あることがきっかけで、「このままの自分」ではダメだと思いました。
けれども、どうやったら「自分を変えること」ができるか、分かりません。
「変えたい」「変えたい」と思っても、結局そのままのような気がします。
どうしたら良いのでしょうか。 21歳男性
ご質問をありがとうございました。
あることをきっかけにして、「自分を変えたい」と思われたのですね。
とても良い「成長のチャンス」ですから、
この機会にぜひ、良いヒントをつかまれたらと願っています。
今回、①自分の足りない点を明確に知る。(自分の基準を、自分の外に持って判断する)
②本気で自分を変えたいと思う。
③他からの助けを受ける。
この3点を考えていきます。しばらくお付き合い下さい。
①自分の足りない点を明確に知る。(自分の基準を、自分の外に持って判断する)
基本的に、人間は「自分が正しい」と思い、「自分の考えのフレーム」を持っています。
ですから、「自分が間違っている」「自分を本気で変えたい」と考えることは、
あまりありません。
あったとしても、中途半端に後悔し、中途半端に悩む程度です。
自分を知るということは、とても難しいことです。
それは「自分のものさし」で自分を判断するので、客観的に見ることができないからです。
どうしても主観が入って「これぐらいは良い」と思い、
自分に甘く、人に厳しくなったりします。
「自分の考えの中」で生きていますので、
「その外の世界」を、「理屈」では分かっていでも、
「実感」としては無視し、拒否するのです。
、、、分かってもらえますでしょうか。
つまり、質問者さんが、自分のものさしで「自分はこれが問題だ」と思っていても、
第三者が、「あなたは、あなたが考える以上〇〇まで酷い」と言われると、
「そんなことではない」「私はもう少し真面(まとも)だ」
と反論したくなるのです。
「基準が自分」にあると、「自己中心性」の枠から抜け出すことができないのです。
交通ルールを考えたら分かります。信号を皆が守ります。
しかし、もしみんなが、自分が交差点に入る時には「必ず青になる」と思い込んで交差点に入ると、必ず事故になります。
ルールは、自分を越えての「努力目標」である必要があるのです。
(スポーツのルールも同じ理屈です。)
人間が、複数で生きていく以上、社会的なルールは必要です。
自分を客観的に見て、判断するためにも、
「マイルール」ではなく、「自分を越えた基準、ものさし」は必要なのです。
聖書を読む理由がここにあります。
聖書を読むと、鏡を見るように「自分を知る」ことができるのです。
ヤコブ(新約聖書)1:23-24
「みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。」
私たちは、基本、神様が願うように生きていません。
ですから、神様の言葉を読んでいる間は、「鏡を見るように」自分を知り、自分の課題に気がつくのですが、聖書(みことば)を離れると、分からなくなるのです。
(仕方がないことです。)
ですから、多くのクリスチャンはみことばに親しみ、毎日聖書を読むのです。
旧約聖書の箴言が読みやすいですよ。(金言集です)
新約聖書なら、最初はマルコの福音書(短いです)、ルカの福音書(知的歴史的に書かれています)
あたりが最初のオススメです。
自分を知るための「人生の指南書」として読まれたらよろしいかと思います。
三浦綾子さん(クリスチャン作家)の三部作もオススメです。
「道ありき」「この土の器をも」「光あるうちに」
私も愛読しました。
「聖書に触れた機会がない」という方なら、伝記や好きな作家のエッセー、対談でも良いかもしれません。
生き方を考えさせられるような、「文章や情報」を見聞きすると、自分の良い面悪い面、課題や弱さが浮き彫りになるようなものが、よろしいとは思います。
②本気で自分を変えたいと思う。
自分がどういう人間で、どんな課題を持っているのかを、ある程度知ることができたならば、
次に、「理想(目標)に向かって進む」考え方に触れたいと思います。
先ほど書いたように、基本的に人間は「自分が正しい」と思い、「自分の考えのフレーム」を持っています。
ですからそこから「外に出る」ことは、普通は難しいのです。
減量を例えとして考えてみます。
減量は辛い作業です。
目標があり、現実があります。
目標に向かい続けるには、辛い現実を乗り越えなければいけません。
文字通り「肉を捨てる覚悟」が必要なのです。
そのためには、現実ではなく、「目標を注目し続ける」のが心理学的な結論です。
(落ちる落ちると考えると、人は落ちてしまいます)
目標を達成した喜びと、それを達成できなかった悲しみを、集中して考えるのです。
ピリピ人への手紙(新約聖書)3:13-14
「私は、すでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」
「目標」をいつも考えていきましょう。
それに反することは、「絶えず捨て続ける」のです。
そこに行けると信じて(信仰です)、熱心に願い求めるのです。
「肉を捨てる覚悟」で、本気で進むのです。
「自分を捨てても良い」、と思う程、「自分を変えたい」と腹を決めることです。
(覚悟です)
③他からの助けを受ける。
最後にこの点を触れて終わります。
何度も書いているように、
基本的に、人間は「自分が正しい」と思い、「自分の考えのフレーム」を持っています。
その中で考えますから、既成概念をなかなか越えられないのです。
信号は「緑色」なのに、どうして「青」というのか知っていますか。
日本の最初の信号、日比谷交差点では、最初は「緑信号」と言っていたようです。
当時の新聞で「青」と紹介されたことで、「青」が定着し、法令も青に書き換えられました。
それは、昔は緑を青と呼んだからです。「緑色の野菜」を「青菜」と言うのがその名残です。
その知識があれば、理由が分かりますが、知識がない場合はお手上げです。
既成概念を越えるには、「自分の外」の視点や知識を教えてもらう必要があります。
聖書の理解も、「自分だけ」で読んでいると自分の価値観で「読込み」をします。
教会で話を聞いたり、キリスト教書籍を読んだりすると、「別の視点」を学べるのです。
(何度も書きますが、三浦綾子さんはオススメです。)
「自分の考えのフレーム」を出るためには、
他の誰かの助けが、「どうしても必要」なのです。
また、そこを出ようとする時には、
「さまざまな迷い」が生まれます。
迷った時に、灯台や羅針盤のように、方向を指し示してくれる「誰かの存在」が必要です。
クリスチャンは、それがイエス様であり、神様なのです。
(そしてクリスチャンの友人でもあるのです)
イエス様の例えで、有名な「迷える羊」の話があります。
良い羊飼いは、「100匹」の羊の内、「1匹」が迷ったならば、「99匹」を誰かに託して、
「その1匹」を探し出そうとするのです。
クリスチャンで、リアルにイエス様を体験している人は、
イエス様のまなざしと、助けを毎日のように味わっているのです。
質問者さんは、あなたが迷った時に助けてくれる誰かが、おられますか?
(私も、イエス様には祈りつつ、信頼できる友人もいます)
ぜひその方のサポートを受けて下さい。
自分のプライドから「自分で頑張れます」と言わないで下さい。
「自分のフレーム、価値観」を越えるためには、「誰かの助け」が絶対に必要なのです。
(別に「助けて下さい」・・・と言う必要は当然ありません。同じ時間を過ごし、心を開いて分かち合う時に、助け合う「場の空間」が生まれるのです)
①自分の足りない点を明確に知る。(自分の基準を、自分の外に持って判断する)
②本気で自分を変えたいと思う。
③他からの助けを受ける。
参考にしてみて下さい。
最後に捕捉ですが、
人が本当に変わるためには、「知識や習慣の改善」だけでなく、
「霊に触れられるような体験」が必要です。(そういう領域があるのです。)
聖書では、「聖い霊」に触れて頂いた人が、「新しく変わった」という記事がたくさんあります。
極めて「体験主義的」なものですが、別のどこかでお語りしたいと思っています。
祝福をお祈りしています。
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