人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から

世界のベストセラー聖書の価値観から、生きるを考えます!(モノの見方が変わると、とても楽になります)

「自分を正しい」と思い込んでいる友人がいます。どのように対応したら良いでしょうか。

f:id:jesuslovesmeus:20210503152539j:plain

クラスメイトの友人のことで相談です。

彼女は、遅刻常習犯で、自由な性格の人です。とても明るいのですが、すぐに気が変わってしまい、一緒にいると、振り回されてしまいます。自分の話しかしません。「自分は良い人です」アピールが凄いです。

昨日、1つの頼みごとを断ると、「いいのよ〜」と笑っていたのですが、陰で「〇〇ちゃんって心が狭いよね」と話しているのを聞いて、ショックを受けました。

私と話している時も、よく人の悪口を言っているのを思い出しました。

あと、少し前に、彼女のことを意見(アドバイス)をしたことがありましたが、もの凄い勢いで「自分は正しい」と反論してきました。しばらく私を無視していましたが、最近また私に頼みごとを「普通に」してきました。

前に「親は何でも自分の言うことを聞いてくれる」と自慢をしていたことを、思い出しました。わがままなのでは、と考えています。

最近彼女と話しをすることも、つらくなってきましたが、陰で何をいわれるかと考えると、どんな風に関わったら良いか悩んでいます。アドバイスよろしくお願いします。

 

ご友人の相談ですね。

ご質問をありがとうございました。

質問者さんの文章を読んでいると、とても「傷つかれた様子」が伝わってきました。

ご友人の性格が「自己中心」で、質問者さんを振り回しているようですね。

質問者さんは、このあとどう対応したら良いかを、悩んでおられるとのことですから、

しばらく、ご友人のことを一緒に考えていきたいと思います。

 

その上で、お二人の関係を近づけていくのか、距離を保っていくのかの、

判断をしていかれたらと願っています。

 

人は基本的には「自己中心」ですが、付き合うには許容範囲があります。

「ここまでは付き合える」と言う範囲と限界があるのです。

 

本題に入る前に、1つ気になったことがありました。

ご友人の特徴をお聞きすると、もしかすると、ご友人は「多動傾向」があるのかもしれません。

 

元アナウンサーで、エッセイストの小島慶子さんと言う方がおられます。

40歳を過ぎてから、軽度のADHD(注意欠如、多動症)と診断された方です。

小さい頃から同じことの反復が苦手で、アナウンサーの研修時に、退屈でいつも寝てしまったと言います。(凄い話ですが、、)

彼女は、いつも頭の中では物凄いスピードで思考が回転しており、興味が次から次へと移ってしまい、上書きされると前のことは忘れてしまうそうなのです。

アナウンサーの職場が、自由な社風だったので続けられたようですが、厳しい社風だったら一年も持たなかったと、ご自分で言われています。

 

もし、ご友人がADHD傾向があるとすれば、悪意なく「前のことは忘れてしまい」、

「自分の話だけしかしない」タイプです。(そういう脳の作りの方です。)

そう言う方の中には、優れた才能を持っている方もおられますので、

質問者さんが、ご友人の特徴を受け入れられる範囲でお付き合いされたら宜しいとは思います。

 

ただし質問者さんの文章を読んでいると、

ご友人は、

「自分は良い人アピール」が強く、

「人の批判」が好きで、

「自分は正しい」と思い込んでおり、

「親からワガママ」に育てられた可能性が高い、

ということですから、仮にADHDだったとしても、人格的に未成熟な可能性があります。

(まだ学生でお若いですから、どれだけでも成長していかれるでしょうし、そのことを期待しています。)

 

3つの観点で考察していきます。

①「自己愛が強い人」の特徴。

②自分を正しいと思い込んでいる人は「現実を直視できない」。

③わがままな人は、自分の「思い込みの世界を守る」ために、逃げたり人のせいにする。

 

その上で、質問者さんが「どのような距離感でお付き合い」をしたら良いかを、

考察していきます。

 

今回は、①「自己愛が強い人」の特徴、だけ触れていきます。

以前も書いたことがありますが、自己愛が強い人には、あるバイアス(偏り)がかかっています。

自分を大切にするあまりに、自分の都合の悪いものは、無視したり排除したりするのです。

その認知のバランスが悪いのですが、本人はそのことに気がついていません。

(簡単に言えば、そういう人は、他人からは「どうしようもない」となります。)

 

ご友人は「人を無視すること」がありますか。

「あなたの言葉や意見」を無視するように感じることがありますか。

もしそのように感じることが多いならば、

説得しようとしても難しい可能性が高いです。

ご本人が「見たくない」と無意識にあっても、結論を出しているからです。

 

「食事」を 無理やり食べさせようとしても無理なように、

「客観的な事実」であっても、受け入れたくないと考えている「矮小な心」には、

「受け入れること自体」が難しいのです。

 

人の心は変えられませんから、(相手の可能性を信じつつも)

その事実を土台(前提)として、対処していかなければなりません。

 

「こちらが良いことをすれば応えてくれる」とか、

「話し合えば、必ず分かってくれる」という、

相手の善意を前提とした考えは、「通用しない」ことがあるのです。

 

そうでないことを願いますが、「通用しない人もいる」ということも視野に入れて、対応することが必要なのです。

(参考にしてみて下さい。)

 

箴言(旧約聖書)4:23

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」

(別訳)「どの宝にもまさって、あなたの心を守れ。それは、あらゆる命の源だから。」

 

次回は、②と③に触れていきます。

祝福をお祈りしています。

 

にほんブログ村 その他生活ブログへ

にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

もし気に入って頂けたら、たくさんの方に読んで頂くために、クリックの御協力をして頂けると幸いです。(一日一回カウントされます)

人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から - にほんブログ村

読者登録をして下されば、新しい記事を自動的に知らせてもらえます。(無料ですが、はてなブログの登録が必要です。)

 

もう一つ別のブログランキングです。(こちらもクリックして頂くと助かります。一日一回カウントされます)

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 


人気ブログランキング

 

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑

こちらをクリックすると記事一覧を見られます。

【コラム】天の願いを考える人は、どのような人か(本題その3)

f:id:jesuslovesmeus:20201028231559j:plain
 「天の願いを考えることができる人」は、どのような人かについて考察してみます。

 

今回は最初に聖書の一節を掲載します。
Ⅰヨハネ(新約聖書)4:20
「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」

 

この聖句から分かることは、

「人を愛すること」と、「見えない神様(天)を大切にすること」は、「比例する」という事実です。

 

もしあなたが「優しい人」であり、「周りのことを考えて」生活している人であれば、

「神様の願いを受け取る」ことができる確率が、非常に高くなります。

 

「人のニーズ」に応えようと考える人、

つまり「人から願われた役割」を果たしたいと考えている人は、

「神様からの使命」を知る可能性が、非常に高くなります。

 

何でも受け入れる「イエス・マンになれ」ということではありません。

(「イエス・マン」では心の奥の感情が伴いませんので、最終的には爆発したり反抗するようになります。)

 

はっきりと知らなければならないことは、

神様は、私たちを「奴隷のように支配」したいのではありません。

私たちが「自分の意志」で考えて、「主体的に行動する」ことを願っておられるのです。

(そういう意味では、「支配欲を持った人間に依存する」関係とは全く違うのです。)

 

神様は「私たちの意志を尊重」されますから、

神様は最初に、あるアクションをされて「しばらくそのままにしておく」ことがあります。

私たちが「本当は何を考えているのか」「本当はどうしたいのか」、

それを明らかにするまで、「待っておられる」ことがあるのです。

 

その期間は「見捨てられた時」ではないのです。

神様は目を開いて「あなたを見守っておられる時」なのです。

 

ここには、人間側の「成熟」が要求されます。

「承認欲求が強い人」の場合、待てません。

彼らは、自分をゴマ化している場合があります。

「人のニーズに応える」と言いながら、

実は「自分の利益」のために行動していることが、多いのです。

(だから待てないのです。)

 

「あなたのため」と言いながら、

利用するための「美しい言葉」だったり、

自分は優しい人、良い人だと思われたいという「人からの評価のため」だったり、

自分は優しくて素晴らしいという「自己のイメージを、証明するため」の行動だったりすることがあるのです。

(これを「偽善」と言います。)

 

人を願いを知るためには、「感情の成熟」と共に「理性的な働き」が必要になります。

 

古典的名著のエーリッヒ・フロムの「愛するということ」の中で、

「愛することは技術である」という指摘があります。

相手のことを知り、分析し、理解するためには、衝動や感情だけではない、

「知識や努力」つまり「技術」が必要である、という指摘です。

(本当だと思います)

 

普通人は「自分の物差し」で人をはかります。

自分が好きなものは、人は好きで、

自分の常識は、人も同じように常識だと考えると、思い込んでいるのです。

そして親しくなると「こんなはずではなかった」と失望します。

しかしこれは「現実が見えただけ」なのです。

(そのため、感情とは違う、理解のための「技術」が必要なのです。)

 

このような時、前提として「知りたいという、意志と努力」が必要です。

(自分を受け入れてほしいという甘えは、邪魔になります)

その上で、人のニーズを「冷静に観察」し、

「情報収集をし、分析する」という技術が必要になるのです。

(承認欲求や依存心を克服した、大人としてのメンタルが必要なのです。)

 

 

「天の願い」を考える時にも、同じことが言えます。

神様は「あなたの意見」を追認するイエス・マンではないのです。

神様の意見は、あなたの意見と明らかに違います。

 

「あなたの願い」があり、(それとは明らかに違う)「神様ご自身の意志」があるのです。

そして、その神様の意思を「受け入れる気持ち」を持っているかどうかで、

あなたが「神様(天)の願いを知る」ことができるのか、できないのかが、

明らかになるのです。

 

ですから、何度も書いているように、

「人のニーズを知ること」も、「神様の願いを知ること」も、成熟が要ります。

人間的な成長がないと、受け取れません。

頭でわかっても、感情がついていかない、のです。

 

イエス様は、一番弟子のペテロに、こんな言葉を言われました。
ヨハネ(新約聖書)21:18

「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」

 

ペテロは、若い時には「自分思いのまま」に生きていました。(ある意味当たり前です)

しかし晩年は、「他人のニーズに応えて」生きるようになると言われたのです。

しかも「自分が行きたくないところ」に行くようになる、と言われたのです。

(実際彼はこの後、若い弟子たちのために多くの苦労をし、最後には殉教の道を歩みました。)

 

「自分の願い」でなくても、

「神様の願いであり、自分がしなければならない道」であるならば、

「黙々と従っていく」、これが晩年のペテロの考え方だったのです。

(彼は、若い時には失敗をしましたが、訓練の中で、成熟の道を歩んだのです。)

 

「天の願いを考える」とは、綺麗ごとではありません。

自分が立派な人間だと証明するための、「証明書」でもないのです。

 

「天の願いを考える」とは、

感情と共に、知性で理解し、

「人の願いを受け止め」「神様の願いを考える」中で、

必要なことを「コツコツ」としていく、

毎日の生活の中で、「見えてくるもの」なのです。

 

あなたは「天の願い」を知りたいですか?

 

そのような「尊い気持ち」を持っておられる「あなた」の上に、

豊かな祝福があることを、お祈りしています。


マタイ(新約聖書)7:7-8
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」

 

にほんブログ村 その他生活ブログへ

にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

もし気に入って頂けたら、たくさんの方に読んで頂くために、クリックの御協力をして頂けると幸いです。(一日一回カウントされます)

人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から - にほんブログ村

読者登録をして下されば、新しい記事を自動的に知らせてもらえます。(無料ですが、はてなブログの登録が必要です。)

 

もう一つ別のブログランキングです。(こちらもクリックして頂くと助かります。一日一回カウントされます)

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 


人気ブログランキング

 

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑

こちらをクリックすると記事一覧を見られます。

【コラム】理性で分かっていても「感情的」に反発することへの対策。天の願いを意識する(本題その2)

f:id:jesuslovesmeus:20200929201149j:plain
「分かっちゃいるけど、やめられない」

「魔が差してしまった」

よくこのような言葉を聞きます。

 

今回は、理性で分かっていても、「感情的」に反発する(又は流される)ことへの対策、

について、ワンポイントですが考えてみたいと思います。

しばらくお付き合い下さい。

 

人は「痛みを通じて」人生の大切なレッスンを学びます。

痛みが無ければ、逃げたりごまかしたりできるものです。

しかし痛みがある場合、それを避けるために、必死になって取り組むようになるのです。

 

詩編 119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(新改訳)

「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」(新共同訳) 

 

旧約聖書に、バラムという預言者がいました。(民数記22章)

彼は、神様から「してはいけない」という命令があったにもかかわらず、

当時の王様からの「名誉と報酬」という誘惑によって、間違った道を歩き始めました。

しかし、その道を行く途中、主の使いに殺されそうになり、

「主の命ずることだけをするように」と厳命されました。

神の命令に反逆すれば殺されることを知っていたため、

王様からどれだけ脅されても、彼は神様に反することはしなかったのです。

(新約聖書では、バラムは避けるべき「悪い模範」として描かれています。)

 

マルチン・ルターという宗教改革で有名な人物がいます。

彼は若い時、大学で教養学、後に法学を学びました。炭鉱で成功した父の願いであったようです。

しかしある嵐の日、カミナリがいくつも落ちる中で、すぐ近くにいた友人が雷に打たれ絶命し、「死の恐怖」を感じました。

その時彼は、助かりたいあまりに「助かったなら、修道士になります。」と誓ったのです。

彼はその誓いを、その後も守り続けました。

父の反対を受けても、修道院に入り、神様から与えられた「使命の道」を歩み始めたのです。

 

人生どこが転換点になるか分かりません。

しかし私がここで重要だと思うのは、「死の恐怖」を感じた、という点です。

 

人は「死の恐怖」を感じた時、ある種の「重要な決断」をします。

 

それは「口先だけ」のものではないのです。すぐに変わるものでもありません。

理性だけでなく、感情の「面倒くさい、やりたくない」という思いさえも吹き飛ばす、

死の恐怖とは「強烈な体験」なのです。

 

甘えやごまかしさえも、吹き飛ばす体験なのです。

これをしなければ、「持っているもの、全て奪われてしまう」という状況になると、

人は必死になります。

 

「死に物狂い」になった人は、嫌だろうが感情的に反発しようが、

(乗り越えなければ死んでしまいますので)

必死になって乗り越えるのです。

 

そして、それを「乗り越えた」人は強くなります。

 

「分かっちゃいるけど、やめられない」

「魔が差してしまった」

このような言葉を「安易に」語る人は、「罪の恐ろしさ」を分かっていない人です。

どこか「このままでも何とかなる」と環境や状況に甘えている人です。

 

感情的にいくら反発しても、「悪は悪」「罪は罪」です。

言い訳はできません。

「悪に落ちた恐ろしさ」を体験した人は、悪に二度と近づかなくなります。

 

普通は、こんな深い心の奥底まで、取り扱いを受けることはありません。

しかし「ある願い」を持っておられる「神様」は、

あなた体験する「大きな苦しみ」を通じて

「あなたの心の奥底、骨の髄」まで鍛え、変えられることがあるのです。

 

詩編 119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(新改訳)


ヘブル人への手紙12:5‐6
「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

 

「理性」と「感情」は違います。しかし主は「そのどちらも」正しいことに従うようにと、導いておられるのです。

 

 祝福をお祈りしています。

 

にほんブログ村 その他生活ブログへ

にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

もし気に入って頂けたら、たくさんの方に読んで頂くために、クリックの御協力をして頂けると幸いです。(一日一回カウントされます)

人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から - にほんブログ村

読者登録をして下されば、新しい記事を自動的に知らせてもらえます。(無料ですが、はてなブログの登録が必要です。)

 

もう一つ別のブログランキングです。(こちらもクリックして頂くと助かります。一日一回カウントされます)

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓


人気ブログランキング

 

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑

こちらをクリックすると記事一覧を見られます。

【コラム】「心を見られている」という感覚。天の願いを意識する(本題その1)

f:id:jesuslovesmeus:20201028231616j:plain

多くの女性は、美しさに憧れています。

今日のテーマは、「心の美しさ」について、です。

また先回確認した、①「目に見えるもの、結果」をゴールにするのか、「目に見えないもの、価値観、聖さ」をゴールにするか。

そのことにも、触れていきます。

 

まず前提として、質問をさせて下さい。

あなたは、「見えない存在」を信じていますか?

(この世界は、見えるものだけではないという立場の方ですか?)

 

もう一つお聞きします。

「見えない存在」、

あなたは、自分を超えた「神をいう存在」を信じておられる立場の方でしょうか?

(色々な価値観があるとは思います。)

 

特に「創造主である神様」を信じる方に質問です。

「あなたの信じる神様」は、24時間、365日、あなたのすべてを知っておられ、

あなたの「行動」だけでなく、外には見えない「心の動かし方」までも

すべて把握しておられることを、知っていますか、それを信じ受け入れていますか?

 

(いろいろな価値観はあるとは思いますが)

私は、「心を見られている」、、、

このことは、「心の聖さ」を考える上で、とても「大事なポイント」だと思います。

 

「心を見られている」と思わないならば、

「心を綺麗にする」、、、

「自分の気がついていない心の部分までも綺麗にする」、、、

このことを、求めるようにはならない、と考えるからです。

神様に見られているならば「恥ずかしい」、、、この感覚が大切なのです。

 

「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。」
(マタイによる福音書10:39-31)

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」

(マタイによる福音書6:7)

 

「見える部分だけ」を綺麗にすることを、目標にする人たちは、

「形だけ」整っていれば、それで満足します。

つまり「見えない部分」への焦点が、欠落しています。

「心の正しさ、美しさ」を求めません。

 

「心を綺麗にしたい」と考える人は、

「心を見ておられる存在」(神様)を認めることが、大前提だと思います。

そう思いませんか?

「心の聖さを評価する存在」がいなければ、

「聖さ自体」が「マイルール」になります。

それでは「偽善」になりますから。

 

「心の聖さ」を求めるためには、

「聖さの基準」と、

「その基準に近づく作業(努力)」が必要になります。

 

聖書の中に、多くの「心の聖さを求める人」が出てきます。

その中の一人が、有名なダビデ王です。

 

『神よ。私を探り、私の心を知ってください。
私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、
私をとこしえの道に導いてください。』
詩篇139:23~24

Search me, God, and know my heart.
Try me, and know my thoughts.
See if there is any wicked way in me,
and lead me in the everlasting way. Psalm 139:23-34

 

私たちは、意外と自分自身でも「自分の心」が分からないことがあります。

(だから、自分を超えた基準が必要なのです。)

「何に傷ついているのか」「何を本当は求めているのか」、、、

自分のプライドや雑念の中で、見えなくなることが多いのです。

 

そんな時、私は「山に登り」ます。

高いところから、下界の小さな建物や道路のつながりを見る時に、

「自分の考えていること」や「抱えている課題」が、小さなものに思え、整理されるのです。

(イエス様に祈りながら、ですが、、、)

 

カウンセリングを受けたことがある方は、経験があると思いますが、

カウンセリングを受けると、自分自身への気づきが起こります。

カウンセラーが、鏡のように自分に対面してくれ、

時にヒントを与えて、自分の中の傷や歪みを気づかせてくれるのです。

 

「神様を信じる」とは、いつもカウンセラーに報告できるようなものだ、

と私は考えています。

そんな「最高のカウンセラー」と交流できるのが、

「神様を信じ」「神様に祈る」ということなのです。

 

「神様を信じ」神様の聖さに触れると、

「自分の醜さ」に気がつき、悲しくなることがあります。

 

作家の曽野綾子さんは、対談本「この世の偽善」の中で、こんな表現をされています。

(彼女は、クリスチャンであり、カトリック信者です。)

「私はこれでもカトリック信者につながっています。それはキリスト教と言うものが、はっきりと性悪説の上に立っているから、私は安心してものを考えられるからです。どうせ悪いことをするのだと、居直っているのではありません。私たちは一生の最後の日まで少しでも「ましな人間」なることを望んでいるし、またそれは可能なのだと思います。しかし、現実の姿は、「我が罪」と抱き合わせなんですね。見栄を張っても、神はお見通しですから。」

 

神様を信じ、神様の考え方を受け入れるようになると、

「自分の罪深さ」に気がつくようになります。

(曽野綾子さんの場合、自分の醜さの理由が分かり「安心した」、と言います。)

 

神様を信じるということは、

それでも飽きずに「私を受け入れ、助けて下さる存在」、

そんなイエス様というお方を知り、お付き合いを深めることができる、ということです。

 

「自分の心の奥底」を見て、悲しみを感じても、

「弱くても、大丈夫」「できていなくても、大丈夫」、、、

決して居直る訳でない、「弱い自分を受け入れることができるようになる」のです。

 

「本当の自分の姿」を知らないと、「心の聖さ」を求めることはできません。

(私はそう思います。)

スタートが曖昧では、ゴールには向かえません。

だから、偽善です。頭の中だけの「美しい言葉」になります。

 

「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」

(ペテロ第一の手紙1:16)

 

「聖い神様」は、私を愛しておられて、「心の聖さ」を求めておられます。

それは、「神様ともっと交わることができる」ため、であり、

私たちが本来の姿に近づき、「幸せを感じて生きる」ためだと、私は信じています。

 

「神様に心を見て頂いている」という感覚。

「心の聖さを求める思い」、、、

大事だと思いませんか?

 

祝福をお祈りしています。

 

にほんブログ村 その他生活ブログへ

にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

もし気に入って頂けたら、たくさんの方に読んで頂くために、クリックの御協力をして頂けると幸いです。(一日一回カウントされます)

人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から - にほんブログ村

読者登録をして下されば、新しい記事を自動的に知らせてもらえます。(無料ですが、はてなブログの登録が必要です。)

 

もう一つ別のブログランキングです。(こちらもクリックして頂くと助かります。一日一回カウントされます)

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓


人気ブログランキング

 

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑

こちらをクリックすると記事一覧を見られます。

【コラム】天の願いを「意識する」という感覚(導入、プロローグ)

f:id:jesuslovesmeus:20201028231655j:plain

昨日に引き続き、コラムです。

今回、もう少し掘り下げたいと思います。

今回のコラムの目的は、「心の美しさ」を考えていきます。

 

仕事上で、書類に名前を書くことが多くあります。

名前を書く度に、考えることがあります。

もし私が、「今の私」でなかったら、どんな風に考え、どんな風に生活しているだろうか?

 

皆さんは、そんなことを考えたことがありますか。

性別も容姿も才能も、どの家にうまれるかも、自分が「選び放題」だったとしたら、、、

皆さんはどんな選択をしますか?

 

反対に、今より「悪い境遇」で生まれたとしたら、、、

どう考えるでしょうか?

 

結局いろいろと考えると、

「与えられた現状」を受け入れて、

毎日のすべきことを、「コツコツとする」ことしかできないのではないか、と考えるのです。

 

聖書でイエス様が、「タラントの例え」をされています。

主人が旅に行く前に、それぞれの僕(しもべ)に、5タラント、2タラント、1タラントを預けました。

5タラントの僕は、その期間に商売で5タラント儲けました。

2タラントの僕は、2タラント儲けたのです。

主人は帰って来た時、二人を同じように褒めました

(元金分をしっかり儲けたからです。5タラントの僕を特別に評価していませんでした。)

しかし1タラントの僕は、サボっていました。商売をせずに何もしませんでした。

そして彼は言い訳をしました。自分が何もしなかったことを正当化したのです。

主人は1タラントの僕を、叱責し、その元金を、5タラントの僕に渡したのです。

 

イエス様は、この例えの結びで、こう言われました。

「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。」(マタイによる福音書25:29)

(これは、ウキペディアでもマタイ効果(マタイ原理)、として取り上げられている法則です。)

 

1タラントの僕は、悔しがったと思います。

もしかすると主人を恨んだかもしれません。

しかし、1タラントは現在のお金で、約6000万円ですから、決して少ないお金ではないのです。

主人は期待して、1タラントを僕に託したのです。

 

人生は、「与えられたもの」です。

「借り物」とも言えるのではないか、と思うのです。

 

であれば、

「何をするか(見える結果)」だけ、でなく、

「どう考えて、実行するか(見えない価値観)」もより重要だと思うのです。

(失敗したって、その経験も財産だと、天の父なる神様は考えるはずです。商売は得もすれば損もする時もあるからです。)

 

イエス様が、「タラントの例え」で、人生を商売で例えたところに、

「人生の本質」があるように感じます。

 

与えられたスペックを「どういう気持ち」で活用するのか、、、、

別な言い方をすれば、能力が高く生まれた人は、

それだけ「期待」と「責任」があると思うのです。

 

「期待」とは、あなたに「命を与えた存在」からの期待です。

責任とは、「あなた自身の責任」です。

 

頼んで生まれた訳でない、という言い方をする人がいます。

しかしよくよく考えてみると、

「非常に無責任な考え」なのではないでしょうか?

 

楽しいことは「率先して味わい」

嫌なことは、「無視」をして、「誰かのせい」にする。

人間の醜さが現れているように感じるのです。

 

今回のコラムは、自分の心を掘り下げる作業を伴いますから、

嫌な気分になる人もいるだろうと思います。

 

しかし「自分の心」を鏡に写して、「本当の自分の姿」を見る時に、

きっと「益になる対策」を立てることができると信じます。

 

このコラムの目的は、「表面的な美しさ、価値」を求めるのではなく、

「心の美しさ、価値」を追求するものです。

これは、地上生活を終え、天国に行った後も「永遠に輝く価値」だと考えるからです。

 

「天の願いを意識すること」の効用について、

下記の3つをポイントとして、深掘りしていきます。

①「目に見えるもの、結果」をゴールにするのか、「目に見えないもの、心の財産」をゴールにするか。

②理性で分かっても、感情で反発することについての対策。

③天の願いを意識することは、人の願いを意識することから始まることについて。

 

これら目標は、どれも「完璧にこなすこと」が難しい内容ですから、

「努力目標」でもあります。

(完璧主義になると、逆に見えなくなります。)

 

しかし、イエス様が、「人生を商売」と例えられたように、

「自分の所持金」を認め、失敗しても目標に向かって進む時に、

(多少の損はあっても)良い商売、良い人生が送れるのだと思うのです。

 

祝福をお祈りしています。

 

にほんブログ村 その他生活ブログへ

にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

もし気に入って頂けたら、たくさんの方に読んで頂くために、クリックの御協力をして頂けると幸いです。(一日一回カウントされます)

人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から - にほんブログ村

読者登録をして下されば、新しい記事を自動的に知らせてもらえます。(無料ですが、はてなブログの登録が必要です。)

 

もう一つ別のブログランキングです。(こちらもクリックして頂くと助かります。一日一回カウントされます)

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 


人気ブログランキング

 

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑

こちらをクリックすると記事一覧を見られます。

【コラム】天が見ている、という感覚

f:id:jesuslovesmeus:20201007205910j:plain

今日は、「見えない心を大切にする」というテーマで、コラムを書いてみます。

 

「自分の信念」で行動するのではなく、「人の目」だけを気にして、行動する人がいます。

人が見ている時だけ、「正しいことをする」という人です。

人が見ていなければ、「ごまかしても、何をしても良い」と考える人たちです。

 

もちろん人間は、聖人君子ではありませんから、ごまかしが無い人は一人もいないとは思います。

 

大学時代、教育課程の授業である女性教授が、

「私は夜中でも歩行者信号を守るようにしている。自分がモラルを教えておいて、自分が守らないならば説得力がないからだ。」

と言われて、凄いなと思いました。

 

人間は完璧にできることは難しいとは思いますが、

「人が見ていなくても」正しいことをするという姿勢は、大切だと思うのです。

(もちろん、ルールにがんじがらめになることは、逆に不自由であり、自己義を助長する場合があります。人間は完璧ではありません。「完璧ではない人間」を「完璧なように振る舞う」時に、逆に「問題が生ずる」ことは留意すべきです。)

 

聖書に、

隠れているもので明らかにならないものはない、という言葉があります。

ルカ(新約聖書)12:2-3

「覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」

 

心は見えませんが、長く一緒にいると、その人の言葉や行動によって、

見えない考え方が「見えて」きます。

「心」をごまかしていると、「ごまかしている」ことが、どこかで「明らかになる」のです。

(その「事実」は、認めなければなりません)

 

ですから日本では昔から「お天道様が見ておられる」から、

「恥ずかしくない生き方をすべき」という考え方があるのです。

 

武士道では、「筋を通す」ことが美徳とされました。

「筋を通す」とは、道理にかなうようにする、物事の首尾が一貫しているという意味です。

反対に「筋を通さない」とは、道理に反する、首尾が一貫していないことになります。

 

肩苦しいと思うかもしれません。

しかし、このような人は信頼できますし、付き合っていても安心です。

 

人間は弱さを抱えています。

ずるい心、ごまかしの心を持っています。

だから、「天が見ておられる感覚」(見えないところを、神様は見ておられる感覚)が大切なのです。

それがストッパーとなり、大きな問題を起こさないためのセーフティネット(万一のための仕組み)となるのです。

 

中国は監視社会です。

都市部ではほぼ全ての交差点に防犯カメラが設置されています。

プレジデントオンラインの2021年3月28日の記事で、

「交通違反者暴露台」のことが取り上げられていました。

100インチ以上の巨大な画面に、交通違反者のモザイクなしの写真、その名前と身分証番号の一部が写し出されるというものです。

(プライバシーは全くありません。)

f:id:jesuslovesmeus:20210427101107j:plain

自由主義国では「あり得ない」ことですが、中国共産党政権では、普通に運営されているのです。

しかしこのシステムによって、交通違反が激減したことは、事実です。

人は見られていると思うと、悪いことはできなくなるのです。

 

あなたは、見えない神様という存在、

この世界を導いておられる「父なる神様」を信じておられるお方ですか?

 

私は、「教訓話」をしようとしているのではありません。

処世術として、「このように考えたら、良い生き方ができる」というテクニックの話をしているのでもないのです。

 

もし本当に、創造主(父なる神様)がおられて、

あなたのことを見ておられるならば、

「見られている以上」、それなりの「生き方」を、考えなければならないと思うのです。

 

「天が見ておられる、という感覚」

大事だと思いませんか?

 

にほんブログ村 その他生活ブログへ

にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

もし気に入って頂けたら、たくさんの方に読んで頂くために、クリックの御協力をして頂けると幸いです。(一日一回カウントされます)

人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から - にほんブログ村

読者登録をして下されば、新しい記事を自動的に知らせてもらえます。(無料ですが、はてなブログの登録が必要です。)

 

もう一つ別のブログランキングです。(こちらもクリックして頂くと助かります。一日一回カウントされます)

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 


人気ブログランキング

 

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑

こちらをクリックすると記事一覧を見られます。

職場のリーダーが「いい加減」で困っています。どう対応したら良いでしょうか。

f:id:jesuslovesmeus:20210424152629j:plain

21歳の学生です。バイト先の年配のリーダーが、「いい加減」で困っています。良い人なのですが、ルーズで、人が見ていないとマニュアル通りの決められたことをしません。失敗するといつも嘘を言ってごまかしています。そのリーダーの下のバイトは、リーダーのことを信用していません。年配のバイトだからリーダーになったようですが、皆、文句と不満だらけです。どう対応したら良いのでしょうか。

 

バイトのリーダーが、いい加減な方なのですね。

リーダーの雰囲気が、隊全体に影響しますから、いろいろな面で支障をきたしているのではないかと思います。

 

しかしながら、学生時代のバイトは、良い人生勉強になります。

今回、3つほどの観点で考えてみたいと思います。

 

①人生は「不条理なことが日常である」と言う現実を受け入れる。

②組織の中で「模範的な部下」になる。

③最悪、どうしようもない場合、責任者に相談して、組織の正常化をはかる。(または身を引く)

 

①人生は「不条理なことが日常である」と言う現実を受け入れる。

曽野綾子さんの「この世の偽善」という対談本の中に、

「人生は、完全に善でもなければ、悪でもない。本来この矛盾に苦悩し解決を考えるのが大人の魂であり勇気だと思う。自分の都合だけ、物事の一面だけしか見ない『子ども大人』が今の日本には多すぎる。」という一文がありました。

 

人生は「不条理なことが日常」です。

普通、人は理想は掲げつつも、自分のことしか考えていませんし、

(追い詰められた時にはっきり分かります。)

きれいごとしか言いませんし、悪い面倒くさいことは見ないようにします。

自分は正しい良い人間、だとアピールをし、

そのために「人をこき下ろす」ことだってあるのです。

(人はどこかで、自分の方が上だ、正しいのだと思いたいのです。)

 

こんな人間界で生きているのですから、

問題が起こること、理屈に合わない不条理が起きることは、「当たり前」です。

むしろ、それが無い方が不思議です。

周りを「ユートピアと思いたい」ことは「幻想」なのです。

 

ですから、質問者さんの今の状況は、「とても良い状況」です。

現実に対応する「スキル」を磨く良いチャンスです。

「そんな気持ち」で対応していかれたら宜しいかと思います。

(これが、現実の世界を生きるということでしょうから。)

 

その上で②組織の中で「模範的な部下」になる。

を考えます。

 

会社は組織です。バイトであったとしても組織の一員です。

その組織に属し、契約の仕事をして、その対価として時給を頂く、、、これがバイト言う立場です。

 

給与は「組織に属しているから」頂くことができます。

ですから、組織に不満があっても「組織を壊してはいけません」

その組織の中で「あなたの仕事」をして時給を頂くからです。

面倒くさいリーダーの元にいることも「時給のうち」です。

ですから、割り切って「部下」に徹するのです。(時給分だけは仕事をするのです。)

 

実は、「リーダー」と言う立場に立っているだけ、プレッシャーを受けます。

いくらいい加減の人でも、普通の立場以上のプレッシャーを感じているはずです。

 

そのプレッシャーを受けている分だけでも、

「お疲れ様」と言う気持ちで対応する意味はあるのです。

 

しかしリーダーに盲目的に従う訳ではありません。

あくまで契約として組織に属しているだけですから、

加わるも離れるも自由です。(特にバイトの立場であれば、離れることは正社員よりも自由です。)

もちろん、意見を言うこともできます。(契約で組織に加わっているだけですから、奴隷ではないのです。)

しかし、配慮すべきことは、リーダーに「恥をかかせない」ことです。(この点が重要です。)

同じ言葉を言うのでも、動機が「批判や攻撃で言う」のと「チームの秩序の中で進言する」のは、言い方もその効果も全く変わってきます。

 

まずは心を落ち着けて、冷静に「現状の問題点」を分析することをお勧めします。

自分の立場では「見えていない」ことがあるので、良い先輩(一方的に批判をする人では無い人)と相談してみることも有益です。

相談する時も、自分が知っている「事実」を使って話すのです。噂や未確認情報で話さないようにしましょう。

 

その上で、バイトのリーダーと話す機会があれば、自分がフォローする気持ちで関わりましょう。

決して「批判のための批判」にならないことです。(動機が大切です。)

 

そのような姿勢や態度で関わるならば、リーダーは、質問者さんを「自分を助けてくれる人」と考えるようになります。良い人間関係ができれば、質問者さんの意見は聞いてもらい易くなります。

人は「自分が好きな人」の意見を聞き、「嫌いな人」の意見は聞きにくいからです。

(怖い人の意見も聞きます。問題点を見られることは怖いことです。ただし無謀に走って潰されないように気をつけて下さい。)

 

基本姿勢は、

「自分の範囲内は、平和を保つ」のです。

ロマ(新約聖書)12:17‐18
だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。
あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。

 

しかし、もし質問者さんが「それでは時給に見合わない」と考えるなら、身を引く(部署を変わる、バイトを辞める)ことも選択肢です。

あくまで、責任が正社員のように重くはない、バイトですから、

それぐらいの気持ちが丁度良いのです。

 

しかし、もしバイトでも正社員のように働いている場合、

③責任者に相談して、組織の正常化をはかる。

ことも、考えることもできます。

 

基本姿勢は、今まで書いてきたことの延長ですが、

(噂ではなく、確認できている事実を用いて)

あくまで「組織をサポートする姿勢」で、「平和を作る気持ち」で相談することをお勧めします。

 

このことの最大メリットは、「質問者さんの居場所を確保すること」です。

「直属のリーダー」との関係が悪いと、自分の居場所が危うくなります。

しかし、もしその上の責任者に「自分の気持ちを話す(受け入れて貰う)」ならば、

自分の居場所を保つことができます。

そうすれば、落ち着いた気持ちで、「直属のリーダー」と関わることができるのです。

(試してみて下さい。)

 

聖書は、組織を破壊する暴力革命は否定します。

秩序と愛の行為を勧めています。

 

リーダーが問題を持っていても、

質問者さんが、秩序と愛を動機として行動しているならば、

良い方向に向かう可能性が高いのです。

(良いタネを蒔けば、良い収穫が得られると、私は信じる者です。)

(しかし、もし仮に良い方向に向かわなくても、質問者さんは、「人生の良い学び」をすることはできるはずです。)

 

原則的なことを書かせて頂きました。

現実は、理想通りは行かないこともあるでしょうが、

参考にしてみて下さい。

祝福をお祈りしています。

 

にほんブログ村 その他生活ブログへ

にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

もし気に入って頂けたら、たくさんの方に読んで頂くために、クリックの御協力をして頂けると幸いです。(一日一回カウントされます)

人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から - にほんブログ村

読者登録をして下されば、新しい記事を自動的に知らせてもらえます。(無料ですが、はてなブログの登録が必要です。)

 

もう一つ別のブログランキングです。(こちらもクリックして頂くと助かります。一日一回カウントされます)

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 


人気ブログランキング

 

 

PVアクセスランキング にほんブログ村

↑↑↑↑↑↑

こちらをクリックすると記事一覧を見られます。