少し前に「メメント・モリ」死を意識して生きる、という記事を書きました。
最近起きたことを覚えつつ、続編を書いてみます。
先週、クリスチャンの先輩が天に召されました。
61歳でした。
数年前に、難病の奥様を介護の後、天に送られ、
養女の方々を育てられた先輩です。
昨日、葬儀が行われました。
数人のご友人が思い出を語っておられました。
その言葉を聞きながら、「確かにそういう方だった」と思いました。
その方は、天真爛漫の方で、会議によく遅刻されました。
しかし悪びれずにニッコリとする笑顔で、なぜか憎めなかったのです。
美味しいものを食べるのが大好きで、同じく美味しいものが好きな友人と食べ歩いていたようです。
色々な伝説のある方でした。
私もある集まりで宿泊が一度同部屋になり、
家族のこと、子どもたちのことを分かち合いました。
子どもたちのために「お弁当」をいつも作っていることを、楽しそうに話しておられました。
アメリカで死にそうな目に遭い、何度も神様の助けを経験した、とも語られていました。
飾らない方でした。
いつも自分は脇役に徹し、人を助けようとされる方でした。
こういう気持ちでいるから、人から憎まれないんだろうな、と納得をしたものです。
当時若かった私は、大先輩方に遠慮をして、
気をつかいまくっていました。
しかしその方は、とても自然体で、大先輩にも平気で意見を言ったりしていました。
正直すごいな、と思いました。
どうしてこんなに自然体でおれるのだろうか。
なぜ緊張しないのだろうか、と不思議だったものです。
ご友人のお証を聞きながら、納得したことがありました。
その先輩は、
「イエス様を愛し」いつも見つめていたこと。
聖書の御言葉を「人生の糧」としていたこと。
人を変えるのは、イエス様で、
イエス様が中心だから、「自分は脇役」でも構わない、そう思っておられたようです。
いや、むしろ「脇役が好き」だったのではないか、
友人たちのお話を聞いて、そう感じました。
私が、大先輩たちをみて、気を遣い遠慮していた時、
「自分が中心」でした。
「自分が中心」で、全面に出ていたので、プレッシャーを全面で感じていたのです。
先輩は、「イエス様が中心」で、「自分は脇役」だったのだと思います。
(もちろん、人間ですから、完璧では無いですし、理想化しすぎるのは良くないです。先輩もきっと「そんな偉いものではない」と言われそうです。)
でも、生活の深い部分で、
かつての私より遥かに深い「イエス様との関係」を持っておられたのは、確かだと思うのです。
その先輩が、61歳という年齢で、
天に帰って行かれました。
数年前に天に帰られた奥様と、愛するイエス様のみもとで、
再会されていることでしょう。
先輩のことを思い起こしながら、
私も生涯をかけて、「イエス様との関係を深めていきたい」、
先輩がイエス様の脇役に徹していかれたように、
私も、イエス様と共に、出て行って、「イエス様の脇役になりたい」、と思いました。
こんなイエス様を愛する、先輩と出会うことができて感謝しています。
Y先輩、ありがとうございました!
天国で再会できる日を楽しみにしています!
お疲れ様でした!
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25〜26)
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