人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から

世界のベストセラー聖書の価値観から、生きるを考えます!(モノの見方が変わると、とても楽になります)

【コラム】現代は、膿を出す時代(考察)

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いつもご拝読ありがとうございます。

今回は、コラムを書かせていただきます。

実は、今書いている別の質問の答えが、難航しており、しばし筆を止めて、思い巡らしています。

いつも書き始めると、どうしても長くなってしまいますが、今回のコラムは、短め(?)にまとめる予定です。

しばらくお付き合い願います。

 

アメリカの大統領選挙とその後の混乱をずっと注目していますが、

今はコロナだけでなく、世界的に見ても「揺さぶられている時代」「隠れているものが明らかになる時代」だと思われます。

 

ある人たちは、「膿を出す時代」で、この後の「来るべき良い時代」の準備なのだ、と言っておられます。(クリスチャンではない方々です)

私も「膿を出す時代」ということを同意します。

 

世界のベストセラーである聖書を見ても、

「大きな混乱」の後に「新しい世界」がやってくると書かれています。

世界人口の三分の一の方々がクリスチャンですので、少なくとも三分の一方々が、そのことを知っている、または受け止めていると考えることができるのです。

 

聖書を読むと、この後にまだまだ混乱の時期が続くと読み取れます。

そしてもっとひどくなります。

ですから、私たちは、覚悟をしなければなりません。

(実は今の混乱は入り口なのです。これで驚いてはいけないのです。更なる混乱に耐えるスキルを身につける必要があります)

 

この時、人々は二つに分かれます。

それは、「善の側に立つか(善を受け入れようとするのか)」、

自分の利権を守るため、「悪を利用して、悪の側に立つか」です。

 

悪の側に立つ人はいない、という人もいるでしょうが、

人は、自分の利益や立場を守り、私腹を肥やすために、確信犯的に「悪の側に立つ」ことがあるのです。(賄賂や買収がその例です)

 

私には数人の海外に住むクリスチャンの友人がいますが、

キリスト教界の中でも、今は二つに大きく分かれようとしているという意見を複数聞いています。

 

それは「聖さ」を求める人たちと、

自分の都合の良いように、様々なものを解釈して「自我や欲望を第一とする」人たちです。

 

「聖さを求める人たち」は、ますます聖くなることを願い、努めますが、

「欲望(肉)を第一とする人」は、真理や正しさを無視していくのです。

 

「聖さを求める人たち」は、自分の欲望や汚さに気がつき、悲しみ、

「膿を出すこと」(聖められること)を益々求めて生きていきます。

 

しかし「欲望の人」は、「膿を隠し、先送りする」のです。

 

そして、「聖さを求める人」は、光を求め、光からくる「平安」を受けることができます。

しかし「欲望を求める人」は、光の平安を受け取れず、「目の前にある欲望」によって自分を支えようとします。ですから、「ますます混乱」が続くのです。

(光を知っていても、知らない人のようです)

 

そのように、二極化するのです。

皆さんは、どう思いますか。

自分が「どちらに立ちたいのか」を明確にすることが大切だと、自戒を込めつつ、痛感します。

 

これから、混乱がますます続くのであれば、

私たちは、今と将来の混乱や不安を乗り越える「スキル」を身につける必要があるのです。

 

もし、今の時代が、「膿を出す時代」であるならば、(私はそう信じますが)

(そしてそのことを同意し、聖さを求めて生きるならば)

私たちは、その後の「来るべき良い時代」を備えることができると思いませんか。

 

祝福をお祈りしています。

 

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家族の財産の問題です。姉が施設の母の通帳から勝手にお金をおろしていたことが分かりました。非常に気分が悪いです。どのように考えたらよいのでしょうか。

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50代の主婦です。遠隔地のため、久しぶりに母の老人入居施設を訪問しました。いつもは近くに住む姉が、母の世話をしています。母から「お金が必要だから通帳からお金をおろしてきて欲しい」と頼まれました。通帳を何げなく見ると、不定期に数万ずつのお金が下ろされていました。母に尋ねると「多分、Y子(姉)だと思うけど、良く分からない」と言われました。今まで母のお金のことは、何も知りませんでしたが、「姉が勝手にお金をおろしているのかもしれない」と思うと、とても気分が悪くなりました。私たちは二人姉妹です。近日中に姉と話をしたいと思っていますが、どんな風に考えて話したら良いか、アドバイスをお願いします。

 

ご質問をありがとうございました。

お金のことは、家族でもデリケートな問題です。慎重に扱う必要があるとは思います。

今回明らかになったことは、お母さんの通帳の管理についてですが、二人姉妹ということですから、今後は必ず、この問題だけでなく、遺産相続等の話し合いが必要になる時がやってきます。その場合は、法律にのっとって進めていく必要があります。

もしご心配ならば、市町村の「法律相談」など、無料で相談に乗って下さる場所があります。

事前に、法律的なこと(技術的なこと)を、専門家のアドバイスを聞いて、準備をしておくことも、よろしいとは思います。(ネットでもたくさんの事例はのっています)

 

こちらのサイトでは、「どのように考えたら良いか」の指針をお話ししたいと思っております。私は、この世界の「見えるもの」は、「見えないもの」の影響が大きいと、実感しています。

「考え方」は、見えませんが「非常に大事」です。

考え方が定まっていれば、感情的になって失敗することも少なくなります。

その上で「具体的な方法」を活用すべきだと思うのです。

 

まず最初の「私からのアドバイス」ですが、

今のお気持ちを、一度落ち着けて「クールダウン」して、それからお姉さんとお会いすることをお勧めします。

もし質問者さんが、感情的になって話を進めると「売り言葉に買い言葉」となり、泥沼の状態になる可能性もあります。

きっと、質問者さんも、そのことに気がついていたので、この質問をされたのだと思うのです。

 

以下の3点を読んで頂き、

心を落ち着け、思い巡らせていただきたいと願います。

そして今後の方針を熟考した上で、

最善の話し合いができることを、祈っております。

 

①「隠れているもの」は、どこかで必ず「明らかになる」ということ。

②「貪り(むさぼり)は罪」だということ。

③「蒔(ま)いた種の刈り取り」が必ずあるので、注意すべきである、ということ。

 

①「隠れているもの」は、どこかで必ず「明らかになる」ということ。

私は、この問題が、今明らかになって「良かった」と思っています。

今だから、まだ話し合いがお母さんも含めてできるからです。(もしものことの後ならば、大変だったと思います)

 

質問者さんは、この問題を今回「知って」ショックであり、気分が歩くなったと思います。(特に、二人姉妹ということですが、裏切られたというお気持ちがあると思います)

しかし質問者さんが今回「気がついただけ」であって、この事実は「以前から」存在していたことなのです。

 

隠れているもので、明らかにならないものはない、と聖書にあります。
ルカ(新約聖書) 8:17 隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません。

 

その人が隠していても、もし「汚いこと」を考えていたならば

それはどこかに必ず、「明らかになる」のです。

それは、「その人の言動から」かも、知れませんし、今回のように通帳のような「証拠となるものから」明らかになることもあるのです。

 

「心の中」で考えていることは、必ず、「言動」に現れてしまうのです。

ですから、今回のことも「良いチャンス」と考えていくことが、よろしいと思います。

 

気を付けて頂きたいことは・・・

同じ法則が質問者さんにも当てはまります。

質問者さんが「お姉さんを責める」気持ちでお会いすると、必ず「責める言葉」が出てくるはずです。それは良くない(話し合いの妨げ)ですから、いろいろな状況や可能性を考えて、心を整理しておく必要があるのです。

 

もしかすると、そのお金は「お母さんのために必要なお金」だったかもしれません。(分かりませんが)

お母さんの趣味のためのお金かもしれませんし・・・

とにかく、あらゆる可能性を考えてから、その上で「事実を確認する」という姿勢が大切です。(人は見たもの、触れた情報だけで、偏った判断をすることが多いことは心に留めるべきです)

 

私は、「ひどい策略」を考えている人がいることを知った時、

気分は悪くなりますが、

「かわいそうだ」とも思うのです。

なぜなら、3番目に触れますが「霊的な法則」が分からずに間違ったことをしていくと、最後には、「ひどい刈り取り」があることをたくさん見聞きしています。

ですから、気がつかずに「悪業を続ける人」を見ると、かわいそうだと思うのです。

 

少し話がズレてしまいました。

「隠れているもの」は「必ず明らかになる」ということ。

お姉さんが、もし本当に「悪いこと」を考えていたならば、それはどこかで必ず「明らかに」なります。そのことを覚えて、(落ち着いて)今後の対応をしましょう。

(感情的にならず、冷静に事実を確認していきましょう)

 

同時に大切なことは、「質問者さんの(ご自分自身)」の「隠れた思い」も明らかになることも、忘れてはいけません。

(そのため、私たちは「どこに出しても恥ずかしくない」考えで「生きること」、「生きることを目指すこと(人間は完ぺきではありませんから)」を求めるのです)

 

神様を信じる方は、神様の目を意識しましょう。神様は「心の奥のすべて」を知っておられますから、その方に言い訳(申し開き)ができる範囲で、ことを行いましょう。

そして罪だと自覚したら、瞬時に(言い訳なく)謝罪しましょう(悔い改めです)。それによってあなたは「聖め」られていき、「歪んだ感情」と「言動」も整えられるのです。

 

②「貪り(むさぼり)は罪」だということ。


出エジプト(旧約聖書)モーセの十戒の最後
20:17 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。

 

人のものを「盗む」ことは、泥棒です。

そして人のものを「うらやむこと」も罪なのです。

つまり、自分には「所有権がない」のに、それを「欲しいと思うこと」は罪なのです。

 

これは厳しいかもしれません。

普通、心で思っているだけでは、「この世の法律」では裁かれません。

しかし聖書は、神様の価値観です。

心の中で、思っているだけでも「罪は罪」なのです。


ロマ(新約聖書)
ロマ 7:7 律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。 

 

この基準(神様の言葉:律法)が提示されてはじめて、それが「罪」なんだと、「自分の罪」に気がつきます。

もしお姉さんが、自分の権限ではない「お母さんのお金」を欲しいと思っていたならば、聖書では、それだけで「罪」です。(お姉さんが否定してもです)

通帳のお金を勝手に取ったならば、心で思った「罪」を実行に移しただけなのです。

(そして犯罪が成立してしまいます)

 

もしお姉さんの心に「罪の思い」があれば、それは罪として、しっかり見ていくことが大切です。

 

仮にお姉さんが言い訳を言ったとしても、「でもそれは罪ですよね」と(心の中であったとしても)言うことができます。

聖書がそうはっきりと言っていますから、お姉さんが否定しても問題ではありません。罪は罪なのです。(そう考えて、接すると冷静に対処できます)

 

 

③「蒔(ま)いた種の刈り取り」が必ずあるので、注意すべきである、ということ。

私の良く知っている、保険屋さんのお話です。

その方は代理店を長くしていますが、本当に親切丁寧にお客さんに関わる方です。

夜中でも「事故現場」に駆けつけで、対応するようなタイプの方です。

 

その方がこんなことを言っていました。(その方はクリスチャンではありません)

事故が起きて、「ふんだくってやろう(可能な限り得をしよう)」と考える人は、長い実でみると、得をしたようでも、最終的には損をすることが多いような気がします。

そう言う人は、意外と事故を起こしやすいのです。「得をしよう」と考えても、最後は損をして「帳尻が合う」ような気がします。

 

「得をしよう」、「自分の権利を越えても、得をしよう」。これは「貪り(むさぼり)」です。

「貪る(むさぼる)」と、その「悪い刈り取りがある」ことを、多くの事例を通じて、体験的に知っておられるように思いました。


ガラテヤ(新約聖書)
6:7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
6:8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
6:9 善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

 

「良い種」を蒔けば、「良い刈り取り」があり、

「悪い種」を蒔けば、「悪い刈り取り」があるのです。(これが神様の法則、この世界の法則のようです)

 

これは「霊的な法則」です。しかし霊の世界だけでなく、最後には物質界(現実世界)でも「その通り」になります。

それを知らず(その法則、ルールを知らず)、「悪い種」を蒔き続ける人は、先ほども書きましたが、「かわいそう」なのです。

 

お姉さんが気がつかずに、そのことをしているとすれば、

その影響は、そのお子さんや周りの方に、必ず影響をしていきます。そしてご本人にもどこかで「刈り取り」があるはずです。

 

①隠れているものは、必ず表に出る。

②貪り(むさぼり)は、明らかに罪。

③悪い種を蒔(ま)けば、必ず悪い刈り取りがある。

 

それらのことを踏まえて、対処していくならば、質問者さんは過剰に感情的にならないと思います。

 

一度、ゆっくりとした気持ちで、お姉さんとお話ししてみて下さい。

質問者さんが、堂々としているならば、話し合いは「良い方向に向かう」と確信しています。

 

姉妹ですから、このことを通じて、関係が良くなっていけるといいですね。

祝福をお祈りしています。

 

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未来に希望が持てません。どう考えて、今後を生きたらいいのでしょうか。

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28歳の男性です。会社では総務に勤務しています。コロナの影響で会社の実績は良くありません。食品関係なのでつぶれることはないとは思いますが、給料も下がり、先が見通せません。未来に希望が持てない状況です。どんなふうに考えたら良いでしょうか。

 

ご質問をありがとうございます。

日本医師会会長が、11月11日の記者会見で、現在の状況を「コロナ第三波」と言われました。春から始まったコロナの影響は、11月の現在、ますますジワジワと忍び寄ってきています。この大きな波から逃げることができる人は、一人もいません。

我慢も限界と感じている人も多いはずです。それは目に見える経済的なことだけでなく、目に見えない精神的なことも含め、「もう限界」と感じている人も多いと思うのです。

精神的に「擦り切れている」状況で、目に見える「不安な状況」を見ると、人は「どうしたら良いか分からなくなる」ことがあります。

 

一緒にしばらく考えていきたいと思うのです。

きっと質問者さんは、転職等も視野に入れているとは思います。(今すぐでなくても)

しかしここでは、質問者さんが書かれているように「どんな風に考えたら良いか」に焦点を絞って「精神面」にフォーカスしていきます。

心が落ち着き、穏やかに周りを見ることができた時、最善の選択や判断ができると、私は信じています。

(パニック、混乱の時には「大きな決断はしない方が良い」と言われます。…そのことは覚えておいてください)

 

それでは、一緒に考えていきましょう。視点が変わると随分と楽になるものです。

今回も三つに絞っていきます。

①人生は「与えられたものだ」と考えること。

②必要なものは「準備されている」と受け止めること。

③「覚悟して」目の前の物事に当たること。

 

①人生は「与えられたものだ」と考えること。

山登りを考えてみたい、と思います。

「目指す山」を見つけ、山道を歩き始めます。

すると、「遠くから見た時」と「違った景色」だと気がつきます。

登山中に思わぬ、にわか雨に遭遇することもあるでしょう。

しかし山頂を目指す者は、それらを乗り越えなければなりません。

 

しかし考えてみると・・・

「山」は自分で造った訳ではありません。

もともとあったのです。

「歩ける」という健康(命)も同じです。

登山ができる体力は、身体のメカニズムがほぼ順調に動いて、はじめて保てます。

当たり前だと思っていても、実は免疫システムが少し故障するだけで、体力も気力も崩れてしまうのです。

また、「この時代に生まれた」ことも、実は自分の力ではありません。

与えられたものです。

もし100年前なら車も道もないので、山に近づけなかったかもしれないのです。

(無理やり考えさせようとしている、と思わないでくださいね。視点を変えるためのものです)

 

自分で頑張ってきたと思っても、

実際は「与えられた状況の中で、選択してきた」と考えた方が正確です。

「会社」のことを考えれば、あなたを採用してくれた人がおられたでしょう。

あなたを認め、引き立てて下さった方がおられると思います。

それらの方々のお膳立てがあってで、あなたは頑張ってこれたのです。

(あなたの頑張りを否定する訳ではありません)

 

実は「自分だけでやってきた」と考えると、

考えに「ズレ」が生まれます。すなわち「高慢」になります。

そして「こんなに頑張っているのだから」「もっと自分を認めるべき」と、

無意識のうちに、「周りに要求」をするのです。

 

「人の恩」は当たり前で、「自分の要求」だけを主張してしまいます。

(心の奥で思っていることは、恐ろしいことに、どこかで必ず出てきてしまうのです。…お酒の席や、追い詰められた時に、その人の本音が出た時、人はそのことをしっかりと覚えているものです)

人間は皆、自己中心で、罪深いのです。

 

ですから、感情にごまかされずに、両目でしっかりと、自分と環境を「冷静に分析する」必要があります。

『自分だけで生きている』のか『生かされているのか』

『自分が環境を作った』のか『与えられた環境』なのか。

自分の「立ち位置」をはっきりさせることが、重要です。

それによって、あなたの「考え方」が定まります。

 

現実が「良く見えてくる」と、「横柄な態度」が取れなくなります。

「感謝の心」が湧き上がるのです。

会社に「感謝」、同僚に「感謝」、

私のブログで、何度かお書きしていますが「感謝のメガネ」です。

「感謝のメガネ」で周りを見ると、「感謝するもの」が見えてきます。

すると、考え方も変わり「気持ちが穏やか」になります。

(やってみてください。必ず効果があるはずです)

 

さて「与えられたもの」と言いますが、今の環境は誰が与えてくれたのでしょうか。

会社でしょうか、家族でしょうか。

確かに人間によって与えられました。

しかしその先は……

理屈で考えれば、最後には「人間を越えた存在」に行き着きます。

(説得している訳ではありませんが……)

 

人間は本当に苦しくなると「神様」と、多くの人が叫びます。

自分を「守ってくれる神様」「助けてくれる存在」です。

あなたは、そういう「自分を越えた存在」を認めますか。

 

 

②必要なものは「準備されている」と受け止めること。

 

エペソ(新約聖書)
2:10 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

 

聖書には、私たち人間は、創造主によって造られた、と記されています。

(創造主とは、この世界を造られたお方のことです)

そして、私たちは「神の作品」であり、神様は「良い行い」も備えられている、というのが聖書の言葉です。

 

つまり、必要なものは、すでに「準備されている」という意味なのです。

そう考えると、楽になります。

「準備されているもの」を見つけさえすればよいのです。

 

今日、朝日新聞の10月31日の記事に目が留まりました。

「なぜ星付きシェフの僕がサイゼでバイトするのか?」(村山太一著、飛鳥新社)

 

東京の目黒でイタリアンレストランオーナーシェフをしている村山さんは、

2015年経営が上手くいかなかった時期に、売り上げ国内一位のイタリアンチェーン「サイゼリア」にアルバイトをし始めました。

そのきっかけは、友人の「全く違う世界を経験すると視野が広がるよ」という助言だったと言います。

しかしそこで、大きな発見をしました。

サイゼでは、まず事業計画を立てて、原価や人件費を逆算して、料理の値段を決めていくのです。制約の中で、いかに人の心を動かすかを緻密な戦略を組み立てていたのです。

 

今までの村山さんは「シェフの造りたい料理」を定め、最高の一皿でお客さんを喜ばせるという職人的な発想だったそうです。

そして客足が減ると「競合店ができたからだ」と言い訳をしていたそうです。

 

しかし経営感覚を身につけた後は、厨房の食器洗いの方法や食材の調達方法を精査し、利益率を上げたそうです。そしてコロナ禍の中でも、スタッフの発想で「パスタ通販」の新事業を立ち上げ、その部門は最初から黒字になっているようです。

 

村山さんは「環境の変化を悲観することなく、新しい何かに飛び込むきっかけにする。それしか生き残る方法はない」と言っておられました。

 

私は、この記事を読みながら「必要な例話が、準備されていた」と思いました。

村山さんは、「友人のアドバイス」を聞いて、それを「実行して」みたのです。

そしてその経験と知識をもとに、「次のアイディア」も「実行して」いったのです。

 

多くの成功者の本を読むと、何げない出会いや言葉から「ヒントを得て」、「実行していった」姿を読み取ることができるのです。

 

「必要なものは準備」されており、後は「歩むだけ(実行するだけ)」と考えると

ずいぶん楽になります。

 

「創造主に与えられた人生」

「必要なものは準備されている」

後はそれを「見つけるだけ」です。

 

 

③「覚悟して」目の前の物事に当たること。

「働かざる者食うべからず」ということわざがあります。

聖書にも同じ意味の言葉があります。


Ⅱテサロニケ(新約聖書)
3:10 私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。

 

食べたい(生活したい)と思う者は、「働かなければ」なりません。

つまり、生きる上では「覚悟して」すべきことをするように、という意味なのです。

 

いくら、「良いアイディア」が与えられても、「何もしなければ」、物事は前進しません。

やるべきことから「逃げていても」解決は遠のくだけです。

 

「覚悟をする」のです。

 

私のことを息子のように可愛がって下さっている、愛知県在住のクリスチャンご夫妻がいます。

ご主人は自営をしていましたが、60歳を過ぎた時に、諸事情でお店を閉じられました。

そして生活の為に、道路工事の臨時警備のアルバイトを始められのです。

久しぶりにお会いした時に、日に焼けて真っ黒になっていましたが、

以前と同じ、穏やかな表情で、私のことを心配して下さっていました。

「いつも祈っていますよ」と言われた表情には、優しさと共に芯の強さを感じさせられました。

 

60過ぎて、お店を自営をされていた方が、熱い夏に外でアルバイトをされることは大変なことだと思います。

人によっては、プライドが傷つく方もいるかもしれません。

しかしご主人は、いつもと同じ表情でした。「自分がすべきとこと」と受け止めて

黙々と仕事をしておられたのです。

そこには「覚悟」がにじみ出ていたように感じました。

「これが神様から導かれた仕事だ」と受け止めている人は、強いのです。

 

 

あなたの周りには、今どんなことが起こっていますか。

「神様が導いておられる道」ならば、進んでいくことができます。

しかしまだそれが見えていないならば、

「今すべきこと」を、コツコツとしていきましょう。

その中で、「必要なもの」「準備されているもの」を見つけるのです。(まずそこから始めましょう)

 

もし自分で「すべて」を切り開かなければいけないならば、

プレッシャーは半端ではありません。

「先も見えない中」では、気力も希望も失せてしまいます。

 

しかし「与えられた人生」ならば、

「すべきこと」を「見つけさえすれ」ば良いのです。

「覚悟」を持っていさえすれば、前に進むことができるのです。

 

 

【最後に・・・】

もし、あなたのことを心配して下さる、アドバイザーがいて下されば、非常に助けになります。(人生の経験を積んだ方がふさわしいです)

 

最初の山登りの話に戻ります・・・

あなたが「どんな山」に登ろうとしているのか、あなたの「目の前の道」にはどんな問題があるのか。

それらを冷静に見て下さるアドバイザーは宝物です。

 

エベレスト山に登る時は、現地のガイドを雇います。

それは「必要だから」です。

命を落とすかどうかの瀬戸際は、「ガイドのアドバイス」によって変わることがあるのです。

 

きっと必要な時には、そのような人を「神様は備えて下さる」と信じます。

(私の困難時も、そういうことが何度も起こりました)

 

一度、ご自分の置かれている環境を、心を落ち着けて、思い巡らせてみて下さい。

(そのためには、日常を離れ、山に登ったり、自然に触れたりする、リラックスできる場所を確保することも有益です)

 

①人生は「与えられたものだ」と考えること。

②必要なものは「準備されている」と受け止めること。

③「覚悟して」目の前の物事に当たること。

質問者さんの見方を少しでも、広げることができたなら、今よりも落ち着いて現状に対応することができるようになると信じます。

応援しています。

またご質問があれば、お伝えください。

祝福をお祈りしています。

良い一日をお過ごしください。

 

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「心の闇」についてです。時々、理屈ではよく分からない恐れや寂しさを感じます。どうしたら良いのでしょうか。

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「キリスト教会に通っている者です。時々夜中に目が覚めて、死にたくなる程、恐れや寂しさを感じることがあります。理屈ではよく分かりません。「心の闇」のことを考えると、怖くて足がすくみそうです。どうしてこんな気持ちになるのでしょうか。そして、どうしたら良いのでしょうか。」(20代男性)

 

ご質問をありがとうございました。

キリスト教会に通っておられるとのことですね。

通っておられる期間や、状況によって多少お答えが変わってくるとは思いますが、

ここでは、通い始めて短い期間と仮定し、お答えさせていただきますね。

(長く信仰を持っておられたとしても、根本的な部分は変わらないですから)

 

昭和中期に活躍された牧師で、榎本保郎という方がおられます。

幼少期にお寺にいつも遊びに行ったことで、尼僧にとても可愛がられて育ちました。

その影響もあり、「自分は正しく生きるのだ」と心に決め、実際に模範的な生き方をしていました。

太平洋戦争(第二次世界大戦)の頃の話です。

彼は、中国満州の戦地に行く前、奥村光林というクリスチャンの友人と出会います。

彼からクリスチャンとなることを勧められますが、「自分のような(正しく生きようとしている)人間には必要ない」と断わったのです。

しかし奥村から「自分の中にある、罪(心の闇)に気がついた時、君は同じことが言えるだろうか」と言われました。

終戦後、兵隊だった彼は満州で殺されそうな目にあいました。そこで自分の命を守るために、強盗、恐喝あらゆることをしたのです。生き残るためでした。

日本に帰って来た後、彼は友人、奥村の言葉を思い出しました。そして「自分は正しい人間になろうと努めたが、正しい人間ではなかった。ただ守られた環境にいたからそれができたのだ」と悟るのです。

彼は後にクリスチャンとなり、その後、牧師となりました。

榎本保郎師は、戦争を通じて、自分の中の、自己中心性、狂暴性、醜さ、すなわち「心の闇」に気がついたのです。

(三浦綾子さんの「ちいろば先生物語」(榎本保郎師の伝記)に詳しく書かれていますので、興味ある方は、ぜひお読み下さい。感動的な内容です。)

 

聖書に、「義人はいない。ひとりもいない」(ロマ3:10)とあるように、

人間には「心の闇」(罪)が存在します。(人は普通、見たくないものです)

人間は「心の闇」を抱えながら生きていますが、普段は気がつきません。いや気がつかないように生きているというのが正確な表現です。

しかし身の危険を感じるような時、その「闇の扉」近くに、押し出されるのです。

普通は、開けずに済みます。

もし開けてしまったならば、「闇の自分」と出会ってしまい、収拾がつかなくなるからです。(誰もが見たくない姿です)

だから普通、人は「闇の扉」が近くに来ても、気がつかないふりをします。素通りするのです。

しかし先ほどの、榎本青年は、満州で「死にそうな目に遭った時」、扉を開けて「自分の闇の衝動」を受け入れ、実行したのです。(生き残るためという大義名分によって)

人はその気になれば、「心の闇」を実行できてしまうのです。(恐ろしいことですが、理性で押さえているだけの場合があるのです。)

 

時には、人間に「闇が迫ってくること」があります。

質問者さんの「夜中に眼が覚めた時」が、まさに「その時」ではないかと思うのです。

 

その闇に慣れていない場合、極端な反応をしてしまうことがあるので、気をつけなければなりません。(特に追い詰められた中での、衝動的な決断は非常に危険なのです)

 

今回のこの文章の目的は、「心の闇」の対処の仕方に慣れることです。

「問題を完全に解決すること」ではないことを、ご了承ください。

解決は、「一生かけてしていく」ぐらいの気持ちでいた方が良いと思います。

 

今回も、3つのポイントに絞って考えていきたいと思います。

①闇の存在を認めること。

(知識だけではなく、感情や実感に焦点を当てること)

②安全な場所に立ってから、闇を見つめること。

③闇の解決は、一度ではなく、幾つもの小さな解決から。

 

 

①闇の存在を認めること。

自分の中に、「悪(闇の力)」が存在することは、「正しくありたい」と願っている人にとっては抵抗があります。しかしこの事実は、否定できません。

先回取り上げた「人を呪う心」を考えてみます。

 

伝道者の書(旧約聖書)
7:20 この地上には、善を行い、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから。
7:21 人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。
7:22 あなた自身も他人を何度ものろったことを知っているからだ。

 

私たちは、簡単に「人を呪い」ます。しかし他人から「呪われる」ことには苛立つのです。耐えられないのです。

これは、二重に罪深いものです。

「呪う罪」と、「二つのものさしの罪」(自分の罪はOkでも他人は許せない)です。

 (人間は、罪深いと思いませんか)

同じように、自分自身を冷静に分析すると、正しいと思うことも、自分だけの正しさである場合が多いのです。


ガラテヤ(新約聖書)
6:3 だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。
6:4 おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。

 

自分の中にある、闇を(明らかな闇、一見正しく見える闇を含む)、知識だけでなく、感情で受け止める必要があります。

 

 

質問者さんは、夜中に目が覚めた時に、どんな恐れや寂しさを感じますか。

それを書き出してみて下さい。

言葉にすると、とてもシンプルになるかもしれません。

死の不安、将来の不安、家族の不安、容姿や能力のこと、お金のこと・・・

そして恐れの感覚、寂しさの感覚を、書き出しながら味わって下さい。

見たくない場合は、見なくても良いです。(無理が無いように)

 

 

②安全な場所に立ってから、闇を見つめること。

悪の研究を、いろいろな学者がしていますが、「注意が必要だ」と言われます。

それは「悪に巻き込まれる可能性」があるからです。

「暴力団担当の警察官」が、段々と「暴力団のような風貌」になるのは、「悪の影響を受けるから」だと言われます。

 

ですから、自分の「心の闇」を扱う時には、「安全を確保」してからでないと危険です。

「安全を確保」とはなんでしょうか。それは「闇」に「はまっても」大丈夫と言える状況です。

 

機嫌の悪い人が近くにいて、あなたに暴言を吐いた場合、

聞いているあなたは、影響を受けてしまいます。

いわゆる「売り言葉に買い言葉」です。

暴言を吐かれても、動揺しない平常心が必要です。

 

そんな確かな支えを、質問者さんは、どこで見つけますか。

あなたの支えは、どこにありますか。それを考えてみて下さい。

自分の才能ですか。自分の積み上げた努力ですか。結果や評価ですか。

 

私なら、「神様の子としての立場」と「神様の愛情を体験すること」と答えると思います。

自分の立場(価値)がはっきりしており、心が良いもので一杯になっている場合、機嫌が悪い人が近くにいても、

「あまり気になりません」

 

「おぼれた人」を助ける場合、陸地から「浮き輪を投げる」のが最も安全です。

しかし水に飛び込まなければならない場合、「浮き輪」をつけて飛び込むと安全です。そして何かあれば「陸地に引き上げてもらえる助け」が必要です。そういう人がいれば、危険ならば引き上げてもらえます。

 

そのような支えを私たちは必要としています。

 

イエス様を信じ、イエス様との関係が深まると、

「愛されている」「必ず助けて下さる」という実感を持つことができます。

 

しかし、それは「罪の感情に苦しみ」と、そこから「助け出されたことによって」

深まることが多いのです。

 

イエス様が「多く赦された者は、多く愛するようになる」(ルカ7:47)と言われたことは本当のことです。

 

再度書きますが、この文章の目的は、「心の闇」の対処の仕方に慣れることです。

そして「闇の存在」を認めても、「解決の道があるのだ」と知って頂くことです。

「安全な支え」があるならば、必ず「解決に向かい」ます。

 

誤解が無いように、言いますが

「心の闇」を身近に感じたことは、質問者さんにとって「プラス」となります。

それは、もともとあったもので、質問者さんが「今まで気がつかなかった」だけなのです。

教会に通っておられる質問者さんは、イエス様や神様のことを聞いておられると思います。そして支えがあることも知っておられるはずです。

 

だからこそ、今のタイミングで、「心の闇」が浮き上がってきたと考えられるのです。

 

そしてその「心の闇」はこれから解決していきます。

その「恐れ」と「寂しさ」が癒される過程を通じて、

あなたは「神様の愛(平安)」と、「神様からの喜び」を深く(実感を持って)体験できるのです。

 

③闇の解決は、一度ではなく、幾つもの小さな解決から。

ですから、焦らないようにしましょう。

 

こういう時、クリスチャンは「気がついた罪(心の闇)」を、十字架につける祈りをします。

(罪をイエス様に委ね、お渡しする祈りです)

 

恐れ、不安、痛み、苦しみ・・・

すべての感情をイエス様に告白し、明け渡すのです。

すると、イエス様の十字架の赦しの力によって、

それらの苦しみ(感情)が、

解きほぐされ、昇華されて(聖められて)いくのです。

 

あなたの「恐れ」や「寂しさ」が一つずつ、「聖められていく」ことを通じて

あなたの心に「愛(平安)」と「喜び」がわき上がる筈です。

 

①自分の中に「闇の心(罪)」があることを潔く認めましょう。

 その苦しみの感情を味わいましょう。

②「確かな支え」をしっかり持って「闇」に対処しましょう。

③「聖め」が一つずつ起こる中で、愛と喜びが一つずつ増し加わることを、体験しましょう。

 

どうでしょうか。気が少しは楽になったでしょうか。

「心の闇」に気がついても、大丈夫です。

むしろ、その解決の方法があり、解決をする度に、恵みが増し加わることを期待しましょう。

 

イエス様は死に打ち勝たれたお方です。

あなたの「心の闇」にも、イエス様は対処することができるお方です。

ですから「恐れる必要」はありません。

 

一番悪魔が喜ぶのは、あなたが「心の闇を否定」し、備えることをせず、追いつめられた時に「闇に支配される」ことです。

ここまで読んでくださった質問者さんには、イエス様の守りによって、そんなことは絶対に起こらないと信じます。

 

質問者さんの守りと、今後の導きをお祈りしています。

良い一日をお過ごしください。

またご質問があれば、お知らせください。

 

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月曜日の朝が憂鬱です。職場で反発してくる同僚がいます。関係を修復したいとは思っていますが、正直、気が滅入ります。どう考えたら良いのでしょうか。

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「30代男性です。職場の同僚で、何かにつけて反発してくる人がいます。その原因のの一つは、私が失敗をしてその人に迷惑をかけたことだと思いますが、それ以降嫌われたようで、何かにつけて刺がある対応をしてくるのです。同じ職場でもありますし、何とか良い関係に修復したいとは思いますが、休み明けの月曜日朝が憂鬱です。どうしたら良いでしょうか。アドバイスをお願いします。」

 

ご質問をありがとうございました。

月曜日朝が憂鬱なのですね。

狭い職場では、(考え方が違う人間同士)いろいろな人間関係や問題が起こります。

同僚は、無視することのできない関係ですので、この状態はお辛いことでしょう。

修復を願っておられる質問者さんですから、きっと良い方向に向かっていくと信じています。(お祈りします)

 

今回も3つのことを一緒に考えながら、質問者さんの課題を一緒に考えていきたいと思います。

 

今回の3つの点は、

①人の考え方を変えることはできないので、基本は現状を「受け入れること」。

②反省すべきことがあれば、「反省すること」。

③尊厳性を失う考え方はしないこと。「自分の尊厳性を保つこと」。

 

それでは、一緒に考えていきましょう。

①人の考え方を変えることはできないので、基本は現状を「受け入れること」。

 

旧約聖書の、ソロモン王は、伝道者の書の中で、実に深いことを語っています。
伝道者の書(旧約聖書)
7:20 この地上には、善を行い、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから。
7:21 人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。
7:22 あなた自身も他人を何度ものろったことを知っているからだ。

 

ソロモンは「人の言葉をいちいち心に留めないように」と言っています。

その理由は、「あなた自身も、簡単に人を呪う(批判する)存在だから」

 

自分自身が、何度も「人を呪う」ことを自覚したならば、

人が「自分を呪う」ような言動をしても、「仕方がない」と思うのです。(そうでなければ、フェアー(平等)ではないです)

ですから、「批判されても仕方がない」と受け止めるしかないのです。(辛いことですが、これは事実です)

 

しかし質問者さんを「嫌っている」同僚の方にも、何かしらの「課題」があるように思えます。

 

私のブログで、何度も書いていますが、

批判する時には、(特に感情的に批判する人には)

「その人自身のコンプレックス(整理できていない感情)によって」、批判している場合が多いのです。

 

つまり、「質問者さんの失敗」や「振る舞い」は、

「ボタン」なのです。

ボタンを押してしまう「同僚の方の心」に、何かしらの「原因」がある場合が多いのです。

 

私の昔の知り合いの女性は、

「女性が恥ずかしげもなく、大食いをしていると、ものすごく腹が立った。」と言っていました。

その人は自分を冷静に分析していたので、

「私がたくさん食べたいのをいつも我慢していたから、本能(衝動)に任せて行動する同性が許せなかった」と言っていたのです。

 

腹が立つ時には、自分の中の「コンプレックス(押し込まれた感情)」がうずいていることが多いのです。

 

「許せない」という感情を持っている人でも、

自分の感情(こころ)が「整理されている人」ならば、あまり過激になりません。

なぜなら、お互い様(自分だって失敗する)と知っているので、人を攻撃できなくなるのです。

 

しかし自分の感情が整理されていないと、

「許せない行動を取った人」を徹底的に攻撃します。(表面は、穏やかな仮面をかぶっていたとしても、心の中では、しっかりと攻撃をします)

 

自分(のこころ)が見えていないので、二つのものさしでも平気なのです。

(人は批判するが、自分は批判しないという、二つのものさしです)

 

感情的に批判することは、

冷静に分析すると「自分が許さないこと」を「正当化」する行為でもあります。

(自分は間違っていない、間違えたくないという、偶像(虚像)に立った歪んだ考え方です)

 

ですから「批判し続けること」は、「その人自身の課題(問題)」と言えるのです。

 

そのため、それに過剰に反応することは「相応しく」ありません。

むしろ、いままで質問者さんがしてきたように

上手に「さらっと」受け流していくことが、大事なのです。

 

人の心は変えられません。

人の批判も変えられません。

それを受け入れて、対処していくことが一番相応しいことなのです。

 

 

②反省すべきことがあれば、「反省すること」。

しかし、反省すべきところは、反省していかなければなりません。

先ほどの伝道者の書に
7:14 順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。

とあります。

 

人間は自己中心にできていますから、すべて自分の思い通りに進むと「これでいいのだ」と思い込んでしまいます。

しかし逆境が起こると「何が問題だったのか」と反省します。(神様の与えられた時です)

 

そのことによって、自分の言動をもう一度確認し、自分自身を吟味することができるのです。(そのことによって、思慮深い大人へと成長できます)

 

 

③尊厳性を失う考え方はしないこと。「自分の尊厳性を保つこと」。

反省した後は、「割り切ること」も大切です。

 

クリスチャンであれば、悔い改めた後には、それ以降「以前の罪」を何度も思い出して「責めること」は、してはいけないという意味となります。

「神様が赦して下さった自分」を、更に責める(裁く)ことは、してはいけない行為です。(神様の赦しを無視することになりますから)

 

以前、クレーマーに対処する方法について書かせて頂きましたが、

謝罪は「全面的な謝罪」ではなく、「部分的な謝罪」に限定すべきです。

 

「あなた自身の失敗(行為)」は謝罪しても、

「あなた自身の尊厳(存在)」までも否定してはいけません。

 

あなたは、仕事上で良いこともたくさんしてきたはずです。

それをすべて否定するような言動は、おかしなことです。

「失敗」した部分は、素直に謝罪しても、

「それ以外」で卑屈になることは気を付けるべきです。

 

あなたは頑張っています。

努力をされています。(ですよね)

それは「正当」に評価すべき点です。

 

それを色眼鏡で「けなす行為」をする人がいたならば、「おかしなこと」なのです。

 

時に、人は自分を正しく評価してくれない場合があります。

しかしこの時が「踏ん張りどころ」です。

 

隠れたところでした、あなたの努力を「神様」は見て下さっています。

そして何人かの会社の同僚も、それを見ておられると思うのです。

 

あなたを評価してくれる人は必ずいる筈です。

ですから、投げやりにならず、コツコツとすべきことをしていくのです。

 

月曜の朝は、そんな気持ちで職場に入って行けたらいいですね。

 

①人の言葉は、過剰に気にしない。

②反省すべきことは反省する

③自分の尊厳はしっかりと守る。

 

「あなたの尊厳」を守るのは、「あなたの考え方」にかかっています。

ぜひこの一週間、そのことを意識してください。

 

あなたは価値があり、大切な存在です。

神様はそう見て下さっていますし、あなた自身もそれを受けとめて生きる時に

「素晴らしい一週間」となるはずです。

 

祝福をお祈りしています。

 

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クリスチャンの友人から、「神様、イエス様の愛を知ると人生が変わる」と言われました。どういうことでしょうか。

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「クリスチャンの親しい友人がいます。私自身はキリスト教徒ではないのですが、その友人とは、長く関係が続いています。先日彼女から、「神様の愛を知って人生が変わった」と言われました。彼女とは宗教的な話はほとんどしませんので、敢えて質問はしなかったのですが、正直気になっています。一人一人の体験違うとは思いますが、一般的に、どういう体験なのか教えていただけますか。」

 

ご質問をありがとうございました。

クリスチャンの親しいご友人がおられるのですね。

きっと良いご友人なのでしょうね。その方は質問者さんのことを大切に考えてくれているのだと思います。信仰は個人のものですから、ご友人は、質問者さんの意志を尊重して「敢えて宗教的な話題に触れない」ように心がけているのだと思います。

ぜひ機会があれば、そのご友人に直接聞いてみて下さい、きっと喜んで話してくれると思います。

 

さて、質問者さんも書かれているように、「神の愛、イエス様の愛に触れた時」の体験は、個々人で違います。

ここでは、必ず体験するだろう、3つのことを書いていきたいと思います。

①「自分の全存在が、支えられている」という体験。

②「生きる目的と力」が与えられる体験。

③「不思議な愛情や知恵」が与えられる体験。

(その他、たくさんの体験があるとは思いますが、今回はその3つに絞ります。特に①が今回の中心です)

 

①「自分の全存在が、支えられている」という体験。

「たいせつなきみ」という絵本があります。(マックス・ルケード作、いのちのことば社)

 

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木の小人の国(ウイミックス)の話で、主人公はパンチネロと言います。

(聞いたことはありますか。)

 

その国では、互いの身体にシールを貼りながら生活をしています。

相手が凄いと思えば「金色の星シール」、ダメだと思うと「灰色のダメシール」

主人公はいつも失敗ばかりをしているので、カラダに「ダメシール」をたくさんつけられていました。

ところが、ある日、パンチネロは、ルシアというウイミックスの少女に出会うのです。

彼女は「ダメシール」を一つもつけていません。それどころか、「星シール」も一つもつけていないかったです。

ルシアに「丘の上の、私たちを作った彫刻家のエリの家に行ってごらん」とに言われ、パンチネロは出かけます。

そこでエリから、「たくさん『ダメシール』をつけてきたね。私のところに毎日通ってごらん。大切なのは、『仲間のウイミックスがどんなシールを貼るかではなく』、『私がお前のことをどう思っているか、そしてお前がそれを信じるかどうか』なんだよ」と言われるのです。

その部屋から出る瞬間、パンチネロのたくさん貼られた「ダメシールの一枚」が、コロンと剥がれて落ちるのです。

 

ぜひ、本作品をお読み下さい。感動モノの絵本です。

作者は、アメリカで牧師もしている方ですので、「神様の愛」をテーマとした作品となっています。

 

ある方は、久しぶりの同窓会に出て、懐かしい反面、とても嫌な思いをしたと言われました。

男性は、会社の規模や出世。女性は、結婚や子供や若さ等。まるで猿山のサルのように「マウント(上下の確認)をする人がいて、悲しくなったと言っていました。

でも、その方が一番悲しく感じたのは、自分の中にも、隠してはいても、同じ比較の思いがあり、「あの人より上よね」「あの人には負けたわ」と心では思っていたこと。参加前に、肌の手入れやダイエットをしたことも思い出し、「自分自身にも悲しくなった」と言われたのです。

 

私たちは、比較の中に生きています。そして「優越感で安心」したり、「劣等感で落ち込んだり」するのです。

「花はそれぞれの花で美しい」と言いながら、無意識のうちに「格付け」をしているのです。

 

ここで、「本気で」、「創造主である神様を信じる」価値があります。

(この「本気」というのが、大事です。「知識だけ」では、比較の縛りから抜け出せません)

 

創造主を知り、その「価値観」を知り、その「愛情」を体験すると、「創造主のお考え、愛情」が心の中に浸透してきます。

そうすると、「あなた自身の考え方」が「変えられる」のです。

「自分の全存在が、支えられている」ことが、理屈ではない、実感で分かるようになるのです。

 

すると……。

「自分の価値」を比較で見なくなっていきます。(この解放感は、凄まじいものです)

「自分」を創造主の愛で、「慈しむように」なります。(この温もりも、素晴らしいです)

「比較しなくていい」……自分が「そのまま愛されるという実感」は、確実に「人生の土台」を変えるものとなります。

多くの神様の愛に出会った方は、このことを体験して、「人生が変えられた」と言われるのです。

 

これも導き(神様のお膳立て)と考えて、一度クリスチャンのお友だちに、「神様の愛を知った経緯」を聞いてみてください。きっと素晴らしいお証を聞けると思います。

 

 

②③は、「神の愛」を知ったおまけのようなものです。

 

②「生きる目的と力」が与えられる体験。

聖書によれば、

人生は、偶然ではなく、与えられたものです。

ですから、「人生には目的」があります。

それが分かる時に、「生きる力」が湧き上がります。

それを、神様と一緒に生活しながら、一つ一つ発見していく、人生は「宝探し」のようなものなのです。

 

以前も書きましたが、私はクリスチャンになる前、「なぜ生きるのか」と真剣に考えていました。

生きる目的などは無いのでは、と思った時、全てが虚しくなったのです。

伝道者の書(旧約聖書)
1:1 エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。
1:2 空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
1:3 日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。
1:4 一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。

これはソロモン王の言葉ですが、私も同じような心境でした。

 

しかし、イエス様を信じることができた時(自分で信じたというよりも、信じられるようにしてもらった、が感覚として近いです)、心の中に希望に光が灯ったのです。


エペソ(新約聖書)
2:10 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

 

「神様に造られたこと」「自分の人生にも計画があること」「良い計画があること(それをする力も与えられること)」を知った(解った)時、嬉しくって涙が出そうでした。

(こんなお話をすると、時間がいくらあっても足りません・・・)

私自身も「神様を知り、イエス様を信じたこと」によって。「人生が変えられた」一人なのです。

 

 

③「不思議な愛情や知恵」が与えられる体験。

イエス様を信じるようになり、「お祈り」と言うものを覚えました。

それは最初は、一方的に語る「お題目のようなもの」だったのですが、

祈りは「神様との交わり」と教えられてから、「神様との人格的な愛情の交わり」を体験できるようになりました。

 

「愛されると、愛することができる」と言われます。

神様の愛が実感として「分かる」と、人々へ優しさ(愛情)も、自然と増し加わることに気がつきました。

 

神様に「受け入れられているから」、少しは人を「受け入れられるように」なる。

「赦されているから」少しは「許せるように」なる。

「たくさん愛されているから」、ほんのちょっとだけ「愛が増し加わるように」なる。

 

こんな感じです。(頑固なので、ほんの少しづつだった・・・です)

でも「毎日祈る」と、確かに「いろいろな神様からの助けが与えられる」のです。

 

実はこのブログも、祈りながら書いています。(もし、読んで得るものがあったとすれば、それは神様からの智恵です)


Ⅰコリント(新約聖書)
12:8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、

 

ルカによる福音書(新約聖書)
12:12 言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。

 

私の知人が、アメリカに留学した時、ホームステイ先がクリスチャン家庭でした。

信仰も神様もイエス様も全く知らなかったのですが、その家庭の暖かさに、特にクリスチャンのお母さんの暖かさに触れました。

彼女はそこで、お母さんからイエス様のことを教えられました。片言の英語しか話せない彼女でしたが、なぜだが「神様の愛」が分かったというのです。

英語の単語を通じて、「不思議な温もり」が彼女の心に注がれ「彼女は神様を信じ、Jesus(イエス様)を信じました。

 

神様を信じると「不思議な愛情や知恵」が与えられます。

こんな「プレゼント」を、質問者さんも頂きたいと思いませんか。

リンゴを知るには、見ているだけでは分かりません。食べてみることです。

そうすれば、酸味も甘みも分かります。

 

ぜひ、クリスチャンのお友だちに、いつか質問してみて下さい。

「あなたは神様を信じて、どんなふうに人生が変わったの?」

 

もしかすると、神様はあなたの人生の中で、「そのご友人と出会うよう」に計画して下さったのかもしれないのです。

 

質問者さんの、これからの「人生の祝福」をお祈りしています。

 

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いつも追い立てられているようで、疲れています。仕事が終わるとぐったりしています。再度の質問ですが、アドバイスをお願いします。

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「昨日、アドバイスを頂いた経理事務の者です。文章を何度も読む中で、自分の心を見つめ直すヒントを得たように思います。出来るだけエネルギーを浪費しないように生活したいと思います。ありがとうございました。もう一つ質問せて頂きたいです。実は、仕事でも生活でも、いつも追い立てられているように感じています。特に気が乗らない仕事の後は、ぐったりすることが多いです。人のことを気にし過ぎなのでしょうか。アドバイスをお願いします。」(40歳女性)

 

お返事と再度のご質問をありがとうございました。

先回の文章を読んで頂いて、少しでもお役に立てたようで、嬉しく思います。

今回も、しばらくお付き合い下されば幸いです。

 

先回と今回のご質問から、多分、質問者さんは、慢性的にエネルギー不足に陥っていると思います。

それでも、きっといつも気力を振り絞って、お仕事をされているのではないでしょうか。

精一杯ガンバっておられるお姿を想像します。(応援しています)

 

今回は、「エネルギーに満たされるために」というポイントで2つ、一緒に考えていきたいと思います。

①「リセットする」こと。

(外からの悪感情を断ち切ること)

②「自分を大切にする」こと。

(どれほど外から雑音は入ってきても、自分を大切にし続けること)

 

最初のポイントは①「リセットする」ことです。

質問者さんは、周りの空気を読むことに敏感な方のように、見受けられます。

きっと、いつも無意識に。「アンテナを張って」生活しているのではないでしょうか。

 

「いつも追い立てられている」ということは、いつも周りの情報を(無意識であっても)、キャッチし続けていると思うのです。

「ある人の感情」に焦点が合ってしまうと、気になってしまいませんか。

「外部の人の感情」と、「ご自身の感情」を比較した時に、外の情報を強く感じすぎて、無意識にいつも入れてしまう・・・そんなことが習慣になっている可能性があります。

 

「外からの感情」に繋がってしまうと、どんどん情報が入り影響を受けます。

(エネルギーもどんどん消費してしまいます)

ですから、まず「感情のつながりをリセット」することを考えましょう。

 

もし許されれば、一旦その場所を離れましょう。

そして深呼吸をしたり、飲み物を飲んだり、音楽を聴いたり、好きな文章を読んだり・・・五感を使って「違う刺激」に触れるのです。

一旦リセットできると、「つながり」から解放されます。

ですから「リセットするんだ」「リセットできるんだ」ということを覚えておいてください。

何度かチャレンジしている内に、「上手く」なっていきます。

場所をわざわざ離れなくても、簡単に「リセット」できるようになることでしょう。

大事なことは、過剰に「つながり続けない」ことです。

つながり続けるか、自由になるかは、「あなたご自身の選択」なのです。(重要です)

 

 

また現在の質問者さんは、「慢性的に疲れている」と思われます。

疲れてくると当然イライラします。

 

ですから、もし時間があれば(「時間をつくって」と言ったほうが正確ですが)

一度どこかで「大きなリセット」すると良いと思います。

おいしい食事を食べたり

温泉に入ったり

自然や芸術に触れたり

たくさん眠ることも良いでしょう。

 

「大きなリセット」できた「しるし」は、「もう一度頑張ろう」という気持ちになれることです。

そこまで、一旦休息(リセット)しましょう。

(質問者さんが元気になれることをお祈りしています)

 

それでは次のポイントに移ります。

②「自分を大切にする」こと。

「えっ、自分を大切にする・・・そんなこといつでもしているよ」と言われるかもしれません。

しかしよく考えて下さい。

「周りの人」の言葉や感情によって、あなたは「過剰な情報」を受け取っているのではないでしょうか。

誤解が無いように言いますが「暴力的なほど」感情を受け取っていると思います。

 

あなたが「自分を守りたく」ても、

それ以上に「外からの感情」が迫ってきたならば、質問者さんは堪えられず、「外からの感情を入れてしまう」と思うのです。

 

この時に重要なことは「自分を大切にする」ことです。

(そうすれば「外からの感情」を止めることができます)

どれほど「外から激しく感情」が迫ってきても、それでも「自分を大切にする」のです。

(「自分の感情」を守るのです)


箴言(旧約聖書) 4:23 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。

 

「自分を大切にする」ことも「断ち切る」と同じく、質問者さんの「選択」によって可能です。

(このことは、はっきりと覚えて下さい。自動的に入ってくるのでは「ない」のです)

 

そしてその根拠は、「あなた自身が大切である」という「絶対的な確信」です。

 
イザヤ書(旧約聖書)43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。

(あなたを造られた神様が、あなたをどのように見ておられるか、が記された箇所です)

 

できるだけ「楽しい」ことを経験しましょう。

「良い感情」が湧きあがることを、日常的に意識しましょう。

そのために、「良いもの」に触れ続けましょう。

(良いもの・・・創造的なもの、神様の愛や、大自然や芸術作品など・・・に触れると良いです)

 

最後に需要なことを記します。

「自分を大切にする」とは

「良い感情に立ち続ける」ということも含まれます。

(良い感情・・・肯定的、健康的感情と言い換えることもできます)

 

人から、仕事を請け負うとします。

それを「イヤイヤする」のと、

目的と効果を考えて「前向きに、喜んでする」のは、

同じ仕事を終えても、精神的な結果(効果)は全く違うのです。


ガラテヤ(新約聖書)6:7 人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
6:8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

 

「良い感情(前向きな喜びの心)」で物事をしていくと、「力が湧きあがって」来ます。そしてたとえ失敗をしたとしても、「次があるさ」と前向きに考えることができるのです。

反対に「イヤイヤ」「否定的な感情」で仕事を始めると、ミスが起こると、不健康(不機嫌)な思いにあふれて、疲れてしまうのです。

あなたが落ち込むと、周りの否定的な感情を吸い込んでしまします。

(感情が「下に沈む」と、悪感情が泥水のように流れ込んできます)

 

ですから、どんなことをするにしても、「(健全な)心を準備してから」

(明るく高い、安全な場所に立ってから)

始めるように、心がけて下さい。

 

今までの質問者ご自身の習慣(行動のパターン)があるでしょうから、最初は少し頑張って意識しなければならないかとは思います。

しかし次第に上手になっていくはずです。

(信じて下さい)

 

 

今回のテーマは、「エネルギーに満たされるために」でした。

そのために

①「リセットする」こと。

(外からの悪感情を断ち切ること)

②「自分を大切にする」こと。

(どれほど外から雑音は入ってきても、自分を大切にし続けること)

 

特に、最後に書いた「良い感情」に立ち続けて生活することを心がけて下さい。

できるだけ「ざわついた感情」で、仕事をしないように、

「健全な心を準備してから」始めるように、心掛けて下さい。

 

質問者さんが、(周りの「雑音」があったとしても)

光とエネルギーに満たされ、質問者さんらしく生きていかれることを

(仕事も、疲れずに、こなすことができることを)

お祈りしています。

 

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