人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から

世界のベストセラー聖書の価値観から、生きるを考えます!(モノの見方が変わると、とても楽になります)

「イエス様の後(あと)」について行く、恵み。(勝利者イエス様)

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「勝ち方を知っている人」をリーダーに選ぶ。

池井戸潤原作のドラマ「ノーサイドゲーム」の中で、主人公君嶋隼人が、弱小ラグビーチーム「アントラーズ」の監督選びに悩むシーンがあります。彼は悩んだ結果「優勝経験のある監督」を選びました。その理由は「勝ち方を知っているから」というものでした。

 

お金のある方は、少々高くても、「勝てる弁護士」を選びます。その理由も同じです。

「勝ち方を知っているから」です。

 

この世界は、「見える世界」と「見えない世界」でできています。

見える世界も見えない世界も同じですが、

「勝ち方を知っている人」のアドバイスを受けることができれば、心強いものです。

今回のテーマは、特に「見えない世界」での「勝ち方を知っている存在」について行くこと、です。

 

見えない世界(精神世界、霊的世界)と、見える世界は、実は非常に影響をしあっています。

スポーツでも「精神的に乗り越えた時」に、強くなることが多いものです。

仕事でも、精神的にしっかりしている人が、良い仕事を続けることができます。

 

反対に、生活の素行が悪くなると、スポーツの試合で勝てなくなったり、

仕事でもごまかし続けていると、最後には粉飾決算をしたり、一線を越えて大きな失敗をすることも、かなりの確率で起きるのです。

 

前振りが長くなりましたが、要は、

私たち人間には、「精神的な導き手」(コーチや監督のような存在)がいると「非常に助かる」のです。

 

勝利するためには、「勝ち方を知っているコーチ(イエス様)」のアドバイスを聞くことが大事です。

その人を信頼し、自分を預け「ついて行く」のです。

自分の考えよりも、コーチの意見を尊重するのです。

その宣言が、「主を自分の前に置くこと」になります。

 

イエス様の言葉です。

イエス様が「どういう方」かを知ることができる言葉です。

ヨハネ 16:33

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

 

イエス様は、霊的世界、物質世界共に、十字架によって「勝利されたお方」です。

ですから、このお方についていけば、「勝利すること」ができます。

 

特にイエス様だけが、成し遂げられたことの最大のもの、それが「悪魔に対する勝利」です。

これは、すべての人間ができなかったことです。

そのため、イエス様は悪魔の攻撃パターンも、勝利の方程式もご存知なのです。

 

人間の「神様の願う勝利」を邪魔するのは、悪魔の働きです。

悪魔は人間のウイークポイント(弱点)をついてきます。

 

最近、生活弱者への失言で、ネットで炎上している人物を見ても、

「つい書いてしまった」訳ですが、聖書の価値観で引っかかるポイントがあったように見えます。

 

悪魔に引っ掛けられるポイントが聖書にいくつもあります。

まず最大のものが、悪魔が堕落した原因の「高慢」です。

「自分を神のように一番だと考える、高ぶりの心」を持つ人物は、悪魔に足元をすくわれます。

 

また、使徒パウロは次のようなリストを上げています。

ガラテヤ5:19-21
「19肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、

20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、

21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」

 

人を憎む心、人を妬む心、分裂を煽る心、、、等、上記リストに上がる「否定的な感情」は、危険です。

それらの「負の感情」を握り続けていると、ほぼ確実に「悪魔の誘惑を受け入れて」しまうことになります

 

聖書の言葉を継続して読んでいると、

イエス様が「どういうお方」が、分かってきます。

その方のお好きなこと、お嫌いなことも分かってきます。

これは良いけど、これはマズイというポイントもだんだんと分かってくるのです。

 

イエス様を前に置いて生活するとは、

イエス様の喜ばれることを優先して、イエス様の願いについて行くという、決意表明です。

 

それは、イエス様が悲しまれるものを退けることの決意表明でもあります。

(悪魔が大喜びするネガティブな感情を避けることです。)

 

再度書きますが、「イエス様は、霊的世界・物質世界共の勝利者」です。

この方について行くと気持ちを持つだけで、かなりの「誘惑の危険」を避けることができるのです。

そして、イエス様への理解が深まり、

「コーチについて行く」ように、実際的に「イエス様について行くこと」ができるならば、

様々な分野で、勝利をして行くことができるのです。

 

ここに書いたことは、

単なる美しい言葉、耳障りの良い言葉ではない筈です。

 

祝福をお祈りしています。

 

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創造主に「近づきやすい」心情。 罪の自覚

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創造主を信じる人が、失敗をした時に、

「自分なんてダメだ。こんな自分は助けてもらえない。」と落ち込む人がいます。

逆に、失敗をして、

「私こそ、主に助けて貰わないと生きていけません。助けて。」と、ますます主に訴える人がいます。

どうしてこのような違いが起きるのでしょうか?今回はこの点を考えていきます。

 

今回も、創造主を信じる人向けの内容になります。

「罪の自覚の深さについて」がテーマです。

しばらくお付き合い下さい。

 

マルコ2:17

イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、『罪人を招く』ために来たのです。」

 

「罪人」と言う言葉を、

イエス様は「神様の目から見た罪人」と言う意味で使っています。一般的な「法律を犯した犯罪者」と言う意味ではありません。

罪とは、ギリシャ語で「ハマルティア(的外れ)」と言う言葉を使います。

「神様の願い(的)」から、「外れている」と言う意味です。

 

すなわち、「神様から離れ」、神様の「愛しなさいという命令」を守ることができない人は、すべて「罪人」と言う意味なのです。

私たち人類は、全員「罪人」と言うのが聖書の主張です。

 

これをどれだけ自覚しているかどうかで、冒頭の違いが起きるのです。


ロマ3:10‐12
「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」

 

クリスチャンは、聖書を読んでいるので、「人間は罪人」と言うことを知っています。

そして自分も「罪人」であるということを認識しています。

 

しかし「箱のパッケージの絵」と「中身」が違う時があるように、

知識としては、自分は「罪人」と言っていても、本音は「私は正しい人」と考えているクリスチャンも大勢います。(批判の意味で言っているのではありません。)

 

もともと「正しさ」を求めている人が、聖書に出会い、さらに「正しい人」を目指す。そういう人は、イエス様を「自分を正しさに導いて下さる人」となります。

つまり前提が「自分は正しい人」なのです。

そういう人がクリスチャンになった場合、ますます「正義で人を切るような態度」を取るケースがあります。

そういう人は見ていれば分かります。批判に弱いのです。少々の批判を言われると「むきになって弁明する」のです。そういう人は、「正しさを求める人」です。

「自分が正しい位置」に立っていないと「安心できない人」なのです。

 

こういう人が失敗をすると、(聖書を十分に知らない場合)

「こんな私は神様に助けて貰えない」と嘆き、落ち込むのです。

そして「自分で自分を裁き」、

このように間違って思い込みます、「神様も私を赦して下さらない」と。

(かなり「高慢な」考え方です。「神の基準」より「自分の基準」を「上に」考えています。)

 

しかしイエス様は「罪人を招くために来た」と言われているのです。

つまり「自分の罪を自覚し、悲しみ、落ち込む人」に「招きの言葉」をかけられるのか「私たちのイエス様」なのです。

つまり「罪を自覚している人」は、ますます「イエス様に近づく」ことができるのです。

 

私たちは「罪人」です。

箱のパッケージの絵も「罪人」であり、中身も「罪人」です。

どこを切っても「罪人」なのです。

 

自分の罪を「深く自覚」する人は、「自分の正しさ」を主張できなくなります。

そして「自覚」すればするほど、創造主(イエス様)に「助けを求める」ようになります。

 

繰り返しになりますが、

「自分が罪人」であることを。「深く自覚」すればするほど、

「創造主に近づき」やすくなるのです。

 

なぜなら、イエス様ご自身が「わたしは罪人を招くために来た」と仰っているからです。

 

イエス様がパリサイ人と取税人たとえをされています。(非常に興味深い内容です。)

・・・・・・・・

ルカ18:11-14
「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」


「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

・・・・・・・・

 

「自分の罪」を自覚する「取税人」の祈りを、

イエス様は慈しみ、「良いもの」と認めて下さったのです。

 

失敗したら(失敗を自覚して落ち込んだなら)、

ますます「イエス様の助け」を求めましょう。

イエス様は、必ず「あなたを祈り」を聞いて下さり、「助けて」下さいますから。

 

祝福をお祈りしています。

 

 

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創造主が「私を招いておられる」こと。〜主を「前に置いて」生きる、前提。

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創造主を「目の前に置いて生きる 」と、たくさんの良いことがあります。

今回はその「続編」です。

 

先回のブログで、

創造主を「目の前に置いて生きる」と、

①生きる上の「プレッシャー」が少なくなる。

②「平常心」で問題に対処できる。

③気力が充実するので、「攻めの気持ち」で問題解決に向かえる。

④「想定外」でも動揺しなくなる。

ことを取り上げました。

これらは、「生きる上」で「非常に助かるもの」です。

 

しかし、創造主を「目の前に置いて」生きる(創造主に助けてもらう)

ことを日常的に続けるには、

「自分の頑張り」だけでは、「不可能」なことがあります。

 

問題は毎日やってきますし、プレッシャーはあらゆるところから襲ってきます。

それらの大波を見て、動揺する心を「防ぐこと」は出来ません。

 

ですから、「自分の内側から」ではなく、「外側からの強烈な力」が必要なのです。

(引っ張ってくれるような力です。)

その「根本的な理由、力」が、

今回取り上げる「主が招いておられる」ことです。

(事実ですから、否定できません。)

 

毎日の、嵐の日常の中で、

イエス様が「わたしを見なさい。」

「わたしについて来なさい。」

と言われる言葉(ご意思)を、どれだけ聞き取ることができるかが、

「重要なカギ」となります。

ネガティブな問題以上の、ポジティブな「イエス様の言葉の力」を体験するのです。

 

イエス様が、「私自身を招いておられる」という「客観的事実」を知り、

問題の中でこそ、イエス様が「こちらを見なさい。」と言っておられる「主観的体験」をすることです。

 

繰り返しになりますが、

今回の文章は特に、「聖書知識」の「客観的事実」だけでなく、

「今の自分に語られている」という「主観的体験」を伝えることを目的としています。

(伝えられるかどうかは、かなりハードルが高いですが、、、ベストを尽くします。)

しばらくお付き合い下さい。

 

まず質問です。

あなたは、見えない存在(創造主)がおられることを、信じていますか?

(ここから始めます。)

その創造主が、あなたを「見て」おられ、「語りかけよう」としておられることを、信じて(知って)おられますか?

 

それ以前に、あなたは「神様から語って頂きたい」ですか?

 

私の話をします。(久しぶりです。)

私は、小さい頃から「見えない存在」を信じていました。

なぜだか分かりませんが、「守られている」ことを感じていました。

それは「旅行の時に晴れて」いたり、急いでいた時に「信号が不思議と青になっていた」ような日常の何気ない時に、でした。

当時良く分からなかったので、近くの神社とかお寺、道端の祠(ほこら)があると、いつも心の中でお祈りをしていました。

「守って下さってありがとうございます。これからもよろしくお願いします。」と。

 

20代でキリスト教会に行くようになり、

聖書を勉強して、「神様(創造主)がおられる」「私を造った方は、私に関心を持っておられる」ことを知って、とても嬉しくなりました。

「私に対する神様の目的」知って「人生の意義」を受け取りたい、と切望しました。

それから、聖書を毎日読むようになったのです。

 

そこ得た結論は、

○「主は私を知っておられ、愛しておられる」そして「人間に語ろうとしておられる」こと。

○しかし、人間は我が強く、自分のことしか考えていないので、「隔ての壁(罪)」を作ってしまって、人間は「主の言葉」を聞くことができないこと。

○「イエス様を信じ」罪赦されて、聖霊の助けを受けると、どんな人でも「祈ること」ができること。

(祈りは、一方的なものではなく、「神様との会話」です。当然、語ったり語られたり、訴えたり慰められたりという、交流があります。)

(・・・限りなくシンプルにまとめました。)

 

マルコ2:17

イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、『罪人を招く』ために来たのです。」

 

1コリント1:26 -27

兄弟たち、『あなたがたの召し』のことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の『愚かな者を選び』、強い者をはずかしめるために、この世の『弱い者を選ばれた』のです。

 

今回お伝えしたいことは、

イエス様は、「あなたを招いておられる」ことです。

迷いの中にいたとしても、イエス様はあなたに「こちらを見なさい。」と語って下さることです。

(選ばれた人は、そのような体験をします。)

ですから嵐の中でも安心して、「前におられるイエス様」を見て、

「ついて行く」ことができるのです。

 

前におられるイエス様の「強い招きの言葉」を聞いて初めて、

問題の中でも、イエス様を「前に置いて」進むことができます。

 

イエス様が「あなたに語りかけ」「招いておられる」ことを知って下さい。

(それを聞いたら、受け止めて下さい。)

 

キリスト教信仰は、聖書知識も大切ですが、根本は、「神様の体験」です。

その「体験」によって、「神様を知り、人生が変えられる」のです。

 

主があなたを「招いておられる事実」を受け止めることができますように。

 

マルコ2:14

イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが取税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。

 

あなたも、

「イエス様から語って」頂けますように。

祝福をお祈りしています。

 

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創造主を「自分の前に置く」恵み。〜最強の方が一緒にいてくれる、ということ。

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今回は、「信仰を持っている方、向け」の内容になります。

聖書のことを、まだあまりご存知ない方にあっては、

「クリスチャンのある方たちは、こんな考え方をするのか」という参考にして頂ければと願っています。

それでは、しばらくお付き合い下さい。

 

先回のブログで以下の文章を書きました。

・・・・・

神様(=創造主)を信じる人は、主を「目の前」に置いて生きるようになります。

「自分の考え」があっても、その前に「主を置く」のです。

つまり、「自分の考え」よりも、「創造主の考え」を「優先する」ようになるのです。

(「全能者の知恵」を尊重して生きるようになるのです。)

詩篇16:8-9

「私はいつも、私の前に主を置いた。主が 私の右におられるので、私はゆるぐこと がない。
それゆえ、私の心は喜び、私のたましい は楽しんでいる。私の身もまた安らかに 住まおう。」

・・・・・

 

最強のガードマンが、一緒に歩いてくれたなら、

とても「心強い」と思います。

仕事中に、何でもできる先輩が一緒にいてくれたなら、

こんな「心強い」ことはありません。

 

創造主を「目の前に置いて」生きるとは、このような安心をを体験できるのです。

具体例を4つほど上げてみます。

 

①プレッシャーが限りなく小さくなります。

「創造主を前に置いて生きる」とは、「盾を前にして」歩くようなものです。

「前から石」のような問題が飛んできたとしても、「怖くはありません」。

「石」(問題)は見えますが、

(具体的に)危害が加わらないので、(多少の衝撃はありますが)、

「安心」して、前進することができるのです。

 

②落ち着いて物事に対処することができます。

「創造主を前に置いて生きる」とプレッシャーがなくなる(又は少なくなる)ので、

「平常心」で問題に取り組むことができます。

そのため、「力む」ことがなくなり、

本来の力を発揮できるのです。(力を抜いて対応できるのです。)

 

③攻めの対処ができる。(受け身ではなく、積極的な対応)

プレッシャーが少ない分、

心配事や不安にかけるエネルギーを「削減」できます。

すると「気力」が充実してきます。

「問題解決にエネルギー」を「集中する」ことができるようになります。

 

解決の最大のポイントは、「気力」なのです。

「気力」が充実しているならば、「事前の対処」もできますし、

問題が「小さな内」に「早めに手を打つ」こともできるのです。

余裕を持って、策を進めることができます。

 

④想定外の展開になっても、動揺しない。

考えたこと以外の問題が発生しても、対処し易くなります。

「創造主が先頭」におられるので、そこに目を向けていれば、

「創造主の計画」の良い方向に「問題(トラブル)」自体が近づいていきます。

(「後ろにいる問題」が「創造主の計画(良い方向)」に変質していくのです。)

 

 

ですから「創造主」さえ見ていれば、乗り越えられるのです。

「創造主の力」の方が、

「問題の力」よりもはるかに大きいことをいつも確認しているので、

想定外の問題が見えても、恐れないのです。

 

 

 

以上、具体例を挙げました。

世の中には否定的なものが満ちています。

普通に生きているだけで、プレッシャーがあります。

そして、何かをしようと動き始めると、通常以上の様々なプレッシャーがやってくるのです。

 

「知識」でこのことを知っていることと、

実際に創造主を自分の前に置いて、「実践」している人では、

「雲泥の差」があります。

ですから、そんな中で、上記のような感覚で生きるためには、

「理論武装」が必要なのです。

(今回は要点だけ簡潔に書きます。)

 

それは創造主が、

Aどういうお方で、

B私に何をしてくれるのか、

を知る(学ぶ)ことです。(そして信じることです)

 

A創造主はどういうお方か。

aどんなことでもできるお方。

「私の前にいて下さる、創造主」は、全能者です。この世界を作られたお方です。

全知全能、何でもできるお方です。このことを信仰で受け止める必要があります。

 

b私を愛しておられるお方。

イエス様は、聖霊の力によって、「主」は「私のお父さん」と祈れるお方だ、と教えて下さいました。

創造主は天の父で、私はその子どもです。

 

そのお方が、「あなたの前」を歩み、「あなたに道を教えて」下さるのです。

 

B創造主は何をして下さるのか。

c私を守って下さるお方。
ここでは聖書の言葉だけを示します。

私の好きな聖句です。

詩篇18篇1-3節です。(ダビデの詩です。)

「彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。

主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。

ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。」

 

 (すべてが神様がして下さることです。じっくり読まれることをお勧めします。)

 

特に「主はわが巌、わがとりで」が、私の心には強く響きます。

主は私をグルっと360度、全ての敵から守って下さるのです。(私の実感です。)

 

現実におられる「あなたの創造主であるお方」が、

光の中の「前方」で、

あなたを「しっかりと見つめて」下さり、

あなたが主を見失うことがあったとしても、

「主」は決して「あなたを見失うことなく」、

いつも「導き続けておられる」ことを、

ある瞬間に「あなたは気がつく」のです。

(ここまでくると、信仰というより、事実の確認となります。)

 

最後に、、、

主を前に置いて生きるには、

C、「事実」を受け止める「謙遜さと素直さ」が必要です。

(このことは記しておかなければなりません。)

自我が強い人は、「主を前に置いて」生きることができません。

自分の意見が強すぎて、「主の後」について行くことができないのです。

 

例えば、

何でもできる素晴らしい先輩がいて、あなたの仕事に最善のアドバイスをしたとします。

しかし、もしあなたが「自我が強く」、そのアドバイスを「聞く気がない」なら、

アドバイスは、「何の役にも立たない」のです。

 

「創造主が目の前」にいて下さっても、

「ついて行く気がない」ならば、

あなたは「創造主とは関係のない」「自分が先頭の道」を歩むことになります。

 

「主を自分の前に置く」とは、単なる美しい言葉ではありません。

主の後について行きたい人は、

「主の考えは何なのか」という「探究心」が必要です。

そして、それを知ったら「愛する主を前に置く」(主の御後をついて行く)という「決断力」も必要なのです。

 

そのような習慣を持っている、愛する子ども(私たち人間に対して)、

主はいくつもの計画を語って下さるのです。

 

「主を目の前に置いて生きる」恵みを、

主は「信じ実践する者」に、与えられるのです。

 

詩篇16:8-9

「私はいつも、私の前に主を置いた。主が 私の右におられるので、私はゆるぐこと がない。
それゆえ、私の心は喜び、私のたましい は楽しんでいる。私の身もまた安らかに 住まおう。」

 

エレミヤ書33:3
わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。

 

祝福をお祈りしています。

 

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いつも「感謝できる」理由 その3 (主の命令)

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人によっては「自分の好きな言葉」を部屋の壁に貼る人もいます。

その言葉によって「自分を奮い立たせる」ことも起きるでしょうが、

今回は「言葉の力」について考えてみたいのです。

 

聖書の言葉です。
Ⅰテサロニケ5:16-21
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
5:19 御霊を消してはいけません。
5:20 預言を軽んじてはいけません。
5:21 ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。

 

「いつも喜び、絶えず祈り、すべてことに感謝する」

聖書の有名な言葉です。

きれいな素敵な言葉です。

しかし「こんなことはできないよ」と言う声も聞こえてきそうです。

 

注目したいことは・・・これは「神様の望んでおられることだ」ということです。

そして、ギリシャ語の原文でも「命令形」です。

 

つまり、神様が「喜びなさい。祈りなさい。感謝しなさい。」

と命令されているのです。(当然日本語でも命令形です)

 

神様が命令されている以上、そこには意味があります。

実際「喜び、祈り、感謝する」と精神的にも、肉体的にも健康になります。

(免疫色がアップし、風邪をひきにくくなります。当然現在の「はやり病」にもかかりにくくなるのです。)

 

つまり、理屈はともかく「命令として受け取る」ことに「意味」があるのです。

 

もう少し考えを進めます。

神様(=創造主)を信じる人は、主を「目の前」に置いて生きるようになります。

「自分の考え」があっても、その前に「主を置く」のです。

つまり、「自分の考え」よりも、「創造主の考え」を「優先する」ようになるのです。

(「全能者の知恵」を尊重して生きるようになるのです。)

 

詩篇16:8-9

「私はいつも、私の前に主を置いた。主が 私の右におられるので、私はゆるぐこと がない。
それゆえ、私の心は喜び、私のたましい は楽しんでいる。私の身もまた安らかに 住まおう。」

 

マラソンでエネルギーを温存するには、二番手が良いと言われます。

先頭に立つと、風の抵抗を受けますが、二番手は、それが少ないのです。

駆け引きとしては、ギリギリまで二番手で、ゴール直前で追い抜くのがベストです。

 

先頭を走り続けるのも良いですが、

特に、精神的霊的な領域では、「大きな存在」の後について行くのが、目的に到達する確実な方法です。

 

人間の精神は、思ったほど「安定していません」。

様々な雑念に振り回されて、心が準備できないことも多くあるのです。

 準備できていない時に、矢面に立ったなら、最悪です。

ボロボロにやられる可能性が高いのです。

 

だから「創造主」を「自分の前に置く」のです。

(自分を先頭にしないのです)

「自分の考え」があっても、「主の考えを優先する」生活をするのです。

 

この習慣ができると、「精神的に安定」します。

「主が前」を歩んで下さると信仰で受け取り、実際に体験すると、

「不安が無くなり」ます。

問題の中でも「恐怖感が無くなり」ます。

すると、「冷静」に自分の持っている「最大限の力」を発揮することができるのです。

結果、「一番良い成果」を得ることができます。

 

人は不安で孤独です。

しかし「主を前に置く」(置かせて頂く)だけで、

「不安や孤独から解放」されるのです。

 

その主が、

「いつも喜びなさい」と言っておられるのです。

それはあなたの幸せのため、あなたの人生の安全のためです。

(聖書でたくさんの事例を挙げることはできますが、今回は割愛します)

 

世の中には、悪が満ちています。

否定的な言葉が満ち、マイナスの力があふれています。

 

しかし「主を前に置き」、

「喜び、感謝する」ことを「主の命令」として受け止める人は、

それらの「マイナスを避けて」、生きることができるのです。

 

一度やってみて下さい。(命令として受け止めてみて下さい。)

その瞬間に、「スイッチが切り替わる」ように、

あなたの心に「光のような、力」が流れ込んでくるはずですから・・・。

 

まずは「感謝します」と言ってみましょう。

 

祝福をお祈りしています。

 

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いつも「感謝できる」理由 その2 (罪責感の解決)

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今回は、「罪責感」からの解放を、取り扱います。

「悪いことをしてしまったけど謝りづらい」

「悪気がなくしてしまったことを、許して欲しい」

生きていれば、失敗を避けることはできません。

意図せずしたことが、人を傷つけてしまったり、状況を悪化させ、後悔することは日常茶飯事です。

 

「自分が正しい」と虚勢を張っても、「アイツのせいだ」と責任転嫁をしても、

心の奥には、すっきりしない「モヤモヤ感」が残ります。

それが「罪責感」です。

 

心を落ち着けて、冷静に考えれば、「誰が悪いか」は明らかです。

「自分は悪くない」と言い続けても、「100パーセント悪くない」とは言い切れないことがほとんどです。

ですから人は、「心の奥」で「罪責感」を抱え、誰かに「許して欲しい」と願っているのです。

 

「ゆるし」は、キリスト教の「最も中心的な教え」です。

神様のゆるしを「赦し」、人間のゆるしを「許し」と漢字で分けて表現します。(一般的に教会で)

神様に「赦されて」いるから、自分を「許し」傷つけた人を「許す」ことができるのです。

(このことは、後で触れます。)

 

ご存知のことと思いますが、人間は、なかなか人を「許せ」ません。

聖書の中にイエス様が「赦し」についてのたとえ話を語っています。

それは、王様に借金を一万タラント(現在の価値で約6000億円)赦された僕が、

百デナリ(約100万円)の、友人の借金を許せなかった、話です。

 

実は、「人を許せる」ことは、「自分を許せる」ことと比例します。

自分を「80%程度許せる」なら、他人を「かなり許せる」のです。

自分を「10%程度しか許せない人」は、他人は「ほぼ絶対許せません」

 

そういう人は、自分の心の防衛反応で「自分は絶対に正しい」と主張しないと収まらないのです。

「自己正当化」を強く主張する人は、自分を許せない・・・つまり「罪責感から解放されていない」場合が多いのです。

 

ちなみに、クリスチャンが全員これができているかと言うと、実は「そうでもない」のです。

「知識」で知っていても、「赦し」を「自分のものとして受け止めていない」場合には、

自分を「平気で裁きます」し、人の落ち度は「徹底的に攻撃」するものです。

攻撃しないと心が収まらないのです。(「意識していない」場合が多いですし、「自分は許せている」気持ちになっている場合は、更に罪の根が深いのです。)

 

人を過剰に攻撃してしまう。

自分を正当化することが多い。(少し批判されるだけで、ムキになってしまう。)

もしそういう傾向があるとしたら、その人の「人生の課題」は、「罪責感からの解放」かもしれません。(多分そうです。)

 

罪責感とは、「自分で自分を許せない」感情です。

無意識で「自分を裁き続ける心」です。

 

では、どうしたら「自分への裁き」を止められるのでしょうか。

「罪責感からの解放」は、どのようにしたら良いのでしょうか。

 

それは、「ゆるしを体験する」ことです。

誰かから「ゆるされる」ことです。

それも「自分よりも権威を持った存在」から「ゆるされる」体験です。

 

第一ヨハネ3:20

「たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。」

 

それが神様からならば「赦し」となり、

両親や尊敬する存在からなら「許し」となります。

(赦しに近い感情のケースもあるでしょう。)

 

とにかく、自分は「許せない」が(この自覚も大事です。)、

権威ある存在は「赦してくれた」という体験が必要です。

(オセロがクロからシロに変わるような変化です。)

その時に初めて、「自分は赦された」、だから「自分を許す」という選択ができるのです。

(その後、「自分を傷つけた者を許す」という、選択が少しずつできるようになるのです。)

 

イエス様の地上での御使命は、「十字架の贖罪」でした。

創造主である(罪のないお方)イエス様が、

「全人類の罪」をすべて背負って、

死んで下さった(罰を受けて下さった)ことにより、

人類の罪(私の罪)が、赦されたのです。(これを「信仰」で受け止めると、「自分のもの」となります。)

 

悪魔は、「人間の罪」を永遠に告訴し続けています。

しかし、「イエス様の罪の赦し」を受け入れた者には、

攻撃できなくなるのです。

 

しかしそれでも悪魔は、「罪責感」を突いてきます。

その度に、「赦し」を受け入れている者たちは、(赦しを信じるクリスチャンは、)

「私は赦されている」と、

「感謝の告白」をし続けることができるのです。(罪責感を撃退できるのです。)

 

「赦す」と「宣告し続けて下さる存在」、がいることは「大きな感謝」なのです。

最高裁判所で、「無罪」と宣告されたなら、「無罪」です。

誰も、罪を指摘できなくなるのです。

 

ですから「罪の赦し」を体験した者は、

罪責感を見つける度に、

「赦されていることを感謝します」と告白できるのです。

 

新約聖書の代表的なクリスチャン、使徒パウロは、

自分は「罪びとの頭」だと表現しています。

しかし「キリストの愛に囲まれている」とも告白しているのです。

 

つまり「罪や罪責感」を自覚する度に、「赦されている、愛されている」ことが分かると、

「感謝」しか出てこないのです。

 

これが今回取り上げた「いつも感謝できる」理由です。

 

「いつも感謝する」ためには、

「罪責感」に対処する「武器」が必要です。

 

それが「イエス様」であり、「イエス様の犠牲、十字架」なのです。

「この武器」を活用したいと思いませんか?

ぜひ、今回取り上げた「罪責感からの解放」をご体験下さい。

祝福をお祈りしています。

 

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職場のパートの同僚が、いつもズルをしています。

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先日お答え頂いたクリスチャンのものです。「嫌味を言う同僚」について、もう一つ質問をさせて頂きます。

その方は、10歳ほど年上で、一緒に働いて5年ほどになります。

何かにつけて、「ごまかす・ズルをする」人で、自分のミスも他の人のせいにします。(とても上手にするので、気がつかれません。)

小さな嘘をつくことも頻繁で、正直ウンザリしています。

一番腹が立つことは、タイムカードを操作して、依頼された時間以上の給与を貰っていることです。

「8時から仕事をして下さい」と言われても、7時半にタイムカードを打つことはしょっ中です。

「21時で終えて下さい」と言われても、その時間にいつの間にかいなくなり、私が帰った後にタイムカードを押しているようです。

月給制がほとんどの会社なので、タイムカードの時間は細かくチェックされていません。

「バレない、儲けた」が口癖の人なので、私には確信犯のように思えます。

上司が気がついて欲しいのですが、気がつく様子がありません。私が報告するときっと「嫌味や嫌がらせ」をされるでしょうから、迷っています。

私はどういう気持ちで働いていったら良いでしょうか。クリスチャンとして「すべて神様に委ねたら良いのでしょうか。」

もう5年になりますが、このまま見過ごし続けるのも、正直しんどいです。アドバイスを頂けると幸いです。

 

Y さん、ご質問をありがとうございました。

職場で、5年間も、ややこしい同僚と一緒に仕事をされ、しんどい思いをされているご様子、大変だと思います。

今回も少し状況を整理しつつ、いくつかの対策を考えていきます。

クリスチャンの方の質問ですから、聖書が教える対処法の範囲内で、

選択肢を提供しますので、その内のいくつかを選んで下されば、と思っています。

しばらくお付き合い下さい。

 

職場のパートの同僚(Aさん)とお呼びします。

A さんには、やり方を変えて頂きたいですが、5年変わらない様子を考えると、Yさんは現実的な対応をすべきかもしれません。

まず、対処の前に、Aさんのために、「お祈り」をされるべきでしょう。(既にしておられるとは思います。)

Yさんの苦い種まきを、避けるためにも「お祈り」は不可欠です。

発言も、対処も「その人のためを思って」という動機で行うと、悪い感情での対処を避けることができます。

そして、そのような心で祈っていると「自分の動機に気づき」ます。

「ゆるせない罪」を自覚するかもしれません。

その罪を「十字架に告白して、悔い改める」と、Yさんの動機が「きよめられる」のです。

もしかすると、イエス様は「Yさんの心をきよめるため」この環境を置かれたのかもしれないのです。

すると「神様の愛の計画」を思うようになります。そう考えると「特別に愛されている」という「感謝」が湧き上がってくるのです。

 

最初の対策①は、「その人の祝福を祈る」です。

心を込めて祈りましょう。そうすれば、Aさんが次第に「可哀想な人だ」と思えてくるはずです。

「罪を犯し続けた」なら、どこかで必ずしっぺ返しがやってきます。

地上の生活だけでなく、死後の世界を考えても「罪を犯し続け」れば、恐ろしい結果が待っています。

それは、今得た「わずかな得、利益」よりも、ずっと「大きな恐ろしいもの」です。

そのことが分からずに、「利益を喜ぶ姿」は、滑稽であり哀れです。

 

箴言17:11

11 悪しき者はただ、そむく事のみを求める、それゆえ、彼に向かっては残忍な使者がつかわされる。

 

対策②としては、「基本的に悪は放置しておく。」(裁きを主に委ね、自分で復讐しない。)を考えていきます。

ローマ12:17-21

17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。

18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。

19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

 

「自分で復讐をしない」とは、何もしないことではないのです。

「飢えたなら食べさせる」「渇いたならば、飲ませる」とは、その人に「善の行い(愛情による行為)」をしなさいということです。

そこには「友人として、忠告する」も含まれているはずです。

(聞く気がある人に、限られていますが、、、)

 

箴言27:6「憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。」

箴言27:17「 鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」

 

祈りが深まると、その人に「良かれ」と思うことを考えるようになります。

「その枠」を出ないことです。

逆に言えば、「その枠の中(善行)」なら、かなりの範囲で「何をしても良い」のです。

「悪に対して、善でもって打ち勝つ」とはそういうことです。

そして「善行」とは、相手の上に「燃える炭火を積む」ことでもあります

(基準が分かる人はすぐに方向転換をします。しかし分からない人は、最終的にひどい結果が待っています。それが燃える炭火です。これは当人次第なのです。)

 

対策②のまとめとして、「悪は放置しておく」ことを心に留めましょう。(Yさんが現在しておられることです。)

クリスチャンの基本的な対応は、この観点です。

(逃げではなく、積極的に「創造主=善悪の基準であるお方」に委ねるのです。

しかし、戦いを放棄する訳ではないのです。

 

最後に③「然るべき備えをする」に触れて、今回の文章を終えます。

「備え」とはなんでしょうか。

それは「戦いの備え」です。

(「戦え」と言っている訳ではありませんので、ご注意下さい。)

 

もし、「戦うべき」タイミングが与えられたなら、戦わなければならない、という意味です。

クリスチャンは、正義のため、真理のため、戦う時があります。

しかしそこには「覚悟」が必要です。「戦い切る」という、覚悟です。

 

伝道者3:8

「愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。」

 

戦うとしても「戦いのタイミング」があります。

そして、もし戦わなければならないなら、

戦いに備え「準備」をしなければなりません。

勝つためには「準備」は絶対に必要なことです。

 

そのために「情報」を収集しましょう。

「事実」を集めましょう。必要ならば、「証拠を記録」しましょう。

 

箴言24:5-6

「知恵のある人は力強い。知識のある人は力を増す。

あなたはすぐれた指揮のもとに戦いを交え、多くの助言者によって勝利を得る。」

 

「証拠」を確保したら、基本は、使わずに持っておきましょう。

「使う必要はない」のです。

それは「抑止力」なのです。

いざとなったら「使えば良い」のです。

使う時は、「愛が動機」です。

 

そのような状況ですと、「精神的に優位」になります。

(自分を上げるための、マウントではないことに注意して下さい。)

使わないのは「愛情が動機」です。(相手を傷つけるのが本意ではないからです。)

もし戦う必要があれば、証拠を理路整然と明らかにするのです。

 

「戦えない」と、「意識的に戦わない」では、精神的に雲泥の差です。

(十分戦える準備はしていても、愛によって戦わない、この観点が大切です。)

「いざとなれば、この人は正論を語る、恐い人だ」と思われるぐらいが理想です。

 

もしかすると、「直接本人に話すこと」が愛情かもしれません。

(安易に行動しないで下さいね。愚かな人の場合、憎しみを生み出すだけですから)

 

イエス様の言葉です。

マタイ18章

18:15また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。 

 

本人に言うかどうかは、本人が聞ける状態の人かどうかを考えて、行動して下さい。

(愚か者の定義は、箴言25-29章を参考にして下さい。)

無駄な戦いはしなくても良いし、する必要がないのです。

 

ソロモンの言葉です。

箴言29章

9 知恵のある人が愚か者を訴えて争うと、愚か者は怒り、あざ笑い、休むことがない。

10 血に飢えた者たちは潔白な人を憎み、正直な人のいのちをねらう。

11 愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる。

 

「戦う必要性」がありませんが、「戦う可能性」を考えて、最低限の「準備」はしておいて下さい。

 

最後に一言。

周りの人と良い関係を作っておきましょう。

ローマ12:18

「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」

新改訳2017では「できる限り」と訳しています。

 

もし仮に、YさんがAさんと折り合いが悪くなった時、Yさんに味方してくれる人を作っておきましょう。

人に媚を売る必要はありません。しかし、正しい人が正当に評価される程度の、周りの人と良い人間関係は、最低限作っておいて下さい。

 

また、(自分の立場だけでなく)、上司の立場も考えましょう。

もし上司が、Aさんの所業を許容したならば、それはそれとして受け入れる心つもりを持ちましょう。(職場の責任は、上司が持っているからです。自己判断の裁きは控えるべきです。その場合は、Yさんも自分の正当な主張は伝えましょう。)

 

職場全体の益となることを考えましょう。

(上司のため、同僚のため、職場のため、祝福をお祈りしましょう。)

あなたが、会社で上司の立場を考え、「祝福を祈る人」であれば、会社の益のため、行動する人となるでしょう。(信仰の良心に反しない限りです。)

 

今回のポイントです。

①「祝福」をお祈りしましょう。

(Aさん、そして上司、職場の同僚たちの・・・自分の悔い改めの祈りも重視しましょう)

②悪は基本的には、「放置」しましょう。(主に委ねるのです。)

③しかし、万が一に備えて、「しかるべき備え」をしましょう。

(親しい先輩や同僚とよくコミュニケーションを取って、個人的な裁きにならないように心がけましょう。気持ちを分かってくれる同僚を見つけることも大切です。)

 

今回も、いろいろ書いてみました。(少しボリュームが多くなりました。)

この中の納得できる点を受け止めて下されば、幸いだと思っています。

祝福をお祈りしています。

 

 

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