人生相談〜聖書、イエス様を信じる立場から

世界のベストセラー聖書の価値観から、生きるを考えます!(モノの見方が変わると、とても楽になります)

「ストレスを溜めない」生き方、考え方

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今回は、神様を「身近に感じる」時に経験する、「感覚(体験)」の一つをまとめてみたいと思います。

コロナ禍で、私たちはたくさんの「ストレス」を経験しています。

換気、社会的距離、マスク等々、今まで経験したことのないストレスです。

自分の力では「どうしようもない」環境です。

 

しかしこのような中でも、社会生活を送っていかなければなりません。

コロナは(普通の風邪やインフルエンザも含め)、「免疫力」が落ちた時に、かかりやすくなります。

ですから、今の時代「出来るだけ免疫力を上げる」ことが重要です。

 

そのために、休息と栄養を充分取る、

日光に当たる、適度な運動を取る、等の健康管理が大切です。

その中でも「ストレスを溜めない」ことが重要だと言われます。

(コロナのための、「お注射」は、打てば打つほど、自然免疫力が下がるという研究論文があるようですから、知恵深く対応する必要があります)

 

私の知っている会社の役職を持つ方が、こんなことを言っていました。

「新しい社員が入って来た時、前の会社の批判を言う人は気をつけるようにしている」

「入ってすぐに、自分の部署の問題点を指摘し、ここはこうした方が良いと、改善案を言う人も気をつけるようにしている」

「そういう人は、周りに注意がいかず、自分のことだけしか考えていない傾向がある」

「自分の任された仕事の意味が分からず、自分を正当化し、いつも人を批判することで、周りをかき回す」

「そして、ストレスを溜め、1年以内に会社を辞める」

なかなか鋭いご指摘だと思いました。

 

今回、ストレスを溜めない生き方として、

いつものように3つのポイントを考えていきます。

 

①「感謝」し、一旦は周りを受け入れていくこと。

②自分の基準に合わない人を、「許す」こと。

③人に関わる時は、「愛を動機」として言動すること。

そして、これらを継続して実行するためには、自分の気持ちをいつも理解してくれる存在、が必要であることにも、最後に触れたいと思います。

 

第1テサロニケ5:16-18

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

 

①「感謝」し、一旦は周りを受け入れていくこと。

ここまで読んでくださったは、きっと「ストレスを軽減したい」と考えておられると思います。

実際、難しい環境でそれができるのは「心の持ち方」にかかっています。

 

改善や正義感は良いのですが、

自分の置かれている状況を、「客観的に理解」することは、最初にすべきことです。

理解した上で、良い改善案が出てくるのです。

 

そのために必要なことは、「受け入れること」です。

先入観のない「現状分析」が有用です。

 

周りの状況を考えながら、「感謝します」と言ってみてください。

最初は、気持ちが乗らないかもしれません。

しかしそれでも「感謝します」と言い続けるのです。

 

すると先入観がリセットされます。

「感謝のメガネ」で、環境を見ると「感謝できること」が浮き上がってくるのです。

すると、「ひどい」と思っていたことの「背景」が見えてきます。

(批判だけをしている人には、決して見えてこない事実です)

背景が見えてきたら、改善案も「より精度の高い」ものとなります。

そのような視点を持てば、

あなたは、職場や集まりの中で、「より必要とされる人」となるのです。

 

感謝すると、以上のメリット以外に、精神的に楽になります。

(これが、今回のメインポイントです)

イライラが減ります。ストレスが確実に軽減されるのです。

 

②自分の基準に合わない人を、「許す」こと。

イライラの最大の原因は、「許せない心」です。

自分の基準に当てはまらない人を、徹底的に攻撃をすれば、スッキリするかもしれません。

しかし「返り血」は確実に返ってきます。

そして、同じ基準で「あなたも攻撃」されるのです。

 

売り言葉に買い言葉、という現象が起きます。

もし、周りが遠慮をして、言わない場合、

批判する人が「確実に一人」います。

それは「あなた」です。

自分で自分を裁くのです。(実はこれがストレスの「最大原因」なのです)

 

「人が許す」と言ってくれても、「自分で自分を許せない」と、「地獄のような苦しみ」に至ります。

だから普通、それを避けるために、「自分をごまかし」ます。

自分はできているフリをします。

それもうまくいかなくなると、「二つの物差し」を使います。

「自分は良いが、人はダメ」という物差しです。

しかし、これらもすべて「ストレス」になります。

 

一番良いのは、「ハイはハイ、イイエはイイエ」。

自分ができていない時には、素直に謝って、許しを求め、

人の失敗も、基本的には「許す」ことです。

これをすれば、「相当量のストレス」が無くなります。(本当です)

(やってみて下さい)

考え方の土台は、「お互い様」です。

「私も許して貰う」のだから、「人にも許す努力をする」のです。

 

クリスチャンの場合、ここに「イエス様の赦し」が加わります。

イエス様に赦され、イエス様が「わたしがしたように、あなたもしなさい」と言われていますから、

イエス様を信じる人は、「人を許す」ことがしやすくなるのです。

 

③人に関わる時は、「愛を動機」として言動すること。

イライラしている人との関わりも、愛を動機として言動します。

良い種を蒔きます。

 

これは、劇的な効果があります。

イライラに、イライラで対応すると、当然ストレスがかかります。そして状況がひどくなります。

 

しかし、良い種を蒔き続けると、嵐が静まります。

するとストレスが自然に減っていきます。

あなたができることは、「他人を変えること」ではありません。

「自分を変えること」だけです。

自分の考え方を変える、のです。

 

①②③を考えてきましたが、人間には感情があります。(結構厄介です)

理屈は理解できても、感情が受け止められないということが、日常なのです。

 

あなたの気持ちを理解してくれる存在がいて、

いつもサポートしてくれたならば、

それをしやすいと思いませんか?

 

あなたの友人や先輩が、応援してくれたのならば、

頑張ろうと思えるはずです。

しかし、人間には限界があります。

すべてを理解してもらえませんし、時間や空間の制約があります。

 

そこで「神様の存在」なのです。

「イエス様が、私と一緒」にいてくださるという感覚(実体験)が有益なのです。

 

「ストレスを溜めない」生き方、考え方をまとめてみました。

①「感謝」し、一旦は周りを受け入れていくこと。

②自分の基準に合わない人を、「許す」こと。

③人に関わる時は、「愛を動機」として言動すること。

「イエス様が共に居られると」という感覚(実体験)が非常に役立ちます。

 

参考にしてみてください。

祝福をお祈りしています。

第1テサロニケ5:16-18

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

 

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「神様が共におられる」という生き方、感覚。まとめ

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この一週間、ずっと「神様がおられる」と実感すると、生き方はどう変わるのか、

を言語化したいと模索していました。

 

ツイッターで、どう思いますか?と発信すると、

「愛されている」

「山上の説教のような生き方になる」

「人を許せるようになる」

「穏やかな生活ができる」等、

たくさんの応答を頂きました。

確かにそうだと思うと共に、大変勉強になりました。

(応答してくださった方々に感謝します。)

 

今回、

①知っていることと、実感はまったく違う。

②振り返れば、そこにおられる感覚。

③愛されている、満たされている、その先にあるもの。

という観点でまとめてみたいと思います。

感覚を共有し、互いに深めていけたらと願います。

 

①知っていることと、実感はまったく違う。

「畳の上の水連」(畳の上で泳ぐ練習をしても、実際とはまったく違うこと)

「耳学問」(耳で聞いただけの知識、知ったかぶり)

という言葉があります。

「神様が共におられる」ことも、同じです。

知っていることと実感はまったく違います。

 

神様が共におられるなら、苦しい時でも、平安があります。

体験している人は、苦しみの中でも、案外「ポジティブ」です。

しかし、知識だけの人は、パニックになります。

 

②振り返れば、そこにおられる感覚。

「共におられる」を言い方を変えると、私は上記の表現ができると思います。

遠くにおられるのではありません。

すぐ近くにおられます。

そして、すぐ近くにおられるならば、「目には見えなく」ても、おられるのです。

 

思い込みでは、無理やり考えているのでは、と考える方もおられると思います。

イエス様を信じる人にとっては、

思い込みではありません。

 

イエス様が「世の終わりまで共にいる」(マタイ28:20)と、言われています。

イエス様が、「嘘をつかない」と知っている方ならば、

「本当のこと」だと信じることができるはずです。

 

要は、私がそれを「分かっているかどうか」

「体験しているかどうか」の問題です。

 

その感覚を持つと、

「安心感」がわきます。

「自己肯定感」があります。

未来に対する不安が「なくなる」のです。

 

今まで、「認められる」ために、努力していた人が、

「すでに認められていた」こと、に気がついてしまいます。

必死に認められようと「足掻く」必要がないこと、に気がつくのです。

 

「ほんわかとした、温泉のような、陽だまりの喜び」

心の「平安」が、湧き上がるのです。

 

③愛されている、満たされている、その先にあるもの。

愛されていることが分かり、満たされている実感が湧くと、

「行動の動機」が変わってしまいます。

 

自己実現(自分が決めたことを達成したい衝動)は、意味を為さなくなります。

それで、自分を支える必要がなくなるからです。

 

また承認欲求(認められたい、自分を認めさせてやりたい衝動)も、弱体化します。

そんなに頑張って意地を張らなくても、すでに「認められている」ことを知っているからです。

 

自己中心的な衝動が、消えていく、または小さくなるのです。

そして「愛してくださった方」に喜ばれるように生きていきたい、と動機が変えられるのです。

 

具体的には、

「神様に喜ばれたい」、

周りの人々に対して「ニーズに応えたい」、

私が愛されているように、その人々を大切にしていきたい、と動機が変化します。

 

聖書は(イエス様は)こう言っています。

「『心を尽くし,思いを尽くし,知力を尽くして,あなたの神である主を愛せよ.』これがたいせつな第1の戒めです.『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ.』という第2 の戒めも,それと同じようにたいせつです.律法全体と預言者とが,この2つの戒めにかかっているのです」

(マタ22:37‐40)

 

この主の「ご命令」を、強制的ではなく、

「自分の喜び」として、行動できるようになる、変えられる、、、

これが、クリスチャンが進んでいく方向だと思いますが、いかがでしょうか。

 

ここまで読んでくださってありがとうございました。

皆さんが「神様が(イエス様が)共におられる」ことを通じて、

たくさんの恵みを受け取り、体験できますように。

 

共に深めてまいりましょう。

祝福をお祈りしています。

 

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「雑念の嵐の中」での、心の平安

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本日は、雑念の中で、「心がリセット」され、心穏やかになるには、

どうしたら良いか。

どこに「心の焦点」を当てたら良いか、について考えます。

 

今回のポイントは、以下の2点です

①イエス様(神様)を意識して祈ること、お話すること。

②感情を吐き出すこと、受け止めて貰うまで祈ること。

 

皆さんは、心がざわざわする時には、どうしますか。

気分転換に、お茶を飲んだり、

好きな動画を見たり、

一度、今の気分をリセットするには、それらは効果があります。

 

私は時間があれば、車でしばらく走って、近くの山の中腹にある「展望台」に行きます。

そこは、私の祈りの場所です。(ほとんど人がいません)

 

そこから下界を見ると、家も車も豆粒のように見えます。

「自分の苦しみも、小さく大したことはない」と思いながら、神様に祈るのです。

(心がリセットされます)

 

何か、「リセット」のため、自分なりの方法を持っていることは、大切です。

心は「正直」です。

メンテナンスをおこたると、胃が痛くなったり、頭痛がしたり、めまいになったり、

どこかの弱いところに出てきます。(我慢し過ぎると、後で大変です)

 

ですから、心の耳を研ぎ澄まして、自分の「心の声」を聞く必要があるのです。

 

そして、「心の声」を聞いたなら、

次にすることがあります。

それは、、、その心を誰かに「受け止めて貰う」のです。

 

そのお相手は、安心感がある存在である必要があります。

また、解決する方法を知っている存在でなければいけません。

(そうでなければ、安心して、すべてを吐き出せません)

 

あなたには、そんなお方は、おられますか?

私も、そのような友人や先輩がいます。

何かあったら、電話をかけます。

 

しかし、日常は「お祈り」です。

イエス様に祈ります。

 

人は、いつもそばにいてくれません。

またいくら優れた人でも、私のすべては理解できません。

(理解しようとしてはくださいますが)

 

人は「山の裾野」のような助けは与えてくれますが、

「山の頂上」のような助けは与えられません。

(この意味を分かって頂けますでしょうか)

 

イエス様はいつも私を見ておられます。

ですから、もしあなたが「イエス様」につながり、心のすべてを吐き出すことができるなら、

あなたは、「心の深い部分」まで、平安が与えられるのです。

 

そのための今回のポイントです。

①イエス様(神様)を意識して祈ること、お話すること。

②感情を吐き出すこと、受け止めて貰うまで祈ること。

 

嵐を静めて下さる、イエス様。

イエス様に「祈り切る」(感情を注ぎ、開け放つ)大切さを考えます。

 

マルコ4:38-41

37 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。

38 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思わないのですか。」

39 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。

40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」

41 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

 

ここで理解の前提となる感覚は、イエス様が近くにおられるという感覚、です。

クリスチャンの方々は、それを習得しています。

そして、イエス様が「祈りを聞いて下さり」「すぐ身近にいて下さる」ことを、

悟るようになります。

 

イエス様が身近におられるので、

イエス様にお話できるのです。

(この感覚は、非常に大切です。)

 

ところが、この聖書の場面では、

イエス様は、眠っておられました。

弟子たちは、イエス様を揺すって叫びました。

「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思わないのですか。」

これは「冷静な言葉」だと思いますか?

いいえ、「感情的な叫び」です。

 

①「誰に」訴えるかは、非常に大事です。

自分なりのイメージであっても構いません。(段々とはっきりしていくものです)

「イエス様に訴える」のです。

 

祈りは、「対象が重要」です。

「イエス様に訴え」れば、「イエス様が答えて」下さいます。

曖昧な祈りでは、誰にお願いしているのか、分からなくなります。

そういう祈りは、聞かれません。

いや、その言葉は、祈りになっていない可能性があります。

独り言を呟いているだけかもしれないのです。

 

祈りは「対象が重要」なのです。

「イエス様」に、はっきりと祈るのです。

 

②祈りは、「感情の叫び」でなければなりません。

客観的な言葉、知識だけの情報、では「あなたの心」は届きません。

「イエス様、何とも思われないのですか?」

弟子たちのように「感情」でそう叫ぶ時に、

イエス様は、その感情を「受け止めて」下さるのです。

 

「感情」を通じてイエス様が働かれた時、

あなたの「感情が満たされ」ます。

その時に、「心の平安」がやってくるのです。

ご理解頂けたでしょうか。

 

聖書を見ると、初期の弟子たちは、信仰がなく(マルコ4:40)

心が固く閉じていた(マルコ6:52)とあります。

ですから、最初は良く分からずに、右往左往していました。

 

しかし、イエス様を身近に感じる中で、

(具体的には、聖霊が働かれる十字架と復活以降ですが)

イエス様に日々叫び、助けを感じて、成長していったのです。

 

雑念の中で、平安を受けるには、

「自分の心をリセット」する必要があります。

そして、自分の感情(本音)を「自覚」することです。

その上で、

①イエス様に、訴えます。

②自分の感情を叫びとして、訴えます。

 

それによって

「イエス様が働いて」下さるのです。

深い「心の平安」が与えられます。

(理屈っぽい書き方ですが、敢えてプロセスを言語化しています)

 

イエス様は、眠っているように見えても、決して眠ってはおられません。

私たちの叫びを聞き、解決の何かを見せて下さるのです。

 

雑念で振り回されている時、

参考にしてみてください。

 

祝福をお祈りしています。

 

詩篇121:1-4

1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。

2 私の助けは、天地を造られた主から来る。

3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。

4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。

 

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「祝福の種」をまく、という視点。「祝福」すると祝福される。

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今回は、「祝福の種」をまく、ということを考えていきます。

種まきと刈取りの法則です。

「祝福の種をまくと、祝福される」という「シンプルな法則」を考えていきます。

聖書を知る者にとっては、何度も聞いていることだとは思いますが、

私なりのアレンジで説明してみます。

 

まずは聖書箇所です。

ガラテヤ6:7-9

「7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

9 善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」

 

ここに書かれていることは、非常にシンプルです。

それは「蒔いた種」の通りの「刈取り」がある、ということです。

(そして、それを支配しておられる創造主(神様)がおられる、という視点です)

 

つまりそれは、「祝福されたい」(幸せになりたい)ならば、

「祝福の種をまく」必要があるということです。

 

しかしこれが実際にはとても難しいことなのです。

「人から悪口を言われる」

「無視をされる」

「誤解され、攻撃される」

「運転中、急に割り込みをされ、事故に遭いそうになる」

自分の身に「迫れば迫るほど」、人は「感情的」になります。

 

思わず「倍返しだ」と叫びたくなります。

ドラマでは、すっきりしますが、実際の社会生活でそれをすると、

「大変なことになる」のが通常です。

 

「売り言葉に、買い言葉」となり、エスカレートします。

人を傷つけるばかりか、返り血を浴びて、負傷をします。

たとえ、そのグループの責任者であっても、禍根を残すことになり、

修復は、後から大変となります。

(ましてや、後輩ならば、よっぽどの正当性がない限り、握り潰されます)

「言わなかった方が、良かった」となるのです。

 

「問題点を指摘しない」という意味ではありません。

「表面的な平和だけを考えて、問題を見ないフリをする」でもないのです。

 

それでも言わなければならない場合があります。

その場合、入念な準備(心の準備、正当性を伝えるための準備)が必要です。

準備なく、突撃するのは、玉砕(全滅)のリスクがあります。

 

今回は「心の姿勢」と「実際の対応」とを、分けて考えようとしています

そして前者「心の姿勢」についてまとめようとしています。

(心の姿勢が整えば、実際の対応は上手くいくことが多いですから、、、)

 

本題に戻ります。

「人から悪口を言われる」

「無視をされる」

「誤解され、攻撃される」

「運転中、急に割り込みをされ、事故に遭いそうになる」

 

このような場面では、

通常は、「肉」が反応します。「自我や感情」が震えるのです。

 

しかし、ここが一番大切なポイントです。

(注意して読んでください)

「肉でまく」と「滅び」を刈取ります。(通常悪い結果になるのです。)

 

しかし「御霊の種」をまく、ならば、

御霊から永遠の命(神様からの祝福、幸せ、平安等の良いもの)を刈取ることができるのです。

 

具体的には、「相手を祝福する」ことから始まります。

「相手の祝福、幸せを祈る」のです。

 

「あんな奴のために、祝福なんて祈れない」そう思う方も多いでしよう。

しかし、本当にそうでしょうか。

 

あなたは祝賀が欲しいですか?

欲しいと思います。

では、あなたは祝福を受ける資格はありますか?

(自分の心を考えてみてください)

普通の人は、「自分は問題が多く、完璧ではない、だからもしかすると祝福をもらえないかもしれない」と考えます。

(私は立派で、十分価値があると言われる方は、気をつけて下さい。あなたは、高慢という聖書が最も嫌う、心の歪みを持っている可能性があります。恐ろしい罪です。)

 

あなたの人間性と、嫌なことをした相手の人間性。

イエス様の視点(きよい創造主の視点)で見るならば、どんぐりの背比べ、です。

(大した違いはない。、、、双方ともひどい、のです)

(ひどいことの自慢ではありません。)

 

あなたが、創造主から「赦されて」(この点も重要です)、

あなたが「祝福を受けるために」、

「良い種をまくように」と願われているのならば、

「実行する」ことは、「得策」ではないでしょうか。

 

ですから、、、

いつも「瞬間的に祈る」のです。

「人から悪口を言われる」

「無視をされる」

「誤解され、攻撃される」

「運転中、急に割り込みをされ、事故に遭いそうになる」

そのタイミングで、「瞬間的に祈る」のです。

 

感情に負けてはいけません。

法則は、法則ですから、交通信号青であれば、通常進むことができるように、

「祝福の種をまけ」ば、安全なのです。

 

繰り返しますが、感情に負けてはいけません。

(この場合)感情を信用してもいけません。

感情は変わります。周りの景色が変われば、一瞬で変わってしまいます。

 

種まきは、「神様の法則に沿って」実行するものです。

厳しい時こと、意図的に心の中で、「良い種」をまきましょう。

「お相手の祝福」をお祈りしましょう。

 

それをし続けると、不思議なことに、「私たちの心」が変えられるのです。

ですから、まずあなたの口、言葉で「祝福します」と告白し、実行してみましょう。

イエス様からの助けと導きを、お祈りしています。

 

ガラテヤ6:7-9

「7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

9 善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」

 

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「すべてのことが益となる」聖書が教える視点

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コロナ禍で、私たちはこの2年間、さまざまな苦しみを体験しました。

今まで体験したことのないような死への恐怖。外出自粛に伴う人との分断。マスクでの不自由な生活。

社会的な抑圧と攻撃。

ストレスが何重にもかかる生活を、私たちは長く強いられてきました。(現在も続いています)

 

「すべてが益となる」と聖書に書かれています。

その意味は、どのような意味なのかを、まとめてみたいと思います。

 

「すべてが益となる」

そんなことあるわけがないじゃないか、と言われる方もおられると思います。

しかし良い、悪いは、「見る視点」によって変わります。

 

「人間万事塞翁が馬」という諺がありますが、

一見「悪い」ことに思えることが、実は「後の幸福」につながることがあります。

(息子が馬から落ちて足を折ったことが、戦争に行けず命が助かった中国の故事)

そのようなことは、現実にあります。

 

「ケ・セラ・セラ」(なるようになる。頑張っていれば、報いがある)という言葉もあります。

 

しかし、聖書は、「生きておられる神様」がおられることが、前提です。

①「生きておられる神様」が、「意志をもって働かれる」ことを記しています。

またその目的は、

②「人間的な成長にある」ということも書かれています。

 

ローマ人への手紙8:28-29

「28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。

29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」

 

①「神様が意志をもって働かれる」「助けて下さる」

この聖書箇所の直前の内容は、

「8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」

 

苦しみの中で、神様は私たちを「放置」されません。

「目が開かれる」ならば、

放置されているように思えても、「神様の助け」を見つけることができます。

 

後になって「振り返る」ならば、

「あの時には実は助けがあった」と思える案件が多くあるものです。

 

その時には、「何もない」と思えても、

「何かがある」と考えて、周りを見る時に、

「助けを見つける」ことができることは、多くあります。

 

「以前助けがあった、今回もきっとある」

その根拠となる言葉が、今回の聖書の言葉です。

 

「神様が助けて下さる」と、聖書に書かれています。

そして実際に「助けがある」のです。

聖書の言葉は、「口先だけの言葉」ではなく、

「実感を持った、言葉」です。

 

②苦しみ、災いの目的は「人間的な成長にある」ということ。

「8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」

 

「すべてが益となる」に続く聖書が、上記の内容です。

苦しみや、その助けを通じて、

「キリストの姿」になると書かれています。

つまりそれは「人間的に成長する」ためのものである、と言うことです。

 

苦しみの中で、私たちが「どう考え、判断するのか」が大切です。

自警警察のように、自分の正しさを振りかざして、人を斬りまくることは、

人間的な成長では、マイナスです。

(勿論、バランスの取れた判断は、必要です)

 

コロナ禍で、聖書の教える価値観は、

「神様を意識した生活」です。

 

私たちの「心の姿勢」が問われるのです。

「信仰と希望と愛」これが聖書が大切にする価値観です。

その中で、「愛」が最も大切であると書かれています。

(問題の中で、私の愛の成長が問われます。厳しいですが、、、)

 

苦しみの中で、「希望」を持ち、「信じ」、人を「愛し」つづける。

それを、その時に助けられても、仮に助けられなかったとしても、

私たちが持つべき姿勢です。

 

聖書の前提は、私たちのいのちは、「肉体を持った現世で終わらない」と記されています。

極端な話、たとえ「死を向かえ」ても、それまでの労苦(訓練)は、「死後に影響を与える」ということを知る必要があるのです。

 

そう考えると、「苦しみにどう向かうのか」という「心の姿勢」が問われていることに、

「襟を正される」ような気持ちになります。

 

すべてのことが益となる、それは、

①私を愛して下さる神様が、積極的に働いてくださり、

「物事を良い方向に」変えていただける。助けて頂ける。

 

②たとえ思い通りにはならなくても、それらの苦しみは、

「キリストに似るための訓練」となり、

「永遠の世界の財産となる。

願い事を聞いて下さる神様には、「意図と願い」がある。

 

上記を、聖書は明確に記しています。

参考にして頂ければ幸いです。

コロナ禍で、私たちは「神様の助け」を経験し、

「人間的な成長」をさせて頂けるのです。(きっと、そういうことです。)

 

祝福をお祈りしています。

 

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神様を体験するには。神様の御臨在を体験するヒント。

f:id:jesuslovesmeus:20220217114236j:plain

今回は「神様を体験するヒント」を、「聖書」から考えてみます。

単なる知識ではなく、実践的な内容を目指します。

しばらくお付き合いください。

 

神様を「日々体験」できるならば、素晴らしいことが起こります。

「愛されている」ことを実感できます。「心が満たされ」ます。

人への過剰な「承認欲求」という地獄から、抜け出すことができます。

精神状態が「安定」します。

「不安」がなくなります。

人から「誤解」を受けても、自分のすべきことを、「愛情深くコツコツ」することができます。

結果、人から「信頼」され、自然に「尊敬」を受けるのです。

良いこと尽くしです。

 

ですから、私たち人間は、お金や地位やプライドよりも、

「神様に満たされること」を追求すべきなのです。

 

「神様を体験する勘所」として、3つを考えます。

①シンプルに求めること。

②自分の肉(自我)を明確に意識すること。

③肉以上に、神様を求めること。それを習慣化すること。

 

今回は最初に聖書箇所を取り上げます。(今回のテーマの方向性を示します)

ルカ11:9-13

「9わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

13とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

 

2コリント3:16-17

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。

主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」

 

ヤコブ4:8

「 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心ある人たち。心を清くしなさい。」

 

①シンプルに求めること。

新約聖書のギリシャ語の現在形は、「継続の意」を含んでいます。

ですから、「求めなさい」は、「求め続けなさい」という意味なのです。

 

1つ質問をします。

「あなたは、神様を体験したいですか?」「神様の助けが欲しいですか?」

この質問に、「本気でハイ」と答える方は、「何かの問題や困難」に出会っている人だと思います。

または、「本質を求める人」で、「神様しか満たすことができないものがある」と、知っている人かもしれません。

 

特に現在、問題や困難に出会っている人に、お尋ねします。

「その問題がなくなっても、あなたは神様を求めますか?」「神様とのつながりを求めますか?」

かなりの人が、「イイエ」と答えるのではないでしょうか。

それほど人間は、自己中心で自分の欲求を中心にして、生きているのです。

(批判をしているのではありません。私たちの現実を確認しているのです)

 

神様を本気で体験したいなら、困難がなくなっても、求め続ける姿勢が大切です。

つまり「神様しか、満たすことができないもの」があることを悟って、

「本気でいつも求め続ける」のです。

 

お金も、地位も、プライドも、「あなたの心とたましいの渇き」を、

本当には満たすことができません。

定年退職、高齢、病気、、、死を迎えるまでに、すべての支えは崩れていきます。

それらは「砂上の楼閣」なのです。

 

あなたが神様を信じる人であれば、最後の最後には、

「神様しか自分を支えられない」と悟ります。

悟れなくても、追い込まれます。

「自分の土台は、神様だ」、、、そうなります。

そんな気持ちで、神様を求めるのです。

シンプルに求め続けるのです。

 

②自分の肉(自我)を明確に意識すること。

先回取り上げた、盲人バルテマイを、今回もう一度取り上げます。

 

マルコ10:49-50

49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。

50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐに立ち上がって、イエスのところに来た。

 

彼にとって「上着」は盲人の唯一の財産で、夜具で絶対に必要なものでした。

野宿する時には、それが布団の代わりになりました。

 

再び質問をします。

あなたが「自分の支え」としているものは、何ですか?

神様以外で、あなたが「実際に支え」としているものを、思い起こして頂きたいのです。

 

お金ですか?地位ですか?友人や家族ですか?

又は、あなたのプライドですか?

ある人は、自分が決めたゴールに向かうことを、生き甲斐にしている人がいます。

だから、目標がなくなると不安になります。

自分に価値がなくなる感覚になるのです。

 

自分が「執着」しているもの。

「これがないと生きていけない」というもの。

それらを思い起こして下さい。

 

正直になることが大切です。

ある人は「異性や親」を支えとしています。「兄弟や友人」を支えにしている人もいます。

自分が「最も執着しているもの」を、自覚して欲しいのです。

 

③肉以上に、神様を求めること。それを習慣化すること。

 

信仰の父、アブラハムは、

自分の命よりも大事な、「イサクを捧げよ」という神様の命令に従いました。

高齢で生まれた子供です。可愛いだけでなく、財産を相続する唯一の子供です。

「イサクがいなくなる」ことは、自分の人生の後半の「全否定」でもあるのです。

 

「すべてを与えて下さった神様」を求めるのか、「与えられたもの」を選ぶのか。

理屈では、神様ということになりますが、感情はそう簡単にはいきません。

理想通りには、普通はできないものです。

 

しかしアブラハムは、神様のテストに合格したのです。

「神様を選び」ました。全てを与えてくださった方を「一番」にしました。

このことが、評価されたのです。

「肉の思いより、神様を選ぶ」

これを日常的にする人は、神様に出会い続けます。(本当です)

 

「肉を捨てる」のです。

自分の執着するもの以上に、「創造主を求め、選び続ける」のです。

 

「これは難しい」きっとそう思われるはずです。

確かに、この応答は最初は難しいです。

しかし少しでもできるようになると、

加速がついて段々と、神様を選ぶことが「自然に」なっていくのです。

自然になるところまで、「習慣化する」ことが大切なのです。

 

「小さなこと」から始めましょう。

朝起きたら、まず神様にお祈りをする。

食事の前に、祈る。

車の運転の前に、祈る。

何かの大事な仕事をする前には、必ず祈ってから始める。

 

小さなことかもしれませんが、

習慣化の力は、素晴らしいものがあります。

 

いつもシンプルに、神様を求め続けましょう。「 満たし」を願いましょう。

 

自分の執着するもの、自分自身の自我や常識を、「自覚」して、

「それらの『肉の考え』以上」に、「神様を求める」のです。

小さなお祈りを積み重ねることです。

 

神様に近づくための、「種まき」をするならば、

神様の御臨在を体験する、「霊的刈取り」を必ず受け取ることができるのです。

 

神様の御臨在を体験することは、素晴らしいことです。

祝福をお祈りしています。

 

ヤコブ4:8

「 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心ある人たち。心を清くしなさい。」

 

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「聞かれる祈り」を教えてください。

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私はクリスチャンです。「神様に助けられるため」に、どんな祈りをしたらよいのか、お聞きしたいです。

日常的にお祈りはしているのですが、なかなか祈りが聞かれる実感がありません。

特に問題が起きたり、忙しい時には、目の前のことに没頭してしまって、祈りを忘れてしまいます。

心が整ってから、お祈りしようとするのですが、結局整わないので、祈ることができずに終わることが多いです。(後から、祈っていなかった、と反省しますw。)

「どんな風に祈ったら良いのか」アドバイスを頂けますでしょうか。よろしくお願いします。

 

祈りについてのご質問ですね。

祈りは、知識ではなく体験ですので、

言葉でお伝えすることにはハードルが高いのですが、

できるだけ分かりやすく努めてみます。

しばらくお付き合い下さい。

 

祈りの一番大事なポイントは、「正直であること」です。

分からない時には分からないと、言える正直さです。

 

水に落ちてしまった時、本気で、助けを求める場合、水の中で叫びます。

陸地に上がってから、助けを求める人はいません。

 

水の中で、助けを「求めない」とすれば、

「自分の力で出来る」と、考えているか、

「叫んでも、助けて貰えない、聞いて貰えない」と、諦めているか。

のどちらかです。

 

ご自分の祈りが、どのようなものかを、正直に冷静に吟味する必要があります。

内省無くして、解決はありません。

 

質問者さんは、「心が整ってから、お祈りを」と書かれていましたが、

本来お祈りは、「溺れている時」にするものです。

どうして溺れている時に、お祈りをしようとしないのか、考えてみましょう。

 

今回取り上げる人物は、バルテマイと言う盲人です。

マルコの福音書10章に出てきます。

彼の祈りを通じて、ご自分の祈りがどういう祈りなのかを、考察することができれば、幸いと考えています。

 

バルテマイのお話をさせて頂きます。

彼は、盲人でした。

そしてイエス様のうわさを聞いていました。

それは、「ダビデの子孫で、聖書に預言されている、救い主がこの方である」

「どんな病気でも、癒すことのできる、不思議な力を持っておられるお方」といううわさでした。

 

イエス様の一行がある日、バルテマイのすぐ近くにやってきました。

彼は、周りの人の言葉でそのことを知りました。

千載一遇のチャンスでした。

しかし彼は盲人です。誰かが助けてくれなければ、イエス様の所に行けません。

それに助けてくれそうな人は、周りには誰もいませんでした。

彼は「あきらめた」でしょうか。

 

いいえ。あきらめませんでした。

精一杯、叫んだのです。

「ダビデの子、イエス様。私を憐れんで下さい!!」

何度も叫びました。

周りの数人の男性たちが「うるさい静かにしろ」と言いました。

しかし、バルテマイは、ますます大声を上げたのです

その大声は、イエス様にも、周りの弟子たちにも聞こえました。

 

優しいイエス様は、立ち止まって「あの人を読んできなさい」と言われたのです。

弟子の一人が彼に「心配しないでよい。さあ立ち上がりなさい。あの方があなたをお呼びになっている。」

するとバルテマイは、すぐに立ち上がりました。

上着を脱ぎ棄て、イエス様を求めて歩き出したのです。

(上着は、貧しい彼にとって、一着だけの大事な夜具でした。これがないと夜に風邪をひいてしまいます。しかし彼は上着よりもイエス様を求めたのです)

 

バルテマイを見て、イエス様は静かに言われました。

「私に何をしてほしいのか」・・・優しい声でした。

バルテマイは、大声で叫びました。「先生。目が見えるようになることです。」

イエス様はバルテマイをじっと見つめて、

「さあ行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」

と言われたのです。

その瞬間。バルテマイの目がはっきりと見えるようになりました。

それは瞬間のことでした。

バルテマイは、驚きでポカンとした顔になりましたが、

はっと我に返ると、狂ったように叫び踊りだしました。

イエス様は、バルテマイのを見つめ、にっこり笑いました。

バルテマイは、踊りながらイエス様について行ったのです。

 

このバルテマイの姿を通じて、

祈りについて三つのことを考えたいと思います。

 

第一に「バルテマイは、目が見えない中(問題の中)で祈り求めた」のです。

目が見えないという、究極のハンディの中、

諦めることなく、求めました。

「問題の真ん中」で、祈ったのです。

 

質問者さんにお勧めします。

イエス様への祈りは、「問題の中で叫ぶ」ことであると。

 

第二に「バルテマイは、うるさいと止められても。ますます求めた」のです。

祈り始めても、すぐには答えはやってきません。

むしろ祈れなくなるようなことが、起こったりします。

しかしそれで諦めてはいけないのです。

諦めたら終わります。イエス様に助けて貰うまで、叫び続け、求め続ける必要があるのです。

 

第三に、「夜具よりもイエス様を求めた」

夜具は、自分の安心材料や支えを象徴するものです。

しかしイエス様に近づくためには「平気で夜具を捨てる覚悟」が必要なのです。

 

どうでしょうか。

バルテマイの必死の祈りと、

イエス様が「あなたの信仰があなたを救った」という言葉に注目したいのです。

 

信仰は「信じる心」「求める心」です。

それが強いほど、聞かれます。

 

先ほど、祈りは「正直であること」が大切である、と書かせて頂きました。

この文章を読みながら、きっと質問者さんは、

自分が「出来ていること」と

「出来ていないこと」

を感じておられると思います。

 

今のご自分を正直に見つめて下さい。

そしてイエス様に祈って下さい。

 

例えばこんな風にです。

「イエス様。私はあなたを信じています。しかし正直に言えば、バルテマイのように求めていません。自分の力に頼ってしまって、あなたに本当の意味で頼っていないことに気がつきました。私を助けて下さい。」

 

またはこんな風にです。

「イエス様。私に声をかけて下さい。私はあなたの所に行きたいのです。あなたに声をかけて頂かなければ、あなたの所に行くことはできません。どうか私に語り掛けて下さい」

 

大事なことは、苦しみの真ん中で、ドロドロな状態の時に

叫び求めて祈ることです。

イエス様は、そんなあなたの祈りを確実に聞いて下さいます。

 

祈りを体験する人は、だれもが、その「苦しみの中」での「答え」を受けるのです。

一度苦しみの中で「答えられた」という経験をすると、次の答えは案外早くやってきます。

「0から1」が一番難しいのであって、

「1が2」になることは、そんなに難しくありません。

 

ぜひ、バルテマイを参考にして、最初の一歩「0から1」を乗り越えて下さい。

そして祈りがいつも聞かれているという「至福の喜び」を、

経験して頂きたいと願うのです。

祝福をお祈りしています。


ヨハネ 16:24「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」

 

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