今日、朝目が覚めた時、頭の中に、
「今日は誕生日、イエス様が命を与えてくれた日。最高の感謝を捧げよう!」
と言葉が浮かびました。
イエス様を信じて、約30年になりますが、
イエス様の愛が、こんなにも「私を支えて下さっている事実」に驚きます。
今朝は、「愛されている」という実感、その強力な力、
について思索してみます。
以前お話しした「非常階段の話」の続きです。
私は高所恐怖症です。
6階以上の非常階段は、足元がすくみます。
(周りの景色が恐怖です。)
以前のお話は、
「この階段は頑丈だ、頑丈だ!」と念じて(笑)、
「階段に集中する」と何とか通ることができる、と書きました。
先日、気がついたことがありました。
「階段に集中」していると、
今までのように、手すりにつかまることがなくなりました。
(以前は命綱のように、力が入っていました。)
時々、顔を上げて通ることができるようになりました。
そして顔を上げると、遠くの山が見えたのです。
(雪が積もる、とても綺麗な山でした。)
その時、気がつきました。
「私は、恐怖のあまり、こんな綺麗な山を見落としていたんだ」と。
「愛されている」と言うことは、この「非常階段」と似ています。
外を見ると、色々な現実が見えてきます。
「非常階段に不安」を感じると「落ちるのではないか」と恐怖を持ちます。
しかし「この階段は、絶対に安心」と思えると、
不安がなくなります。周りを見る余裕ができるのです。
「恐れていたもの」が、全く別の「綺麗な景色」に変わるのです。
重要なことは、「見える景色」では無いのです。
「支えてくれる階段」を感じることが、重要なのです。
仮に、両親から捨てられる(周りの人から理解されない)状況にあったとしても、
「絶対的に支えて」下さる、「神様」という存在が、
私を下支えして下さる時に、
私たちは、「恐怖から解放」される、のではないでしょうか。
「愛されている」実感の力です。
詩編27:10「私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。」
イザヤ49:15 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」
あなたの「恐怖」も、見方を変えると「素晴らしい景色」 になるかもしれません。
「絶対的な支え」は、日常では求めません。必要がないからです。
「恐怖」を感じる時に、「絶対的な支え」を求め、それを「体験できる」のならば、
「恐怖」にも、「意味がある」と思うのです。
「絶対的な支え」「愛されているという実感」
そのことを体験できる人生は、素晴らしいものです。
「誕生日」は、「お祝いして貰える日」だけでなく、
命を与えて下さったイエス様に「感謝を捧げる日」でもあると、実感しました。
祝福をお祈りしています。
「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは【主】から来る。天地を造られたお方から。 」詩篇 121:1-2
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