス様に訴え」れば、「イエス様が答えて」下さいます。
曖昧な祈りでは、誰にお願いしているのか、分からなくなります。
そういう祈りは、聞かれません。
いや、その言葉は、祈りになっていない可能性があります。
独り言を呟いているだけかもしれないのです。
祈りは「対象が重要」なのです。
「イエス様」に、はっきりと祈るのです。
②祈りは、「感情の叫び」でなければなりません。
客観的な言葉、知識だけの情報、では「あなたの心」は届きません。
「イエス様、何とも思われないのですか?」
弟子たちのように「感情」でそう叫ぶ時に、
イエス様は、その感情を「受け止めて」下さるのです。
「感情」を通じてイエス様が働かれた時、
あなたの「感情が満たされ」ます。
その時に、「心の平安」がやってくるのです。
ご理解頂けたでしょうか。
聖書を見ると、初期の弟子たちは、信仰がなく(マルコ4:40)
心が固く閉じていた(マルコ6:52)とあります。
ですから、最初は良く分からずに、右往左往していました。
しかし、イエス様を身近に感じる中で、
(具体的には、聖霊が働かれる十字架と復活以降ですが)
イエス様に日々叫び、助けを感じて、成長していったのです。
雑念の中で、平安を受けるには、
「自分の心をリセット」する必要があります。
そして、自分の感情(本音)を「自覚」することです。
その上で、
①イエス様に、訴えます。
②自分の感情を叫びとして、訴えます。
それによって
「イエス様が働いて」下さるのです。
深い「心の平安」が与えられます。
(理屈っぽい書き方ですが、敢えてプロセスを言語化しています)
イエス様は、眠っているように見えても、決して眠ってはおられません。
私たちの叫びを聞き、解決の何かを見せて下さるのです。
雑念で振り回されている時、
参考にしてみてください。
祝福をお祈りしています。
詩篇121:1-4
1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
2 私の助けは、天地を造られた主から来る。
3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
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